続・相対性理論への疑念(34)(’17/6)

〜興味深い指摘ASRTには実際には19個の『仮定』あり(1)〜

私の中に相対性理論に対する疑念が芽生えて以来(もう7年になります)、今までずっと内外サイ
トを当たり、自分でも考え続けてきているのですが、これに関してそういうモチベーションが私の
中で出て来た時、相対性理論学者を含むEinsteinians*とANTI-Relativityの主張(説明)において、
同じテーマで正反対の説明がなされていて、物理学が好きなのに、自分自身の浅学菲才という
か知識・知見の曖昧さに愕然とした覚えがあります。
更に、Einsteniansの方々の間でも、また、反相対性理論(ANTI-RELATIVITY)の方々の間でも、
色々と異なる意見を目にしてきました。

 *Einsteins:私は本コーナで再三、この用語を用いていますが、相対性理論支持者&信奉者(supporters
 & believers of relativity)、Einstein支持者&信者(supporters & believers of Albert Einstein)(相対性理論
 学者は勿論含まれます)に対して、英語サイトにおいて、反相対性理論(ANTI-Relativity)側で称している
 人々がいましたので、私はそれに加え、アカデミズム物理学の基本パラダイムだからとして何も疑問を感
 じていないと思われる方々(そのことを「黄門様の印籠」みたいに掲げる方達がおられます)も含めてそう
 称しています。


私自身、元々、「石橋を叩いても渡らないことがある」というよく言えば「慎重」実際には「臆病」な
輩であり、そのため、いつも「自分の考えは本当なのか」「何が正解なのか」の解を求めて、関連
物理学の基本に立ち返って調べ再勉強し、ネットを当たり、無い知恵絞って考えてきました。
結果として、本コーナーで書いて来たことで、調査不十分で、誤解していて後から記述の誤りに
気が付いたこともありましたが、物理学自体の在り方・状況にまで疑念が出てきて、特に現代の
物理学のなされ方及び物理学者の説明には、相対性理論とA.Einsteinが大きく影を落としている
という結論に至りました。
それは、一般大衆には隠されて来ただけで、1905年の理論誕生以来、現在まで綿々と科学界
(物理学者を含む)の中でなされてきた相対性理論学者を含むEinsteiniansの説明解釈への批判
(criticism)(それをまとめたドイツで今世紀初頭になされた調査プロジェクト報告があり、G.O.Mueller
調査報告紹介再び@
G.O.Mueller調査報告紹介再びDで紹介しました)があった彼らのご都合
主義的な解釈説明という直接的なものだけでなく、調べてみて驚いたのですが実際には、物理
学には定義・意義が曖昧な語彙・概念が実に多く(循環論的なものまである)、そこに、間接的に
「相対性理論を正しい」とする意図から出ているとしか私には思えない説明解釈がにじみ出てい
るものがある−古くからの一般概念ではない−ことを強く感じたのでした。物理学の手法にまで
A.Einsteinの手法が私に言わせていただくなら「悪影響」していると思います(そういう指摘はネッ
ト上で特に海外でも見られますので、私一人の意見ではありません)。

前置きが長くなりましたが、そういう観点で考えている私にとって、また、興味深い英語のウェブ
論文を、最近よく眺めている英語サイトの物理学フォーラム(GSJ Physics Forum:the General
Science Journalというサイトが運営、ここはWeb科学論文投稿も受け付けています)にあった
rogerという署名の方の一articleにおける簡単なリンク紹介で知りました。
今年の1月にアップされたThe Nineteen Postulates of Einstein's Special Relativity Theory とい
うもので、著者はカナダのValentin Danciという署名がありました。
Einsteinの1905年の相対性理論のオリジナル論文"ON THE ELECTRODYNAMICS OF MOVING
BODIES"では勿論、明示的にはpostulate1:「相対性原理(the principle of relativity)」
postulate1:「光速一定の『原理』(the postulate of constancy of speed of light)」
二つであることは間違いないのですが、論文には明示的に書かれていなくても、実際にはいろい
ろな方が指摘してきたとしてそれらの指摘をを総合するとこの二つを含めて、19個もの"postulate"
が含まれている
と主張されている「反特殊相対性理論」論文です。

英語サイトには、個人サイトではなく、あまり検閲を掛けない科学論文投稿サイトがいくつもある
ようです。これもそのようですが、私がちょくちょく引用してきたRogerという方のもそういうサイト
の一つ"General Science Joural"に投稿されていたものですし、もう少しアカデミック的ですが、
『正統派』からは査読・検閲がない(から、要するに『とんでも』論文が多い)という批判があります
けど、正統派科学者によっていとも簡単にリジェクトされてしまう(すなわち、査読者の公正さと能
力に疑いがある例が多々あるようです)alternativeな異端的な論文が多いらしい"New Scientists"(?)
というサイトもあるらしいです。また、欧米では、異端的科学雑誌もいくつか発行されているよう
ですね。一定数の読者がおられるから成り立っているのでしょうし、覚悟と矜持と信念を持って
やっておられる発行者とかサイト運営者がおられるからでしょう(例えば、アメリカに""Infinete
Energy Magazine"というalternativeエネルギー−一般的に"free energy"とか称せされているも
の−関連を扱っているという雑誌があるようですが、その雑誌の発行者Eugene F. Mallove氏は
以前、New Inquisition(新しい異端審問)で引用紹介したように、元MIT NEWSのチーフ科学ライ
タでしたが、1980年代に初めて"Cold fusion"論文が出て大騒ぎになったときになされたMITが
間違った欺瞞的な不再現報告をしていることに気が付き抗議の辞任をされた"Cold fusion"支
持科学ジャーナリストです)。欧米では、アカデミア科学コミュニティからはsuppressionを受け、
締め出されてしまっている論文・主張の受け皿がインターネットや雑誌として存在しているよう
で、それらを一般大衆が読むことができます。一応、論文の形態で書かれていて、啓蒙書的一
般読み物とは異なります。日本にはそういう場所がなくて、個人でアップされているものが多い
気がします(pdf論文形態でも)。私自身は今では完全にANTI-Relativityになりましたが、勿論そ
れらをそのまま全面信用しているわけではなく、原典とかSRTに影響されていない19世紀以前
までの一般的な概念だったのかどうかを調べたり考えたりして読んでいます。

尚、これを紹介されているRoger氏は"ANTI-'Einstein's' relativity & Einstainians'"で「Poincaré
支持者」の方のようですが、紹介articleでは、コメントとして、

 二つのpostulateを仮定している理論がどのようにして、代わりに19個を許される
 ことができるのか?
 答:Einsteinと仲間は2+2=5を許すばかりでなく、2=(彼らがそれを適用する
    ことを好む任意の数)を許している


という強烈な批判をしていました。ここで、「2+2=5」ですが、ネット上に、Einsteinが黒板にこの
式を書いている写真がありましたので、そういうEinsteinとそれに従属しているEinsteniansの考え
方への強烈な皮肉ですね。要するに、Einsteiniansの考え・説明と言うのは「何でもあり」なんです。
ですから、彼らにとって「矛盾している」などどこ吹く風な状態なんですね。もっと云うなら、論理の
へちまもなく、悉く、「SRTは『物理』の本質なんだ」という"believe"一本だけでいるわけです。
なんせ、"Holy Theory(神聖な理論)","Divine Albert's Divine Theory(神アルバートの神の理論)",
「不磨の大典」であり、更には欧米の強烈なANTI-Relativity/ANTI-Modern Physics & Comunity
of Physics の方が批判しているようにEinsteiniansに"maney spinning"を齎してくれるものですか
ら。

さて、私は、本コーナーで"postulate"という英語語彙を和訳せずそのまま使用してきています
が、別に気取って英語表記しているわけではなく、それには私なりの理由があります。勿論、
Einsteinが前述のように、"postulate"と表記していることからの流用ですが、続・相対性理論への
疑念(23)〜興味深い主張〜
でも引用指摘しましたように、"postulate"という語彙には問題があっ
、日本語訳をどうするかで躊躇してきたからです。「問題があって」というのは英語がネイティブ
な前記のRoger氏(イギリス人のようです)のウェブ論文での指摘で知ったのですが、"postulate"
という語彙には、"assumption(仮定)"の他に"stipulation(規定、約定)"という意味があり、
Einstein本人はどうやらそちらの意味を込めて使っている節が伺える
ことが指摘されています。
確かに「仮定」であるなら、"assumption"とすればいいわけですが、彼はそうしなかったのです。
反相対性理論者の方で、これを「要請」と訳されていた方がおられますが、そのニュアンスが強
いですね。postulate2を前述で私は「光速一定の『原理』」と書きましたが、そう、称されている方
が多々おられるのでそれに従いました。Einsteinは少なくとも論文を発表した1905年当時には
「原理」そして「事実」だと信じ込んていた節があるのです。
「科学論文」を標榜する限り、実証証明されていない「前提」は当然ながら「仮定(assumption)」
です!
ですから、それを「stipulation(規定、約定)」という意味合いで使うなら、そんなものは、科
学論文などではない
という批判に賛同して引用紹介したのでした。

で、このweb論文でも、2節でこの"postulate"に関して言及がなされていました。
"the Merriam-Webster online dictionary "には、"postulate"の意味として、次の三つが上げられ
ているとのこと。

D1.) A hypothesis advanced as an essential presupposition, condition,
   or premise of a train of reasoning.

   (本質的な仮定、一連の論理の条件または前提として提示された仮説)
D2.) Axiom(原理)
D3.) A statement that is accepted as being true and that is used as the
   basis of a theory, argument, etc

   (真実として受け入れられている、理論の基礎として使われているステートメント)

で、著者は、物理学者の科学についての考え方として、次の二つを区別すべきであると述べてい
ます。

A)a hypothesis - which implies the absence of experimental confirmation
   (仮説−実験確証のないことを含む)
B)a statement of general acceptance for a fact verified by experiments.
   (事実として一般的に受け入れられるステートメントは実験により検証された)
その上で、A)は"postulate"の意味にマッチし、B)は"principle(原理)"の意味にマッチしているとし
て、Einsteinは「原理」と言う用語に対して誤って"postulate"という用語を用い、それらを交互に
使ったと批判され、その上で、

 SRT[*]による19のpostulate仮説であり、決して実験により検証されてこな
 かった

 ([*]SRT・・・特殊相対性理論のこと;STRと略している方もおられます)

と批判されています。したがって、この方は、タイトルの"The Nineteen Postulates of Einstein's
Special Relativity Theory"を「Einsteinの特殊相対性理論の19個の『仮定』」と言う意味で使わ
れていて、云わば、「2個どころか、なんと19個も仮定が入っている論文だ!」と主張されている
わけです。

以下、この方の言う「19個の『仮定』」と、Einsteinの変遷している("change in mind")語録などを引
用してのEinstein及び科学界(とりわけ相対性理論学者を含むEinsteinains)に対する批判概要か
らの引用と私自身の意見などを示したいと思います。
ちなみに、この19個は、この作者によれば、

 Einsteinが特殊相対性理論を導入した1905年以来、種々の研究者が個別に、彼の理論
 は彼によって明確に述べられた二つのpostulateの他の少なくとも一つ以上のpostulate
 を含んでいることを観察した。


とし、その付加的な全ての観察を一緒にすると明示的な二つを含めて全部で19個になるとして
います(引用元も明記されていますので、そのまま明記しておきます。著者自身のも含まれて
います)


まず、論文内で明示的に"postulate"とされている二つについてです。

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postulate1 :相対性原理(Principle of Relativity)
--------------------------------------------------------------------

私は、これについての相対性理論学者を含むEinsteinainsの多くの解説には「ごまかし」があって、
学徒・一般大衆を誑かせていると思っています。 19世紀までに確立していた「相対性『原理』」と
いうのはガリレイの相対性原理だけ
です。Einsteinはそれを勝手に拡張したものを"stipulation"
の意味でのposutulate1として、「相対性原理」と称しているにすぎません。私は早くにそれに気が
付きましたので、「Einsteinの『相対性原理』」と書いたのでした。要するに、Machの主張に賛同し
ていたというEinsteinが勝手に真理だと思い込んでいたにすぎない「相対性」でしかなく、論理的
には「仮定(assumption)」でしかないのです。Machの極論的な主張はさすがに科学界から受け入
れられなかったのですから当然ながら『原理』であろうはずはありません!ちょっと考えればわか
ります。高校時代までに習うのは「ガリレイの相対性原理」だけです。
啓蒙書の類は一部の例を出してきて、いかにも全てがそうだと思わせるような説明の仕方をし
ていますけど、大変失礼ながら、多分にご本人たちはそれで理解した気になっていてそういう
意図はないだろうと思いますけど、実際には「ごまかし」でしかありません。多くのANTIサイドの
方々が指摘されていますけど、相対性理論学者を含むEinsteniansの方々の説明は「みかけ
と「現実」を曖昧で恣意的に使い分けています
。そして、啓蒙書の類の「相対性原理」の説明に
使われている例と言うのは「みかけ」の話ばかりなのですが、Einsteinご本人は「現実のこと」と
信じていた
のです(少なくとも1905年当時)。

このweb論文では、まず、関連するEinsteinの言葉として、

  " [...]the same laws of electrodynamics and optics will be valid for all
  frames of reference for which the equations of mechanics hold good
." (1905)
  「電気動力学と光学の同じ法則は、力学の方程式がよく成立している全ての参
  照系に対して妥当であろう

  〜 "On the Electrodynamics of Moving Bodies". June 30, 1905. (English translation of
  1923 by W. Perrett and G.B. Jeffery from "Das Relativatsprinzip", 4th ed., 1922) 〜

を示し、

 SRTの第一のpostulateはEinsteinによって、力学の法則と「電気動力学と光学」
 の法則を包含することを意味した


とし、しかしながら、「彼の磁石と導体の相互関係の説明は貧弱で理論的見地からはたいへん弱
わかった」として、

 それは、『現象における固有のものとは見えない非対称性』を除去したいと言う
 彼の願望以外の何物も証明していない


と断罪されています。その上、1910年(A.Einsteinはこの年にドイツアカデミア物理界に迎えられて
います)にも、Einsteinは実験証拠なしで

 "The laws governing natural phenomena are independent of the
 state of motion of the coordinate system with respect to which
 the phenomena are observed, provided that this system is not
 in accelerated motion.
"
 「自然現象を支配する法則は、もしこの系が加速度運動していない
 ならその現象が観測されることに関連した座標系の運動状態に独
 立である
」(※1)
 〜 "The Principle of Relativity and its consequences in Modern Physics". 1910〜

と述べているそうですから、この方は「何ら改良がなされていなかった」(この方のその後の言葉
を用いるなら「法外な主張(extravagant claim)」のままだった)と批判されています。勿論、私が批
判しているのもその「法外な主張」です。ま、最も(※1)で加速度運動を除外していますが。

ところが、その後、Einsteinは明らかな"change in mind"をしていることが示されています。隠
されてきましたが、Einsteinはたびたび"change in mind"してきたことが暴露されてきています。
勿論、私は"change in mind"自体を批判しているわけではなく、その際、彼は明示的に前言を否
定・取り消しをしなかった
ことを批判しています
。その結果、Einsteniansは都合の悪い発言は無
視するか、ご都合主義的解釈をし、結局、1905年の頃の彼の発言を化石的に信じ、そのまま未
だに吹聴しているのです。
この方は、Einstein自身が次の異なった二つのバージョンの解釈をしているとしています。

  T)1905年と1910年、彼はこのような原理は全ての自然の法則であると主張
  U)1912年と1914年の原稿において、彼の法外な主張から後退して、Laueを引用
   し、相対性原理を単に力学の法則に適用するもとして定義した。


U)については、Einsteinが

   "Every coordinate system that is in uniform translational
   motion relative to a justified system is again a justified
   system. The equations of motion of any (mechanical)
   system are the same with respect to all such justified
   system.We will call this proposition the relativity principle.
"
   「理にかなった系に相対的に均一の並進運動している全ての座標
   系はまた理にかなっている。任意の(力学的)系の運動方程式は、
   このような全ての理に適う系に関して同じである。我々はこの判断
   を相対性原理と呼ぶだろう
」(※2)
   〜 Albert Einstein - "Manuscript on the Special Theory of Relativity".
    1912-1914〜

と書いていることをその根拠として示されています。確かに、この方の指摘通り、(※2)は「法外な
主張である」(※1)に対して明らかに後退した発言ですね。こういうことを書いていたことなど知り
ませんでしたので驚きました。思うに、1910年に念願のアカデミア物理界に入ったことで、より直
接的批判や、既に魅せられてしまった支持者の諸先輩物理学者等からの助言などもあったもの
と思われますね。「証拠もない」大風呂敷でしたから、最低限、SRTを維持するところに絞り込ん
でその上で合理的・論理的説明をしようとしたものと思われます。
この方によりますと、Einsteinは(※2)と書いた原稿(manuscript)の中で、彼の論法では次の三つ

 (a) the relativity principle[相対性原理]
 (b) the principle of the constancy of the velocity of light (Lorentz' theory)
    [光速一定の原理]
 (c) the transformation equations (II), or the law of the parallelogram velocities
   [変換方程式(U)[*]または平行四辺形速度の法則]

   (注*:ガリレイ変換のこと)

は共存不可能なことを発見し、それによる「光速一定の原理と相対性原理との明白な両立不能
性」をはっきりさせようとしていて、「(c)は(a)を含んでいて、それで、(a),(b),(c)は全て同時には不成
立である⇒その膠着状態を解消する(すなわち、postulate1とpostulate2を両立させる)ためには、
(c)は消去されなければならない
」としているようです。これに対してこの方は、

 Einsteinの論法の奇妙さは、「(a)を(c)を引き出すことによって説明している」点にある

とし、このEinsteinの考えたことを非論理的と批判されています(要するに、元々(c)を元に(a)を説
明しているのに、(c)を消去すれば矛盾が消えるというおかしな論法を使っているということだと
思います)。

結局は、その考えは「非論理的」でしかないわけですけど、とにかくEinsteinはなんとか合理的説
明をしようと試みたことは間違いないようですが、この方は私が感じている通り、他の物理学者
は(何も考えなかったのか、)1910年にEinsteinが示した(※1)のままのpostulate1を無批判に採用
してきた
と批判されています。
要するに、何も証拠もなくかつそれまでの物理学界の一般的総意でもなかったEinsteinの思い込
みで勝手に拡張した「法外な主張」を、言葉巧みな「ごまかし論法」で踏襲してきたのです。
あまりこのpostulate1が「法外な主張」であることを指摘する方は多くないのですが、相対性理論
学者を含むEinsteniansの「ごまかし論法」に誑かされてはいけません!繰り返しますが、確定し
てきた「相対性原理」というのは「ガリレイの相対性原理」のみです。そして、postulate1というのは
それではないのです。
驚いたのですが、日本の最高学府とされているところの某教授が、「相対論では地動説も天動説
も同じです」と堂々と語っているそうです。これは、(※1)以上の「法外な主張」です。信者になると
どんな秀才でもそうなってしまうのかと呆れ果てています(怒)。

著者は、私の思いと全く同じように、

 今日、彼の多くの(特殊相対性理論の)仮説の結果として、そしてあらゆる物理学
 的実験の結果としてではない物理学における正しくない発展が現れている


と批判され、結論として、

  A principle of relativity addressing all laws of nature cannot be a
  pre-requisite of theSpecial Relativity Theory, because such a
  generalization is in fact clearly a result of SRT.

  (自然の全ての法則に対処する相対性原理は、特殊相対性原理の前提条件
  とはできない、なぜなら、このような一般化は、実際には明らかにSRTの結
  果であるから。
)

と批判されています。私はこの批判的指摘に完全に同意します。
要するに、相対性理論学者を含むEinsteiniansは、初めに「SRTありき」で、循環論的に恣意的
「あとづも」で、物理の基本原理みたいに嘯いているにすぎません。誑かされてはなりません!

更に、私は多くの方々が「ガリレイの相対性原理」さえ誤解している気がしてなりません。ガリレイ
の相対性原理というのは物体の『運動』に絞って、

 慣性運動(等速直線運動)している二つの物体間の運動は、どちらを基準にしても
 『数学的には等価である
(※3)

というものに他ならないのです。決して、現実世界がそうであるという主張ではありません
しかしながら、多分に多くの方々は、物理学世界と現実世界を混同しているのではないかと思い
ます。前に物理学の空間・時間は"conventions"のarticleで述べましたが、Poincaréは当時既に

 『現実世界』と『物理学世界』は同一ではない(※4)

ことに気づいていて明確にそれについての発言を残しています。そして、仲間であったLorentzも
自分の理論で示されたことを「現実世界のことだとは思っていない」という発言を残しています。
どうやらそれに最初に気がついたのは18世紀にはNewtonに劣らない有名・有力学者だった
Boschovichという方だそうですが。そして、Einstein自身も後にそれを悟り、対立していたPoincaré
に対して彼の死後ではありましたが、「Poincaréは正しい」という語録を残しています。残念ながら、
物理学者を含む多くの方々は(※4)に気が付いていないからこそ、Einsteinの1905年当時の発想
を盲信し続けているのだろうと思います。
私はそのことを悟り、繰り返し本コーナーで主張してきていますが、

 『ニュートン力学』は現実世界の経験的現象を、数学の『ユークリッド幾何学』を
 借りてきて、理想的抽象的世界として理論体系化したものである
(※5)

のです。ですから、Poincaréが書いている通り、「物理学世界」は「現実世界」そのものではない
のです。相対性理論学者を含むEinsteiniansのpostulate1の説明に反対されて、「現実に動力を
有して動いているのは電車・車であり、駅ではない」という趣旨の主張を目にしましたが、素直
に素朴に考えれば、この方の指摘通りなんです。ただ、それを「ガリレイの相対性原理」が間違
いであるという主張の理由にされていらっしゃる方がネット上におられましたが、この方も多くの
方々と同様、(※3)〜(※5)がわかっていなくて誤解されていると思います。
反相対性理論者の方でも誤解されている方がおられる気がしていますので特に強調しました。

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postulate2 :「光速一定の『原理』(the postulate of constancy of speed of light)」
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最もANTI-Relativity側から問題視されているのはこれです。
引用されていましたが、1905年のEinsteinの説明は、

 "[...] another postulate, [...] namely, that light is always propagated in
 empty space with a definite velocity c which is independent of the
 state of motion of the emitting body
"
 (「[...]もう一つのpostulate [...] すなわち、光速は常に発射体[光源]の運動状態
   には独立な一定速度cで真空中を伝搬する
」)(※6)
  〜 "On the Electrodynamics of Moving Bodies". June 30, 1905. (English translation of
  1923 by W. Perrett and G.B. Jeffery from "Das Relativatsprinzip", 4th ed., 1922) 〜

となっているようです。しかるに、この方は、このpostulate2は今日、間違って

 任意の慣性系(IRF)において光速一定(※7)

と述べられていると指摘されています。Einsteinは(※6)と書いていただけ−すなわち、「Einstein
によって真空が光の伝達の運搬者として曖昧に含まれていることを意味している『真空中』に特
化している
」−と思われると言う事です。ただ、1905年論文では、光速測定」の参照系が不
明確であり、これについては、その後、Einsteinは1912-1914年の原稿(mamuscript)で論法を修
練して、「光速が等方的である一つの系の存在」から論理を始め、次のように書いているようで
す。
 "Hence, in accordance with Lorentz's theory we can proclaim the
 following principle, which we call the "principle of the constancy
 of the velocity of light": "There exists a coordinate system with
 respect to which every light ray propagates in vacuum with the
 velocity c".
"
 「ここで、ローレンツ理論により、我々は、我々が『光速一定の原理』と呼ぶ
 次の原理を主張することができる:『全ての光線が真空中で、速度cで伝達
 することに関した座標系が存在している
」(※8)
   〜 Albert Einstein - "Manuscript on the Special Theory of Relativity".
    1912-1914〜

Einsteinは(※8)と定義したことにより、「これが、postulate2を他の慣性系に拡張することの助け
になる
」と考え、その考察の根拠を「フィゾーの実験(Fizeau experiment)」に置きました。彼
は、

 『フィゾーの実験』が、光速の異方性が地球のような非特権的(non--privileged)
 慣性参照系(IRF)からは簡単な実験では観測できないことを証明している
(※9)

ことを示そうとしたようです。しかしながら、フィゾーの実験結果としての

 V=V0+ql(1+n^2) (n:媒体の光学的定数、反射率)
 [:Einsteinの1912-1914での水中における速度の表記]

は、媒体とIRFの間の相対速度qlに依存しているということのみが示されています。
ですから、この方は、

 我々にとって、Fizeauの実験はエーテルに相対的ではなくIRFに静止している
 観測者に相対的に動いている媒体(水のような)の中での光の不等方性のみ
 が測定できることは明白である
(※10)

とされています。よく考えてみると、直接的には、フィゾーの実験自体はこれをやっているわけで
すから、それ以上は仮説的解釈論でしかないわけで、Einsteinが試みた(※9)の証拠にはなって
いないのです。

私は以前は誤解していましたが、「フィゾーの実験」に関しては、続・相対性理論への疑念(26)
〜マイケルソン=モーリー実験 & Dayton Miller再び〜
で触れましたように、そもそもはそれまで
の放射理論では観測された光行差現象が説明できないために持ち出された二つの仮説(@エー
テルは透明媒質の内部を除き、静止していると仮定[=「部分引きずり説」の静止エーテル説主
流派の説]、Aその中で、媒質の速度より比(n^2-1)/n^2[n:反射率]で減ずる速度で動くと仮定)が
示され、フィゾーの実験の結果として、当時の主流派はこの二つの仮説が実証されたとしていた
のですが、「部分引きずり説」を非自然的だと批判して出て来た「エーテル完全引きずり説派」で
あったStokesらは、フィゾーの実験はAだけ証明しただけで@の証明にはなっていないと反対し
たそうです。Aはマイケルソンが「ありそうもないことだが」再現実験で確実であることを確認した
とMM実験論文内で書いていますから、当時の科学界で完全合意されていたのはAだけだった
ようです(Hertzは完全引きずり説に基づいての理論解析をしていたそうです)。
ですから、私もフィゾーの実験結果は単に、光行差現象の説明で出された仮説Aの実証証明を
しただけだと考えていて、(※10)の意見には同意しています。

いずれにしろ、この方は、

 我々は今、彼の1912-1914の原稿の中での光学実験による彼の第二postulate
 を正当化しようと言う最終的な試みを称賛するが、また、彼はその試みに失敗し、
 結局、現代物理学は第二postulateを1905年に初期に書かれ実験的に証明され
 ていないものとして使い続けている


と批判されています。

尚、繰り返し主張してきましたが、MM実験は(※6)の証拠などにはなっていません。ましてや、
(※7)の証拠になど全くなっていません。相対性理論学者が十分データを吟味しないで勝手な
解釈をして証拠扱いにしているにすぎません。マイケルソンは生涯、反SRTでしたし、Dayton
Miller の膨大な実験結果と主張には論理的合理的反論はなされていません。Einsteinの「温
度ドリフト説」はMillerが指摘していたように論文を読まないで云っただけであり正当性がない
ことはMillerの1933年の論文を読めばすぐにわかります(ちなみに、まだ当時ドイツにいた
Einsteinはこのアメリカ人物理学者のDayton Millerの報告には相当焦りまくったらしく、Miller
に手紙攻勢をかけたらしいですが、Millerは「論文を読まないで云ってきている」として相手に
しなかったようです−本人が明言しています)。
(⇒続・相対性理論への疑念(18)〜Dayton Millerの論文@〜続・相対性理論への疑念(18)
〜Dayton Millerの論文A〜
参照)
1887年のMM実験論文の実験理論はLorentzが作ったものですが、Michelsonのオリジナル
論文でMichelsonはちゃんとその実験理論の修正の必要性を示していますし、Lorentzはあ
の結果を"NULL"とみなし、FitzGeraldが1889年に示した"illusion"な解釈をヒントにして1904
年に"illusion"な「つじつま合わせ」の"Lorentz Ether Theory"を出しましたけど、結果的に、
それがより"illusion"なEinsteinのSRTに繋がり、説明できないために"Ether"を毛嫌いして
いたらしい当時の、「物理」(現実世界の自然)より「数学」を重んじていたためにSTRにぞっ
こんになった科学者らにより、"Ether"を古い誤った概念扱いとした現在にもタブー視されて
続いている悪宣伝にも使われたのだろうと思います。おまけに、MM実験結果をメディアとか
色々なところで殊更「NULLだった」と宣伝したのは、1919年に、自分の政治的思想と野心か
ら「科学を捨ててEinsteinに魂を売った」前世紀最大のHOAXをやったEddingtonです。
ANTI-Relativityの方々でもこの事実をご存知でない方々が多いと思いますので、私は繰り
返し強調しています。Einsteiniansの土俵で戦ってはいけません。その土俵の本質的な不当
性を知るべきです。1900年の初めころMorleyとMM実験の再現実験を始めていましたが、
1905年にMorleyがはずれ諸般の事情から長く中断していたのを1920年にDayton Millerが
再開(研究資金団体からの資金援助を受けて)し、苦労しながらあの膨大な実験をした動機
はそこにあることは1933年の論文ににじみ出ています。

最後にpostulate1と2を総括して、著者は、

 古典力学から誤って電気動力学に拡張された第一のpostulate(すなわち、非論
 理的でどんな実験的証拠もない)と任意の慣性参照系に対して妥当だと偽って
 主張されている(また、何らの実験的証拠がなくて)第二postulateと共に、現代
 物理科学は純粋な想像以外の何物でもないものに基づいた物理学の第一の
 理論として物理学者世代を信じさせた。


と批判されています。私はこれに完全に同意しています。裏塗アンダーライン部は私がつけ
たものですが、これが全てです。1905年のEinsteinのSRTと1904年のLorentz Ether Teory
及びPoincaréのものを比較してみてください。SRTの「独創」は、このEinsteinが根拠なく脳内
で作り出した「想像」(それを当初、現実のものと信じていたらしい)のpostulateだけです。他は
悉く、Lorentz&Poincaréのぱくりです。だからこそ、草創期に魅せられて受けれてしまった理論
学者がいたのでしょう。私は1904年のLorentz Ether Theoryそして同じく1904年にPoincaréが
示した「相対性原理(principle of relativity)」がなかったならEinsteinのSRTは生まれなかった
でしょうし、当時の科学コミュニティから受け入れられなかっただろうと強く確信しています。
私自身は、そもそも、1889年にFitzGeraldが示した実証証明できない奇妙な思いつき(18世紀
では有力学者だったというBoscovichの影響を受けたものらしい)をヒントにしてLorentzが構
築した"Lorentz Ether Theory"は"illusion"なものと考えていますが、その理論に飽き足らな
かった(十分"illusion"な理論だったゆえ)当時の物理学者が、先にPoincaréが「相対性原理」
を示したこともあって、SRTに飛びついたものだと推理しています。考えるに、既に(※4)を認
識していたPoincaréは「物理」=現実世界のことではなく、「物理学世界」のものとして「相対
性原理」を示したものと考えます。しかるに1905年当時のEinsteinそして今に至るEinsteinians
はそれを現実世界のことと思い違いしてしまったと思うのです。

さて以後は、この方が"postulate"と明記されてはいなくても、SRT論文に実は入っていると
指摘されている残り17個分です。

まず、『剛性(rigility)』に関する二つのpostulateがあるとされています。

----------------------------------------------------------------------
postulate3 :「剛性(rigility)の第一postulate: 静止している物体の長さの時間的
         不変性(invariance of length in time)」

----------------------------------------------------------------------
[observed by]
 Max Born - "Die Theorie des starren KÖrpers in der Kinematik des Relativitätsprinzips"
                 ("The Theory of the Rigid Electron in the Kinematics of the
                 Principle of Relativity"). 1909
 Harvey R. Brown - "Physical Relativity - Space-time Structure from a Dynamical
                 Perspective". 2005

関連する1905年の論文に置けるEinsteinの言葉:

 "The theory to be developed is based―like all electrodynamics―on the
 kinematics of the rigid body, since the assertions of any such theory
 have to do with the relationships between rigid bodies (systems of
 co-ordinates), clocks, and electromagnetic processes.
"
 「発展された理論は−電気動力学のように−、任意のこのような理論の主張が剛体
 (座標軸系)、時計、電磁気プロセスを扱うべきであるので、剛体の運動に基づいて
 いる


これに関連してMax Bornは1909年の記事の中で、

 "the requirement that lengths shall be mutually comparable at different
 times, directly leads to the formation of the concept of measuring rods
 whose length is independent of time and motion, i.e., which are rigid.
"
 「長さが異なる時間に相互に比較できる要請は、直接、長さが時間と運動に独立、
 すなわち剛体である測定棒の概念の形成に導かれる


と述べているようです(彼は、更に、新たにSRTにマッチするものとして、「Minkowskiの四次元時
空」に対する「剛体」の定義をしたようですが)。
論文の著者は、「我々は、多くの物理学実験が全ての物体の長さは時間的に変化することを認
めるが[材料力学で明白ですよね]、ある物体のごく小さい変化を0と近似することは可能」として、
このpostulateに対し、

 ・EinsteinのSRTの導入テキストにあるが、"postulate"として明記されていない
 ・SRTの概念構成には必須
 ・実験的には単に近似的に証明されているだけ
 ・厳密な意味では証拠はない


と結論づけられています。確かに次のpostulate4と共に、「剛体」を前提とするのは、「時間、空間」
の概念を変えようとしたSRTとしては中途半端でお粗末な前提条件ですよね。
ま、1905年の論文発表当時、Einsteinは「近似的」などとは思っておらず、自分のSRTの結論は
現実世界のことと思っていたらしいですし(今でも多くのEinsteiniansはそうでしょうが)、自分の
SRTは古典力学の完全に延長上のものと思っていた節があるようです(ドイツ語のオリジナル論
文から英訳されるときにそれに気が付いた科学コミィニティの誰かがこっそり、文章の一部改ざ
んをしているようです⇒続・相対性理論 への疑念(7)〜奇妙な側面D〜参照)。
1905年の論文の翻訳本を出している相対性理論学者はEinsteiniansそのもので、この論文を手放
しでほめそやしているそうですけど、思い込み、不十分な知識、そしてこのような杜撰な論理で構
築された論文もどきの妄想=本物の『疑似科学(quasi-science)』−でしかないと私は思っていま
す。Einsteiniansはそんな妄想に魅せられてしまっていて、同じ妄想の延長上で大局的に見ない局
所的辻褄わせばかりしてわかったつもりで悦に入っているんです。

--------------------------------------------------------------------
postulate4 :「剛性(rigility)の第二postulate: 系を横切る単位長さの同一性
        (identity of length units)

--------------------------------------------------------------------
[observed by]
Albert Einstein[by himself!] - "The Principle of Relativity and its consequences in
                Modern Physics". 1910
Max Born - "Einstein's Relativitätstheorie". 1921. ("Einstein's Theory of Relativity".
                 1962.)
Harvey R. Brown - "Physical Relativity - Space-time Structure from a Dynamical
            Perspective". 2005

関連するEinsteinの言葉(このpostulateは著者が指摘しているように彼自身が示しています):

 ""In accordance with the principle of relativity the length to be
 discovered by the operation (a)―we will call it "the length of
 the rod in the moving system"―must be equal to the length L
 of the stationary rod.
"(1905)
 「相対性原理によって、オペレーション(a)によって発見された長さ−我々
 はそれを「運動系に置ける棒の長さと呼ぼう−は静止している棒の長さ
 Lと等しくなければならない。


これに対しては、Max Bornが、

 "We may call this tacit assumption of Einstein's theory the
 "principle of the physical identity of the units of measure".
"
 「我々はこのEinsteinの理論の暗黙の仮定を『測定単位の物理的
 同一性の原理』と呼んでいいだろう。


と書いています(Yves Pierseauxと言う人がこれに反対し、「棒の同一性は相対性原理から出たも
のであり、剛性は重要ではない。若きEinsteinの精神で重要なのは、自然に置いて長さと時間の
単位を与える"プロセス"を与えたことである」というみっともないEinsteinians的詭弁を呈したよう
ですが、この論文の著者は、「Pierseauxのステートメントは間違っている」とばっさり切り、「彼は
第一に、測定棒の概念とプロセスの概念を混同している、明らかにEinsteinは『測定プロセス』
ではなく『測定棒』のみに言及している」と批判されていますがその通りですね。
Einsteiniansは一事が万事、こうやってEinsteinに都合の良い非論理的解釈を往々にしてしてき
ています。ひどいものです"(-""-)")。
いずれにしろ、この論文の著者が指摘しているように、このpostulate4は、完全にSRTに矛盾し
ていることは論理的に考えれば明白です。
簡単に言うとこうです。
このpostulate4はpostulate3とは異なり、明らかに

 任意の二つの異なる座標系において考えている剛性

です。異なる座標系を横切る剛体を定義するためには、論理的に、物体の寸法が比較できる
遍的標準(universal standard)
が必要になりますし更に、そのような標準は時間的に不変で
ある必要があり、機械的または電気的現象により影響を受けないことが必要
となります。
したがって、

 現実には、このような標準を現すことを可能にする物理的存在は、部分的
 寸法上でなされる比較のための絶対参照であるべき


ということになります。
で、Einsteinは「測定」自体については言及していませんが、「運動している測定棒と静止してい
る測定棒の長さが等価である」ことは、長さの比較をする方法を使わないで物理的に証明するこ
とはできません!
全く当たり前のことですが。
Einsteinは測定方法を示していませんので、普通に使われる方法、例えば、他の物体に対するあ
る物体の端に横方向にしるしをつければ比較できます。著者は、

 このような比較の結果が二つの異なる系のX,Y,Z軸上の任意の位置に
 置かれた任意の剛体に適用されると、二つの異なる座標系にしるしをつけ
 た任意の距離の完全な同一性の結果となる。そのことは、ただちに二つの
 系の間の座標変換はガリレイ変換であることになる。このような結論は、
 異なる変換を引き出すさらなる任意の試み(例えば、Lorentz変換)を明らか
 に無益にする。


と主張されていますが、私はこの論に論理的に合意します。
そして、著者は、

 相対性原理は、運動状態間の非慣性変換も、変換前後の物体の剛性も
 カバーしてなどいない


と主張され、結論として、この第四postulateは、

 ・SRTの構成には必要であるが、SRTの証明に矛盾している
 ・このような場合には、新しい座標変換の必要性を無効にするので、長さの
  比較方法の欠如は論理的に無効である
 ・実験的に証明されていない。


と結論付けています(他に、これは重要ではないですが、そしてそもそもそれだったんでしょと思い
ますが、明確に反Fitzgerald-Lorentz仮説だとしています)。

次に、『同時性(synchronicity)』に関し、六つのpostulateが入っていると指摘されています。

--------------------------------------------------------------------
postulate5 :「同時性(synchronicity)の第一postulate:全空間を通して用いら
          れている時間単位の同一性(identity of time units)

--------------------------------------------------------------------
[observed by]
 Albert Einstein[by himself!] - "The Principle of Relativity and its consequences
                    in Modern Physics". 1910
 Max Born - "Einstein's Relativitätstheorie". 1921. ("Einstein's Theory of Relativity".
          1962.)
 Antony Valentini -"Hidden variables and the large-scale structure of space-time".
             2008

これは1905年の論文では示されておらず、1910年の論文で示されたものです。

まず、1910年の論文内でのEinsteinの言葉です:

 [脚注]
 "Thus, we postulate that two identical phenomena are of the
 same duration. The perfect clock thus defined plays a role in
 the measurement of time that is analogous to the role played
 by the perfect solid body in the measurement of lengths[...]
"
 「このように、我々は、二つの同一の現象が同じ期間のものであると
 仮定する。このように定義された完全な時計は、時間測定において、
 長さ測定での完全な固体によってなされる役割に類似した役割をし
 ている[…]

 [テキスト]
 "To determine the time at each point in space, we can imagine
 it populated with a very great number of clocks of identical
 construction.
"
 「空間の各々の点における時間を決定するため、我々は、それを非
 常に多くの同一に構成された時計を装着していると想定することが
 できる


即ち、Einsteinは「同一構成の異なる時計により与えられる時間単位の同一性」を想定したわけ
です。ただ、この時(1910年)はまだ、彼の想定している「時間単位」とは何かについては示してい
ませんでした。それを示したのは、1912-1914年の原稿(manuscripts) "Manuscript on the Special
Theory of Relativity"の中であり、次のように書かれているそうです。

 "We imagine a completely isolated physical system that
 repeatedly assumes a specific state Z. Then the state Z
 is always followed by the states Z', Z", etc., until the
 state Z is reached again. The system is changing its
 state periodically. We can then count how often the
 system, which we shall call "clock", assumes the state
 Z; we will call this number the "temporal determination
 " of the clock.
"
 「我々は、繰り返し特定の状態Zを仮定する完全に孤立した物理
 系を想定している。そのとき、Zの状態は、Zの状態に再び到着
 するまで、いつも状態Z’,Z’’等と続いていく。その系は、その状
 態を周期的に変化させている。我々はそのとき、我々が「時計」
 と呼ぶであろう系がどのようにしばしば状態Zを仮定するかをカ
 ウントできる;我々はこの数を、時計の「時間決定」と称するであ
 ろう


ここで初めて彼は、「時計」の定義と「時間単位」の定義をしたわけです。
このEinsteinのステートメントから、次の結論となると主張されています。

 ・時計の状態Zの任意の二つの結果としての変化の間における時計の時間単位
  は同じでなければならない
 ・二つの「同一構成」の異なる時計は、同一の時間単位を与えることが仮定され
  ている


しかしながら、この方の主張通り、

 ・それが、異なるIRF(慣性参照系)を横切る時間単位の同一性の仮定になるとき、
  このような仮定はSRTの第一postulate[相対性原理]により決定できない
 ・慣性運動の一つの状態から他の慣性運動状態に移行することは、加速と力なし
  ではえることはできず、時計の材料構成とその剛性、それらが従う機能原理は、
  加わる力の存在において疑わしい。それゆえ、時間・空間単位の同一性は、そ
  れが仮定されないなら、IRF間での時計の移動後には保証できない。


のですから、これら1910年及び1912-1914のEinsteinの説明は『仮定(assumption)』でしかありま
せん。これに関して、Antony Valentiniという方(引用元は上記)が、

 "It might be thought that the third postulate could be dispensed with,
 by using the relativity principle to deduce that any specific process
 for constructing rods and clocks must give the same results in all
 inertial frames. Certainly, using the light postulate as well, one could
 then deduce that the Lorentz transformation relates the readings of
 different rods and clocks that have been constructed (by a similar
 process) in different inertial frames. However, one would still have
 deduced nothing about what happens when the same rod or clock
 is boosted (or accelerated) from one inertial frame to another.
 (As an example one might, in principle, envisage a theory satisfying
 the relativity principle and the light postulate, but with the additional
 property that once a rod or clock has been constructed in a given
 inertial frame it is destroyed by any subsequent arbitrarily small
 acceleration.)
"
 「第三のpostulateは、相対性原理を用いることにより、棒と時計を構築する任意
 の特定のプロセスは全ての慣性系において同じ結果を与えなければならないと
 いうことを推論することなしですますことができると考えられるかもしれない。
 確かに、光のpostulateを同様に用いることで、人はローレンツ変換が異なる慣
 性系で(同じプロセスにより)構成された異なる棒と時計の読み値に関係している
 と推論できるであろう。しかしながら、人は、同じ棒または時計が一つの慣性系
 から他の慣性系にブーストされる(または加速される)とき、何がおきるかについ
 て何も推論してこなかっただろう。(例として、人は原理に置いて、相対性原理と
 光のpostulateを満足する理論を想定するかもしれないが、一度は、棒または時
 計が一つの与えられた慣性系で構築されたという付加的特性でもって、それは
 任意の連続する小さい加速により壊される)。


と指摘されているようです。
したがって、著者はこの第五postulateに対する結論として以下を示しています。

 ・Einsteinの1905年の導入テキストでは述べられていないが1910年にpostulate
  として述べられている
 ・SRTの概念構成には必須である
 ・実験的に証明されておらず、特定されたなんら相対的比較方法はない


更に著者は、重要な留意点として以下を強調されています。

 Einsteinが1912-1914年に時計を定義した方法は、時計によって測定された時間は
 運動の概念を含んでいないことを証明している。このように、時計のZ状態は空間
 または時計に相対的な空間における変化を含んでいない
 これより記憶にとどめておくべきことは、物理的時間と空間はEinsteinの定義によっ
 てさえ区別された概念であるということである


云うならば、きちんと彼の書いたものを分析すると、Einsteinの考えたことはいかに矛盾に満ちた
混乱したものであったかが証明されていて、極論すれば、1905年の論文というのは「その程度の
知恵の産物」でしかないと言う事でしょう。Einsteiniansは知ってか知らずかわかりませんが、「そ
の程度の知恵の産物」でしかないものにすっかり魅せられてしまっているということです。

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postulate6 :「同時性(synchronicity)の第二postulate:空間の異なる点における
          共通時間(common time)の存在

--------------------------------------------------------------------
[observed by]
Y. B. Karasik - "How many postulates is Special Relativity based upon?".
           2013
Valentin Danci[著者自身] - "Einstein's variable speed of light and his enforced
           wrong synchronization method". 2015

関連する1905年の論文に置けるEinsteinの言葉:

 "But it is not possible without further assumption to compare, in
 respect of time, an event at A with an event at B.[...] We have not
 defined a common "time" for A and B
"(1905)
 「しかし、更に、時間に関して、Aでの出来事をBでの出来事と比較することを
 仮定せずにはそれは可能ではない[…]我々は、AとBに対する共通の『時間』
 を定義してこなかった


これは、著者も述べているように、確かなことであり、古典力学においてもきちんと示されてはこ
なかったことは間違いなく、それゆえにそれを定義しようということは、Einsteinのpostulateである
ことは間違いないと思われます。それゆえ、著者はこの第六postulateに対して次の結論をつけて
います。

 ・Einsteinのテキストでのべられているが、postulateとラベリングされていない
 ・STRの構成には必須である
 ・もう一つの異なる空間(物理的三次元空間)の全く別の基本的概念に対する
  時間の基本的概念適用を述べているので、実験的には証明されていない


--------------------------------------------------------------------
postulate7 :「同時性(synchronicity)の第三postulate:二つの時計を合わせる
          方法の単一性(unicity)

--------------------------------------------------------------------
[observed by]
Valentin Danci [著者自身] - "Einstein's variable speed of light and his enforced
           wrong synchronization method". 2015

postulate6の中では、同じ段落の中で言語的に結びついているので区別が難しいとしながらも、
あえてpostulate7として分けて示されています(これは著者自身の見解です)。

関連する1905年の論文に置けるEinsteinの言葉:

 "[...] a common "time" for A and B, for the latter cannot be defined
 at all unless we establish by definition that [...]
"(1905)
 「[…]共通「時間」AとBは、後者に対しては、我々がもし定義により[…]と確立
 していないなら定義することができない


これについて著者は、

 表現「もし・・・でないなら全て定義できない」は明らかに、彼の理論が時間決定の一つ
 の方法のみに限定されていることを示し、その方法は厳密に、光による離れた点Aと
 B間の往復行程にかかる時間の等価性を要求したので、彼によってのみ決定された。


とし、「同時性についてのEinsteinの他の仮定に沿って含まれている循環論である」と批判され
ていて、1910年になした次のような正当化の試みは「失敗」のものであると指摘しています。

 "To get a complete physical definition of time, we have to take an
 additional step: We have to say in what manner all of the clocks
 have been set at the start of the experiment. We will proceed as
 follows: First, we furnish ourselves with a means of sending signals,
 be it from A to B, or from B to A. This means should be such that
 we have no reason whatsoever to believe that the phenomena of
 signal transmission in the direction AB will differ in any way
 whatsoever from the phenomena of signal transmission in the
 direction BA. In that case there is, obviously, only one way of
 regulating the clock at B against the clock at A in such a manner
 that the signal travelling from A to B would take the same amount
 of time - measured with the clocks described above- as the
 signal traveling from B to A.
"(1910)
 「完全な時間の物理学的定義を得るため、我々は付加的段階をとらなけれ
 ばならない:我々は、どんな方法においても、全ての時計が実験の開始時
 にセットされていると云わねばならない。我々は次のように進める:最初
 に、それをAからBまたはBからAに信号を送る方法で我々自身与える。こ
 の意味は、我々は、AB方向の信号伝搬の現象がBA方向での信号伝搬の
 現象とはとにかく何等かで異なっていると信じる何らかの理由を有してい
 ないというようなものであるべきである。その場合、明らかに、AからBへ行
 く信号が、BからAに行く信号と同じ時間量−上で述べた時計で測って−
 を取るような方法でAの位置の時計に対してBの位置の時計を調整する
 唯一の方法である。


これについてはEinsteinians側とANTI-Relativity側は完全に意見を異にしているのですが、著者
は、

 「A点とB点に静止している観測者にとって光路ABとBAは同一である」一方、信号
 における現象は、
 i)電磁現象は点AとBに静止していない
 ii)電磁現象は点AとBとは独立ではない、すなわち、物理的に光路A-B、B-Aに
  縛られていない−このことは、A-B上に現れる現象とB-A上に現れる現象が等
  価であると言う自然の法則はないことを意味している−
という意味で「AとBを含む系とは独立である」


ゆえにEinsteinは間違っていたと批判されています。
そして、postulate7に対する結論として、

 ・EinsteinのSRTのテキストで述べられているが、postulateと表記されていない
 ・SRTの構成には必須である
 ・論理的に非合理的である
 ・実験的に証明されていない


を主張されています。完全に同意します。
Einsteiniansはこのように本質的にはEinsteinが作った「仮定」でしかないものを、根拠なく、当然
な自然法則みたいに追認しているだけに過ぎません。


--------------------------------------------------------------------
postulate8 :「同時性(synchronicity)の第四postulate:二つの時計を合わせる
          方法の定義(difinition)

--------------------------------------------------------------------
[observed by]
Valentin Danci[著者自身] - "Einstein's variable speed of light and his enforced
                  wrong synchronization method". 2015

著者が示している関連するEinsteinの言葉:

 "[...] we establish by definition that the "time" required by light
 to travel from A to B equals the "time" it requires to travel
 from B to A.
"(1905)
 「[…]我々は、定義によりAからBに行く光により要する「時間」が、Bから
 Aに行くのに要する「時間」に等しいことを確立している。


 "For these signals we can use, for example, sound waves that
 propagate between A and B through a medium that is at rest
 with respect to these points [The medium must be at rest -
 or at the very least must not have any velocity component
 in the direction AB so that the paths AB and BA can be
 equivalent]. We can just as well use light rays propagating
 through the vacuum or through a homogenous medium at
 rest with respect to A and B.
"(1910)
 「これらの信号に、我々は例えば、これらの点に関して静止している
 媒質を通してAとBとの間を伝搬する音波を使うことができる[媒質は
 静止していなければならない−または、少なくとも経路ABとBAが
 等しくできるように方向ABにおける速度成分をほとんど有していな
 いようにあらねばならない]。我々は真空中を伝搬するまたはAとB
 に関して静止している均一な媒質を伝搬する光線が丁度よく使用
 できる
」(※11)

Einsteinは1910年の著書でこんなことを言っていたんですねぇ・・・
で、著者は、この1910年の記述を受けて、

 Einstteinが彼の方法で音信号を用いる場合の誤りをいかに理解していな
 かったかを見て困惑している


と述べています。これについては、

 ・もし、音信号が互いに慣性的に動いている二つの船の中で用いられる
  なら、音信号の速度は考えている二つの系間の速度にベクトル的に加
  えられるので、彼のその次の相対的同時性についての説明は誤ってい
  る。

 ・「媒体が(慣性系の各点と共に)静止していなければならない」という彼の
  条件は、それが「自由空間が任意の慣性系で静止しているべきだ」とい
  う意味を含むので、自由空間の光に適用されるときは不合理である。


と指摘された上で、当然の論理的帰結ですが、

 信号に何を選ぶかで差があってはならないはずであり、もし二つの信号が矛
 盾した結果を生ずるなら、少なくとも1〜2種類の信号に対して、経路ABと
 BAが等価であると言う条件は満足しない


と批判されています。
確かに、Einsteinが(※11)と書いているなら、この方の指摘は当然ですね。「音波」の場合の分析
で反相対性理論の主張をされているサイトをいくつか目にしましたが、こういう背景があったんで
すね。私はまだまだ知見が不足していました。

筆者はpostulete8に対する結論として、

 ・EinsteinのSRTのテキストで述べられているが、postulateと表記されていない
 ・SRTの構成には必須である
 ・非論理的である
 ・実験的に証明されていない


と述べられています。

--------------------------------------------------------------------
postulate9 :「同時性(synchronicity)の第五postulate:Einsteinの同時性の定義
          の普遍的妥当性(universal validity)

--------------------------------------------------------------------
[observed by]
Wolfgang Engelhardt - "Einstein's Third Postulate". 2015

著者が示している関連するEinsteinの言葉:

 "We assume that this definition of synchronism is free from
 contradictions and possible for any number of points;
"(1905)
 「我々は、この同時性の定義は矛盾を逃れ、任意の数の点に対して
 可能であると仮定している


これに対しては、Wolfgang Engelhardtという方が、

 "This seemingly innocent assumption was never justified by
 Einstein in detail, but following from the local time derived
 in §3 a severe problem appears to emerge. More than thirty
 years later, in Einstein's book with L. Infeld a simplification
 is employed, which, intentionally or not, circumnavigates
 this issue
"
 「この一見潔白な仮定は決してEinsteinによって詳細には正当化さ
 れなかったが、§3で導出された局所時間に従って、種々の問題が
 表出することは明白である。30年以上のち、Einsteinの本の中で
 L. Infeldと共に、意図的か否か、この論題を避ける簡単化が採用さ
 れている


と指摘され、Einsteinが1938年にInfeldと共著で出したものを使って、「時間遅れ(time delation)」
に関するEinsteinの概念と例証として、Einsteinの時計の同時性とそれから出てくる矛盾を解析し
ているそうです。
彼は、Einsteinのなしている時計のセッティングというのは、「参照慣性系Sが、自身の時計を有
する別の参照慣性系S'の原点(origin)に一致する原点において一つの時計を含んでいて、系S
は更に『異なる点xにおける三つの同期化した時計を装備している』
」というものであって、これに
より一見矛盾のない「時間遅れ」の概念を説明したと考えているようであるが、その実、それは、
時間に対して相対的なローレンツ変換を隠して簡単化されたもの」であると指摘しているようで
す。S'において、時計の列がt=t'=0において瞬時に全て0とセットされる時計の列に等価となると
置くなら、SとS'の原点にいる観測者は、SとS'の他の時計のペアはEinsteinのローレンツ変換
により不一致であることになり、ローレンツ変換が間違っていることを証明していることになって
しまうすなわち、Einsteinが、それによって、彼の同時性の定義は誤っていないと仮定したこの第
五仮定は、Einsteinの定義自体が示している誤りを導くので間違っていると指摘されているそう
です。著者らは時計配列に対する慣性運動のコンピュータシュミレーションで彼の指摘を証明し
ているそうです(〜Valentin Danci-"Einstein's Time Dilation concept proved false by Time
Sharing methods". 2016)。
要するに、Einsteinは批判に対して、1905年に出したSRTの合理性を一生懸命説明しようと努
力してきたものの、その説明自体、いわば尻抜けしているものでしかないことを綿密に論理的
に分析するとわかる−仮定に仮定を重ねて屋上屋を作っても、所詮「砂上の楼閣」に過ぎない
ことが証明されている−ということでしょう。

それゆえ、著者はこの第五postulateに対して次のように結論付けています。

 ・EinsteinのSRTのテキストで述べられているが、postulateと表記されていない
 ・後のテキストでは、それがまだ実質的に考えられていることを意味しているものが
  省略された
 ・SRTの構成には必須である。それは他の同時性の仮定を補強するものである
 ・論理的に無効である
 ・実験的に証明されていない。任意の二つの時計の配列が、それらの参照慣性系
  が互いに運動している瞬間あるいは原点が一致する(リセット(瞬間に0を示すよ
  うにセットできる


--------------------------------------------------------------------
postulate10 :「同時性(synchronicity)の第六postulate:Einsteinの同時性の定義
          の他動性(transitivity)

--------------------------------------------------------------------
[observed by]
N. David Mermin - "Plane Geometry in Spacetime". 2009

"transitivity"のよい日本語が見つかりませんでしたので、web辞書にあった「他動性」というのを
そのまま使っています。「他から働きかけられる、他に働きかける」性質というような意味です。

著者が示している関連するEinsteinの言葉:

 "If the clock at A synchronizes with the clock at B and also with
 the clock at C, the clocks at B and C also synchronize with each
 other
"(1905)
 「もしA点の時計がB点の時計と同期化されていて、更にまたC点の時計と
 [同期化されている]なら、B点とC点における時計は互いに同期化している


著者は、このpostulateは、「慣性参照系(IRF)の二点からIRFの全ての点に、共通時間の概念(同
時性の第二postulate−postulate6−)を拡張している」ゆえにSRTにとっては重要なpostulateで
ある
と述べていて、それは、1910年及び1912-1914年のEinsteinの記述にも現れているとして、次
の文章を示されています。

 "[...] If, step by step, we regulate clock B against clock A, clock
 C against clock B ..., we obtain a series of clocks such that any
 of them is in phase with the preceding one.
"(1910)
 「[...]もし、ステップ・バイ・ステップで、時計Aに対して時計Bを合わせ、時
 計Bに対して時計Cを合わせる・・・ならば、それらの任意のものが、前の
 ものと同じ位相にある一連の時計[群]を得る


 "[...] we say that the clock at A is synchronized with the clock
 at O. Using the same procedure, clocks arranged at rest with
 other points B, C, etc., and of identical construction as the
 above mentioned clocks, can also be synchronized with the
 clock at O.
"(1912-1914)
 「我々は、A点における時計はO点における時計と同期していると言って
 いる。同じ手法を使うと、他の点B,C,・・・とと共に静止して並べられ、
 前述の時計と同一の構成の時計はまた、O点の時計と同期化できる。


このpostulateに対して著者は次のように結論づけられています。

 ・1905年のテキスト及びその後のテキストで明確に述べられているが、
  postulateと表記されていない
 ・論理的には妥当である
 ・Einsteinの同期化の方法に対しては実証証明されていない。


論理的に妥当であるが、実証証明されていない限り「仮定」であるというわけです。

(続く)(長くなりますので、項を分けます)
 ('17/6)

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