物理学の空間・時間は"conventions"

以前から、ある理由で、物理学における空間・時間の概念は「ほんとう」のものかという疑念
を抱いていて、まずは、今までの自分自身の知見をまとめておこうと、 ここここ で述べまし
た。この私の疑念というのは、古典物理学、現代物理学の両方における、それらの概念全般
への疑念です。

前にも書きましたが、私自身理系人間なのに、「科学常識に反している」などということは、懐
疑的に感ずる根拠には全くならない輩で、むしろ「科学常識なんぼのもんじゃ」という意識が
若いころからあり、今では一括して「とんでも」というレッテル貼りがされているものにも全く抵
抗感を感じない輩なんです。前述で「ある理由で」と書きましたが、具体的なことは触れませ
んけど、そういう私自身の目に触れたある一言からのものだとだけ述べておきます。

そんな中で、ネットサーフィンしていましたら、最近、「えっ?!」という言説を目にしました。
残念ながら、私自身が求めていることとは異なるのですが、物理学で扱っている空間・時間
に対する、ある意味(その表現が妥当かどうかはわかりませんが)、「冷めた視点」でそれら
を取り扱う思考(その方達の"science philosophy")をされていた・いる科学者の言説が紹介
されていました。

その一つは、ここで示したPoincaréの主張でした。 そこで示したPoincaréの言説のポイント
と考えている部分を再掲しておきます。

 "Space is another framework which we impose on the world.
 Whence are the first principles of geometry derived? Are they
 imposed on us by logic?
 Lobatschewsky, by inventing non-Euclidean geometries, has
 shown that this is not the case.
 Is space revealed to us by our senses? NO ; for the space
 revealed to us by our senses is absolutlely different from
 the space of geometry.
 Is geometry derived from experence ? Careful discussion
 will give the answer no ! We therefore conclude that the
 principles of geometry are only conventions
"
(●)
 (空間は我々が世界の上に重ねた他の枠組みである。この最初
  の幾何学原理はどこから導き出されたのであろうか?それらは
  論理によって、我々に乗じているのだろうか?
  非ユークリッド幾何学を考え出したLobatschewskyは、これはそ
  のケースではないことを示した。
  空間は、我々に、我々の感覚によって現れているのであろうか?
  ノー;なぜなら、我々の感覚によって我々に現れている空間は
  幾何学空間とは絶対的に異なっている
からである
  幾何学は実験によって導き出されたのであろうか?注意深く
  議論すると、答えはノー
である。我々は、それゆえ、幾何学原
  理はただ、慣習的なもの
だと結論付けられる)


驚きました。私が注目したキーワードは"conventions"というtermで、 「慣習」「因習」という
ような意味の英語です。要するに、Poincaréは(●)で、

 科学で取り扱われている幾何学空間というのは、"real world"そのもの
 ではなく、それに重ねられた、単なる慣習的な枠組みに過ぎない
(※1)

と言明しているのです。

Poincaréはその根拠として(●)の中で、"non-Euclidean geometries(非ユークリッド幾何学)"
を引用していますが、なぜかおわかりでしょうか?
そもそも「非ユークリッド幾何学」というのは、(論理)数学世界で発見されたものであり、かつ、
多くの方が誤解されている気がしていますが、前に、ここで指摘したように、

 「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」は、独立して
  両立するものである


であり、決して、

 「非ユークリッド幾何学」⊇「ユークリッド幾何学」ではなく、したがって、
 「非ユークリッド空間」⊇「ユークリッド空間」ではない


のです。それぞれで独立して自己完結した閉じた世界なのです。
Poincaréは数学者でもあり、当然ながら、よくそれをご理解されていたと思います。ですから、
"real world"(現実世界)は、「ユークリッド幾何学空間」でも「非ユークリッド幾何学空間」でも
論理的には矛盾なく説明する(表す)ことができるゆえに、幾何学空間というのはconvention
であると結論付けたのではないでしょうか?

私の中には、以前にも書きましたように、

 この地球の科学における空間、時間の概念とその尺度は昔の『科学者』
 が「便宜的に」定めたもので、かつ、測定装置はそれを元に人間が作り
 出したものであり、決して、『全知全能の神』が作りたもうたものではなく、
 したがって、全宇宙共通のrealなものではない(そんな証拠はない)だろう


という思いがずっとあります。ですから、ニュアンスの差はありますけど、"convention"という
のは、それの別の表現と捉え、そういう"philosophy"で明言されていた科学者がいたこと、そ
して、それが、かのPoincaréであったことに驚いた次第でした。

ま、大変失礼ながら、多くの方達(科学愛好家は勿論のこと、科学者でも)の意識の中には、
そういう"philosophy"はないのではないかと思います。ネット上に、ある哲学者の「時間論」を
批判し、時間・空間についてはすでに現代物理学で明確化されていると主張されている方が
いますが、この方は、多分に、real worldのものと思い込んでおられるようで、"convention"な
どという発想はないでしょうね。

そうこうしていたら、今回、この"convention"という思考での他の方の主張を目にしました。
最近、いくつか引用している、the general science journalというサイトに多数のscience essay
をアップされているR.J.Andertonという方のessayの一つ
 "Boscobich and constancy of light speed(in vacuum)"
の中で引用されている、Karl Svozilという方が、
 "Conventions in relativity theory and quantum mechanicis,Karl Svizil, Institut
 f'ur Theoretische Physik, University of Techonology Vinna 9 Oct 2001 arXiv:
 quant-ph/0110054v1
"
という論説の中で示されているという主張です。

Karl Svozil氏は、

 the speed of light(vaccum) is a convention(◆)
 (真空中の光速は慣習的なものである)

と言及し、

 there are those who deal with special relativity falsely thinking
 is to be empirical fact

 (特殊相対性理論を実験観察のものと誤って考えて扱っている人々が
  いる)

と指摘されているそうです。

Karl Svozil氏は、"convention"に関し、

 "Conventions are a necessary and indispensable part of operationalizable
 phenomenology and tool-building. There is no perception and intervening
 without conventions. They lie at the very foundations of our world
 conceptions. Conventions serve as a sort of "scaffolding" from which
 we construct our scientific world-view. Yet, they are so simple and
 alomost self-evident that they are hardly mentioned and go unreflected.
"

 (conventionは現象の操作化と道具立てに必要不可欠なものである。convention無し
  では認識も介在もない。それらは、我々の世界の概念の真の土台に基づいている。
  conventionは我々が我々の科学的世界観を構築する一種の「足掛かり」として貢献
  している。けれども、それらは、大変単純で、ほとんど自明のことで、ほとんど述べ
  られず、熟考されていない)


と述べ、続いて

 "To author, this unreflectrdness and unwarebess of conventionality appears
 to be the biggest problem related to conventions, especially if they are
 mistakenly considered as physical "facts" which are empirically testable.
 This confusion between assumption and obsevational, operational fact
 seems to be one of the biggest impediments for progressive research
 programs, in particular if they suggest postulates which are based on
 concentions different from the exsiting ones.
"

 (著者にとっては、この慣習性を熟考しない・注意しないといことは、特にもし、
  それらが、経験的な試験可能な物理的「事実」と誤って考えられるなら、
  conventionに関連した重要な問題であるように見える。
  この仮説と観測可能な操作上の事実との間の混同は、特に、もし、それら
  が存在するものと異なる概念に基づく仮定(postulate)を暗示しているのな
  ら前進的研究プログラムにとって、最大の障害の一つに見える)
(◎)

と主張し、

 "Despite the obvious conventionality of the constancy of the speed of
  light, many introductions to relativity theory present this proposition
  not as a convention but rather as an important empirical finding.
"

  (光速一定の明白な慣習性にも拘らず、多くの相対性理論入門はこの命題を
   conventionでなく、むしろ、重要な実験的発見として提示している)


と批判されています。

Karl Svozil氏が何を主張されているかおわかりでしょうか?
大変失礼ながら、多分に多くの方達は理解できないのではないかと思います。少なくとも、
Einsteinの1905年の"Special Relativity"のpostulateUを実験的に証明されているなどと思い
込んでいる方達にはわからないと思います。
実は、これに関しては、多分に、多くの方々が知らないと思われる驚くべき話がありますが、
それについては後述します。

現在、「光速(speed of light)」は「物理定数」として、"c"という記号で表され、その値は、

 c=299,792.458 km/s

とされていますが、これは、ここで述べたように、1950年代にレーザーとLouis Essenという方
が発明した原子時計を用いて測定され(Louis Essenらによる)、1957年のGeneral Assembly
of 12th the Radio-Scientific Union
で承認され、1983年のthe 17th Conférence Générale
des Poids et Mesures
で標準値とされたものです。測定は、地球上でなされたものです。

しかしながら、考えていただきたいことは、この値は、昔の科学者が定めた距離・時間の尺度
に基づいて作られた距離(この場合は波長)と時間を測るツールを用いて、基本的には、

 速度=距離 / 時間

という定義に従って算定された値であるということです。要するに、"convention"の世界のも
のだということです。我々は、実証観測できているからとして、これを"real world"のものと考
えてしまうのですが、"convention"である「幾何学」によっているものでしかないという事であ
り、cというのもそうだということなのです。

結局、我々が、「最低限の実験的事実(fact)」と考えている地球上で測定したcの値及びその
観測結果が同一だった(有意差が測定できなかった)というのは、あくまで、地球とその上に
設置した測定装置系を、それに重ねた"convention"としての「ユークリッド空間」の幾何学の
元でのものだということです。勿論、そういう方法でしか現象把握ができないのは事実ですが
それをきちんと認識しているかどうかをKarl Svozil氏は問題にされているようですし、そういう
指摘には、私も理解して、同意できました(しつこいですけど、私自身は、現在の枠組み自体
に疑念を持っていますけどね−残念ながら、代案たる自分自身の独自概念まではまだない
のですけどね(^^;)

さて、先のPoincaréやKarl Svozil氏のこのような思考は、そもそもそのような思考をされた昔
の方の影響によるもののようです。なんと、18世紀に、既にそのような思考をされていた方が
おられたようです。Karl Svozil氏は、

 "If the very instruments which should indicate a change in the
 velocity of light are themselves dilated, then any dilation effect
 will be effectively nullified.
"

 (もし、光速変化を示す本当の道具はそれ自身dilateされるなら、そのとき
  任意のdilate効果は結果的に無効になるだろう)


と述べ、

 "This possibility has already been imagined in the 18th century
 by Boskovich and was later put forward by FitzGerald.
"

 (この可能性は、既に、18世紀にBoskovichによって想定され、そして
  その後、FitzGeraldによって進められた)


と述べています。

FitzGeraldにつきましては、ここで触れましたように、1889年に Michelson-Moley experiment
(1887年)を受けて、

 "null" result of MMX could be from shrinking of a body due to motion
 (MMX[注:Michelson-Moley experimen]の「ヌル」結果は、運動により物体が短縮
  された[結果]であろう)


と述べた方で、それがLorentz ether theoryに繋がったという歴史的事実があります。

恥ずかしながら私は、Boskovich(1711〜1787)という方は知りませんでしたが、wikipediaに記
載がありました。詳しい英語版wikipediaによれば、この方は現・クロアチアの方で、物理学者、
天文学者、数学者、哲学者、外交官、詩人、神学者、イエズス会の司祭だったそうです。多才
の方だったんですねぇ。私は特に、物理学者で哲学者というところに着目しました。

Karl Svozil氏によれば、Boskovichは、

 "When either objects external to us, or our organs change their
 modes of exsitence in such a way that first equality or similitude
 does not remain constant, then indeed the ideas are altered, &
 there is feeling of change;but the ideas are the same exactly,
 whether the external objects suffer the change, or our organs,
 or both of them unequally. In every case our ideas refer to the
 difference between the new state & the old, & not to the absolute
 change, which does not come within the scope of our senses.
 Thus, whether the stars move round the Earth, or the Earth &
 ourselves move in the oppsite direction round them, the ideas
 are the same, & there is the same sensation.We can never
 perceive absolute changes;we can only perceive the difference
 from the former configuraton that has arisen. Further, when
 there is nothing at hand to warn us as to the change of our
 organs, then indeed we shall count ourselves to have been
 unmoved, owing to a general prejudice for cunting as nothing
 those things that are nothing in our mind;for we cannot know
 of this change,& we attribute the whole of the change to objects
 situated outside of ourselves.
 In such manner any one would be mistaken in thinking, when on
 board ship, that himself was motionless, while the shore, the
 hills & even the sea wwre in motion.
"

 (エーテルが我々にとって外的にあがらうもの、または、我々の器官が
  最初から等価性または類似性が一定で残らないようにそれらの存在
  の様相を変化させるなら、そのとき、実際にはそのideaは変わり、変
  化の感知がある;しかしながら、そのideaは外部物体が変化を提供
  するか、我々の器官[が変化を提供する]か、両方等しくないかに係
  らず、正確に同じである。全てのケースにおいて、我々のideaは我々
  の感知内には来ない新しい状態と古い状態間の相違、絶対的変化
  ではないものを参照している。
  このように、星が地球の周りを動くか地球と我々自身がそれらの
  周りに反対方向に動いているか、そのideaは同じであり、同じ感覚
  がある。我々は決して絶対的変化を感知できない;我々は、ただ、
  前と生じた形態の相違を感知できるだけである。更に、我々の器官
  の変化として我々に注意を促すものがないとき、我々の心の中にな
  いものはないとみなす一般的な先入観により、実際、我々は動いて
  いないとみなすだろう;我々は我々の外部にある物体の全変化に帰
  する。
  このような状態で、ある人は、船の上にいるとき、彼自身が不動で
  港、丘、更には海さえも動いていると誤って考えるだろう。)


と述べ(これは言わばガリレイの相対性原理ですね)、

 "Again, it is to be observed first of all that from this principle
 of the unchangeability of those things, of which we cannot
 perceive the change through our senses, there comes forth
 the method that we use for comparing the magnitudes of
 intervals with one another; here, that, which is taken as a
 measure, is asuumed to be unchangecable.
"

 (更に、我々が我々の感覚ではその変化を感知できないものの不
  変可能性の原理から、我々お互いの感覚の大きさを比較するの
  に用いる方法が出てくることが全ての最初に観察されることであ
  る;ここに、測定できるものは不変可能であると仮定される)


と述べています。わかりにくいですが、H V Gillという方が、次のように説明されているそうで
す。

 "We cannot perceive this change in the length, because
 we ourselves and all our means of measuring the lengths
 of the rod under different condtions change in exactly
 the same proportion. Since time is measured by some
 such means as pendulum or clock, which depends on its
 physical dimentions, it follows that time thus estimated
 will also vary in same proportion as the dimension.
"

 (我々はこの長さの変化を感知できない、なぜならば、我々自身
  と我々の棒の長さを測る手段は異なる条件下で厳密に同じ比率
  で変化するからである。時間は同じ物理諸元に依存する振り
  子または時計のような手段で測定されるので、このように見積
  もられた時間はまた、諸元に同じく比例して変化するだろう)


驚きです。18世紀に既にこのような思考をされていたとは・・・

どうやら、私はPoincaréやLorentzを誤解していたようです。そしてそれは、Lorentzが1927年
(この時Poincaréは、既に1912年に亡くなられていますけど)に述べたという

 "I never thought that this[time transformation] had anything
 to do wth real time.
"

 (私は、これ[時間変換]が実際の時間を扱う何かだとは決して考えなかった)
 (注:time transformationはEinsteinの"special relativity"にも引き継がれているLorentz変換
  −実質的にはLorentzに協力したPoincaréが導出したもの−のこと)

からもわかりました。彼らは、1904年に発表したLorentz ether theoryはreal worldのものでは
ない(注:間違っていると言っているのではない)という認識を有していたことを示しています。
すなわち、既にPoincaréが"prinsiple of relativity"と名付けて話していたLocal time−時間の
遅れ、距離の短縮−というのは、"real world"の話ではなく、"convention"としての幾何学世
界の話であると考えていたという事でしょう。

私の理解力不足もあって、うまく説明ができていないきらいがありますが、物理学における、
時間・距離・速度という概念、その尺度などは"convention"のものであると捉えていたという
ことではないでしょうか?

古典力学体系を構築したNewtonらはどう考えていたのでしょうか?私はreal worldのものだ
と考えていたのではないかと思います(Newtonは自分の理論は"hypothesis"ではないと断言
していたと聞いていますので)。そして、現在も多くの人がそう考えているのではないかと思い
ます。それは、

 Newton力学世界では、時間は不変的・普遍的と考えられていたが、
 Einsteinがspecial relativityでそれを破った


というような説明が多々見られるからです。要するに、そういう説明の背景には、

 現実の時間・距離は古典力学の時代に考えられていたものと異なる
 ことをEinsteinが証明した


という思い込みがあるからだろうと思うのです。

ところが、そういうEinstenian(Einstein's fan)の方にとっては衝撃的なお話があるのです。
実は、それを結果的に暴露しているのが、その発言から見れば、Einstenian(Einstein's fan)
(少なくとも、Anti-Einstein/Anti-relativityではない方)だということに留意していただきたいと
思います。なぜ、私がEinstenianの人だろうと思ったかは後述する発言内容を見ていただけ
ればわかると思います。

これも、上記のthe general science journalに投稿されているR.J.Anderton氏のscience essay
で引用されているものですが・・・ (⇒"The non exist of Eisntein's Light speed barrier"))

実は、あのEinsteinも1905年の"Special Relativity"を発表した頃は、それを"real world"のも
のと考えていたそうですが、後から、Poincaréのphilosophyに「心変わり」しているようです。
それを、早くも2年後の1907年(このときは、まだ、アカデミズム科学界に迎えられていない)
だと主張されているEinsteinian(Einstein's fan)の方がいますけど、ソースが不明ですのでそれ
が事実かどうかはわかりませんが、少なくとも、1921年(既に教授職で、1919年に一躍、欧米
で"hero of science"となった2年後)、講演(1922年にその講演録が発行されているそうです)
の中で、それを述べているそうです。

そのソースは、Anderton氏が引用しているHomer.B.Tilton(前述で、私がEinsteinianだろうと
推察した方)という方の、
 "TODAY'S TAKE ON EINSTEIN'S RELATIVITY PROCEEDINGS
 OF THE CONFERRENCE OF 18 FEB 2005"
の中の言説です。

Tilton氏は、まず、

 "Einstein orginally declared that the distortion of special relativity
 reflected real changes to the objects being remotely observed,
 then reconsidered.
"
(■1)
 (Einsteinは元々、特殊相対性理論のゆがみは離れて観察されている物体
 の実際の変化を反映していると言明していて、しかる後に考え直した


と述べ、Mendels Sachsという方が"On Eistein's Later View of the Twin Paradox,"Foundations
of Physics,Vol.15,No.9,Sep.1985,pp.977-80の中で紹介している前述の1921年のEinsteinの講
演での言説、

  "In a lecture that Einstein gave to the Prussian Academy of
 Scienses in 1921, he said the following: "Geometry predicates
 noting about relations of real things, but only geometry together
 with the purport to physical laws can do so... The idea of
 measuring rod and the idea of the clock contained with it in the
 theory of relativity do not find their exact correspondence in
 the real world. It is also clear that the solid body and the clock
 do not in the conceptual edifice of physics play the part of
 irreducible elements, but that of composite structures, which
 may not play and independent part in theoretical physics."/
 Einstein then went on to say that. in spite of the foregoing
 comment, we should temporarily support the use of the length
 and time transformations as though they were physically real.
"
(■2)
 (Einsteinは1921年にプルシャの科学アカデミ−での講演において、次
 のように述べていた:「幾何学は実際のものの関係については何も叙
 述しておらず、単に、物理法則に対する目的と一緒にできるだけであ
 る
... 測定棒や相対性理論に含まれる時計のアイデアは実際の世界
 においては厳密に該当するものは見つけられない。また、剛体と時計
 は物理の概念上の構築物においては帰する要素の役割をしているが、
 理論物理学においては何も演じずかつ[ただ]独立した役割である合成
 構造体[にすぎない]。」/前言にも係らず、我々は一時的には長さと時
 間の変換の利用をあたかもそれらが物理的事実であるかのように維
 持すべきである


を引用し、

 "Einstein obviously, in 1921, had second thoughts about some
 of the things he had written in 1916 and earlier in connection
 with special relativity. One is the twin paradox; another is his
 declaralation of an absolute light barrier, since he had based
 that on shirinking of length to zero, and the slowing of clocks
 as the speed of light is approached.
"
(■3)
 (Einsteinは明らかに、1921年に彼が1916年の特殊相対性理論に関する
 初期に書いたいくつかのものについての二番目の思考をした。
 一つは双子のパラドックスである;他のものは、彼は光速に近づくにつれ
 ての長さは0に短縮され、時計はゆっくりになることを基礎としていたので
 絶対光速の壁に関する申し立てである。)


と述べています。

どうですか?明らかにEinsteinは1905年の"Special Relativity"発表時と後年で完全に考え方
を変えているのですがわかりますでしょうか?そして、(■2)というのは、まさに、前述で示し
たPoincaréのphilosophy(すなわち、"convention"という思考)そのものです。
実は、前述の1922年発行の1921年講演録の中で、Einsteinは

 "Poincaré, in my opinion, is right"
 (私の意見では、Poincaréは正しい)

と明言しているそうです。
これはすでにここなどで紹介してきた歴史の真相を知っていると 実に驚くべき発言です。
なぜなら、1905年の発表以来、しばらく、PoincaréやLorentzらフランス派と鋭く対立論争して
いたという事実があり、更には、それゆえか、Einsteinは生涯、Poincaréの学説には言及しな
かったというような話まで目にしていたからです。確かに、この講演の時は既にPoincaréは亡
くなられていました(1912年死亡)けど、Lorentzはまだ存命中でしたから。

Einsteinian(Einstein's fan)の方達は、彼らの"Divine Albert"も、後から、Poincaréのphilosophy
を追認し、少なくとも自己の理論の解釈を変えた(real worldのものではなく、convention世界
のものだと認めた)ことをどう思われるでしょうか?

驚くことに、Tilton氏は、Einsteinはこの自らのphilosophyの変更により、"light speed barrier"
の解釈を1905年時と変えたと述べ、今後はEinsteinに従ってそう考えていくべきだと主張され
ています(Tilton氏は少なくともAnti-Einstein/nti-Relativityではなさそうな方であり、そ
ういう方の主張だということは驚くべきことと思っています)

ただ、やはり、それがEinsteinian(Einstein's fan)の方の限界だと思うのですが、(■3)の後に、

 "This leads to our[..] non sequitur. However, rather than admit
 he had changed his mind,he eased into his new view while saying
 the old one should be accepted a bit longer.
"
(■4)
 (これは我々を、non sequiturに導く。しかしながら、彼が心変わりをした
  と認めるよりも、むしろ、彼は古い見解を少し容認しながらも新しい見解
  に気楽に入ったと認めよう[ではないか])


と、Einsteinに実に好意的に述べています。
ちなみに、この"non sequitur"というのは、"it does not follow"と言う英語に相当するラテ
ン語だそうで、Merram Webster dictionaryによれば

 1. an inference that does not follow from the premises;
  specially : a fallacy resulting from a simple conversion
  of a universal affirmative proposition or from the
  transposition of condition and its consequent.

  (前提に従わない推論;特に、一般的な肯定的命題の簡単な
  慣例からまたは条件の置き換えと結果からの誤って導かれた
  結論)

 2. a statement(as a response) that does not follow logically
  from or is not cleary related to anything previously said

  (以前言った何かから論理的に導かれないまたははっきり関連
  しない言説(応答として)


という意味だそうです(Anderton氏の解説)。
恐らく、EinstenianのTilton氏は、このEinstein語録を目にしたとき、相当迷われたのではない
かと思います。それが、この"non sequitur"というラテン語を使用した理由だろうと思います。
しかしながら、「"real world"のもの」という思考と「"conventions"のもの」という思考は、根本
的に異なり、やはり、Anderton氏が本essayの中で主張されているように、

 Einstein changed in his mind
 (Einsteinは心変わりした)


というのが素直な解釈ではないかと思います。なぜなら、省略しますけど、引用されている
Tilton氏の全説明を読んでも、彼のような理解ができるという説得性が感じられなかったゆえ
です。

但し、Poincaréian(自らPoincaré theory賛成派と述べられています)のAnderton氏が思われ
ているように、Einsteinは1905の自らの"Special Relativity"を捨てて、"Poincaré-Lorentz
theory"を全面採用したかどうかは不明です。というのは、Anderton氏が主張されているように、

 Einstein is crafty; he will say one thing then say oppsite and
 not point out sufficiently clealy that he has changed his mind.

 (Einsteinは卑怯である;彼は一つのことを言い、それから反対のこと
  を言う、そして、彼が心変わりしたことを十分明確に示していない


という風であったからです。この、"not point out sufficiently clealy that he has changed his
mind"というのは、ここで触れた友人やHeisenbergとの対談の中でのEinsteinの発言を見れば
よくわかると思います。実に「曖昧」な言い方をしています。それが彼一流の科学界における
世渡り術だったような気もしていますけどね。少なくとも、Einstenianが喧伝するような晩年の
ご立派な語録などというのは、「欺瞞的発言」でしかないと私は思っています。

ま、だからこそそうなるんでしょうけど、Anderton氏は、

 Einstein has a large fan base, and they don't seem to mind
 these changes of mind,they will individually cherry-pick
 what they want to believe from what Einstein said.

 (Einsteinは大きなファン層を持っていて、彼らはこれらの変心を変心
  とみなさず、個別に、Einsteinが言ったことから信じたいことだけを
  cherry-pickするのだろう


と批判されていますけどね。

Tilton氏は、Nahinという方の言説、

 When asked during a 1952 interview
 whether it is permissible to use special relativity in
 problems involving acceleration, Einstein replied,"Oh yes,
 that is all right as long as gravity does not enter; in all
 other cases, special relativity is applicable. Although,
 perhaps, the general relativity approach might be better,
 it is not necessary.
"
 (Einstein自身は彼の1905年の論文の中で、特に、時計の定時性
  は速度のみに依存するとした。しかしながら、反対する人が多い。
  この本で、私はEinstein側である。1952年のインタビューにて、加
  速を含む問題に特殊相対性理論を使うことが許されるかどうか
  について尋ねたとき、Einsteinは「オー、イエス、重力が入らない
  限りそれは全て正しい」と答えた。もっとも、恐らく、一般相対性
  理論的アプローチの方がよりよく、それ[Special reletivity]は必
  要ないけどね)


を引用されていますが、このEinsteinの回答をどのように読むかですね。
なぜなら、Einsteinは前述の1921年の講演で示したphilosophyの変化と1905年の"special
relativity"の間の本質的な部分の関連性についてきちんと説明していたようには見えないか
らです。付帯的な解釈論の変更くらいしかしてない気がしています。
そして、このTilton氏の解釈など、Einsteinとリアルタイムで科学界にいた科学者が誰一人指
摘してこなかった(少なくともそういう記録はなさそうです)ことが、こんな発言が深く斟酌され
ないでスルーされてきたのではないかと思うのです(但し、科学界はEinsteinを棚上げして、
relativityを独り歩きさせてきたというような考え方もできるのですけどね。欧米の昨今の動き
を見てますと、少なくともアカデミズム科学界ではそんな様相も出てきている感がしています)。
私は、最後の、"it is not necessary"にEinsteinの隠してきた本音が出ている気がしますが。

いずれにしろ、"Relativity theory"に限ってみた時、これを"real world"のものと考えるなら、
1904年の"Lorentz Ether theory(Poincaré-Lorentz theory)"も、1905年の"Special Relativity"
も、共に"ad-hoc hypothesis"であり、一方、"convention"世界のものであるのなら、Lorentz
Ether theoryは少なくとも「論理矛盾はない」hypothesisであるのに対し、Einstein's Special
Relativityは"nonsence"なhypothesisだと私は考えます。
Lorentz Ether theoryもSpecial relativityも共に"principle of relativity"に基づいていますが、
"convention"世界において、前者は、"ether"を前提にし"light speed"をvariableなものとして
いる(例外を作らない=矛盾はない)のに対し、後者は、"ether"を排除し"light speed"だけを
"principle of relativity"の例外扱いでconstantとしている(矛盾していて、その根拠もない)と
いう大きな相違点があります。


おっと、Einsteinの話になると余計なことまで書きすぎてしまって、少し話がずれてしまいまし
た。Tilton氏はもっとえげつないことまで述べていますし、Einsteinは既に1907年に自分の、
1905年の理論を捨てたとまで主張されている方がいますけど、主題とどんどんずれていって
しまいますので、これ以上の引用はやめておきます。

浅学菲才の身であり、私自身、自分の「主観」で読み考えていますので、解釈誤り・不足があ
ろうかとは思っています。しかしながら、前述の、Karl Svozil氏の(◎)という主張は傾聴に値す
ると思っています。
                                   (’15/2)

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