空間〜とりあえず〜
『空間』は『時間』とは異なり、我々は「見えている」と感じ
る分、考える時に
その意識が考察に先入観となって『時間』以上に意外に厄介な代物だなと
痛感しています。本当は時間と共に、「空間とはなんぞや?」と改めて問わ
れたとき、人間はきちんとした回答ができないものです。
一番厄介なのは、人間は「見えている」と思い込んでいる分、時間と異なり、
自然に『存在してる』ものと思ってしまうことです。
だからこそ、科学者はきちんとした空間の定義をしないまま、「空間が膨張
する」(ビッグバン宇宙論)とか「空間の歪」(場の概念)というような説明を
やっているわけで、特に理系の方達は、「なるほど」とわかった気になって
いるのです(真にわかったわけではなく、なんとなくわかった気になってい
るのだろうと自分自身を振り返って思うのです)。
思うに、人間の視覚の中に色々な物が存在するから、それとそれが置か
れた場所を含めて見えているものをそれ以外の領域まで脳内で拡張して、
『空間』という名前を地球の学者が与えたのではないでしょうか。
空間も時間と共に哲学のテーマになってきたようです。私自身が考え求め
ているのは、そういう観念的世界の「哲学的な何か?」ではないのですが
ちょっと調べてみました。カントまでの主なものを簡単に示しますと以下で
す(ここ
を参照させていただきましたm(__)m)
デカルト :「空間とは物体すなわち延長が占めている場所そのもの」但し、
「物体が無くなった後の空間は消えてなくなるのではなく、他の
(目に見えない)微細な物質によってとって変わられる」と主張
ニュートン:敬虔なキリスト教徒であった彼は、デカルトのこの考え方を神を
冒涜するものと攻撃。
「空間は神が創造したまうたのであり、その理由は万物を創造
する器として必要とされたから」と主張
彼の「絶対空間」の概念(「絶対空間とは、個々の物質とは別
にそれ自体として自存している空間であり、物質が取り除か
れても消失することはない」)に結びついている。
カント :デカルトやニュートンらの考え方を「空間を物自体との関連に
おいて、すなわち物自体が存在するための条件として考えて
いる」と批判。
「空間とは客観的な実在なのではなく、対象を認識するための
主観的な形式」と主張。
「人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物
自体ではない。物自体そのものは認識できない」「人間の認識
は対象そのものをあるがままに受容するのではなく、自らに備
わった内的な枠組み(空間と時間というアプリオリな形式のこと)
にあてはめて受容する」
デカルトのは、改めて考えた時の素朴なものであり、まさに、私が前述で
想定したそのものです。ニュートンのはデカルトもそうでしたが、科学と信
仰の狭間で両立させようという意識の賜物であり、日本人的には違和感
がありますね。で、驚いたのは、カントの概念です。彼は、私が感じてきた
時間のみならず空間も「主観的」なものとしたんですねぇ。確かによくよく
考えてみると、誰もきちんとした総意を得られる定義をしていない(できな
い)のはまさにこれゆえなのかもしれません。
ただ、現代の科学者・数学者を含む理系の方達は、わざわざそんなことま
で深く考えることなく、古くは『数学的』に定義され、その後拡張されたもの
だけで空間というものを捉えて、それ以上深く考えることもなく、それでよし
としている感がしています。
その『数学世界』での空間の定義は、最初は、人間の可視的な範囲で自
然な形で総意が得られるであろう『ユークリッド幾何学』体系による『ユーク
リッド空間』でしょう。ただ、人間の可視的な範囲では十分これだけでうま
く説明できていたのですが、その後、ユークリッド幾何学の第五公理を否
定しても矛盾が出ないことから、『非ユークリッド幾何学』が生まれ、それを
ベースにした『非ユークリッド空間』という概念が追加されました。
更には、Einsteinの相対性理論より、三次元の空間軸に時間軸を追加した
形の『四次元時空』という概念が生まれ、20世紀以降の現代物理学の根
幹的なものとなっています。但し、人間の五感的な所では、現実的に認識
できない、言わば「脳内」だけの極めて「抽象的」概念ゆえに、科学者が悪
く言えば、「勝手気ままに」「ご都合主義的に」概念の飛躍をさせ、自己の
理論の正当化の説明に利用している感がしてなりません。あるサイト見て
ましたら、質問した相手の先生は、なんと「概念の距離」などという回答を
をしたとか。恐らく御自分でも、正確に説明などできない言わば「言葉遊び」
で逃げているんですね。「数学的な式の結果」はあっても、現実と照らすと
矛盾が出てくるためにこいう言葉遊びで逃げているのは、非専門家の我々
だからこそわかってしまうんですけどね。
要するに、全てを「数学世界」だけで考えているからなんですね。「数学だ
から合理的で正しい」のだという幻想・信仰がしっかり根付いているわけで
す。そして、そこではやはり、「時間」ともども、その「数学世界」は地球の学
者が創設したものであって、言わば「万能の神が創設した」自然のもので
はないということを忘れられているまたは気がついてもいないんですね。
地球人類の脳内から生まれた(科学者のコンセンサスを得たてはいるもの
の、まさに、カントが主張したように、)「主観的」なものであり、全宇宙共通
の絶対的真理だという証拠などないのですが。
折角、カントが重要な指摘をしたのに、否定しているつもりでも、結局は、
ここで指摘しましたように
西欧人の底にある文化に共通な綿々と流れている思考のまま、特に物理
学者の場合は、『数学』が「全知全能の神」の地位になっているだけなので
すがねぇ。
尚、余談ですが、多くの人は、「ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何
学に含まれる」と考えているのではないでしょうか?(うちのせがれはそう
でした)これは、多分に、「非ユークリッド空間」=「曲面空間」というような
観点だけで考えているゆえでしょう。
しかしながら、ネット検索すれば、明らかなのですが、正統派解釈としては
これは誤りなのです。皆、これが生み出されたいきさつを知っているので
すが、ここで指摘したような数学への誤解ゆえに、前述のような誤解をして
いるんです。「集合論」と「論理学」から誤りがわかります。
{ユークリッド幾何学}を集合とし、その第一公理〜第五公理を要素
としますと、
となります。ですから、もし、「ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学に
含まれる」ならば、
ということになってしまい、矛盾した要素を持つことになるので「偽」なので
す。正解は、「ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は独立して成立し
ている」というものです。
ところで、「ユークリッド幾何学」「ユークリッド空間」は数学的には、人間の
素朴な一番プリミティブな自然の感性から生まれたものであり、基本的に
は空間の任意の位置に原点を置いた「三次元直交系」で表されているも
のです(図1)。
|
図1 三次元直交系
|
可視的な「もの」は全て、基本的にこの座標系で表すことができます。
古典力学のニュートン力学はこの「ユークリッド幾何学」の「三次元直交系」
を用いていますし、気が付いていない人が多いようですけど、宇宙ロケット
は未だニュートン力学で飛んでいるのです(現場修正は、本質的なもので
はなく、理想形での理論と現実との間に当然出てくる誤差修正です)。
勿論、三次元直交系の原点は任意に置けますし、空間上に現実にあるも
のではありませんが、自然科学をきちんと科学的に表す上での重要な道
具になっています。
ちなみに、図には「−」(マイナス)という「符号」が記されていますが、これ
を見てもわかるのではないかと思うのですけど、この「−」というのは現実
には「存在」するものではなく、単なる区別を表すために導入された指標で
しかありません。空間、時間と同様、何か「存在しているもの」という思いこ
みがある感がしているのであえて触れておきました。
さて、大抵の方は、『曲面』というのを思い浮かべることによって、「非ユー
クリッド空間」という概念を現実世界のものだと思っているものと思います。
しかしながら、それは「ほんとう」でしょうか?
あるサイトの方が指摘されていましたが、「地球は丸いから『まっすぐ歩い
て行けば(概念的には)元の所に戻れる』と言うが、『まっすぐ』というのは
あくまで『直線的』な運動であるから、そのまま宇宙に飛び出して行って元
に戻る事はできない」というような趣旨でした。私はこれは決してへ理屈な
どではないと思うのです。「習い覚えた知識が真実をゆがめている」のを誰
も気が付いていないということです。すなわち、これは、昔の人々が「地球
は平で端がある」と思っていたのに対し、現代人は「地球は丸い」という知
識を得たゆえに、そこから考えを敷衍させて、「まっすぐ歩く」=「丸い地球
の上を歩いて行く」と読み替えてしまったのです。
こういうレトリックに惑わされて、何か、「非ユークリッド空間」という空間が
真実の空間だと思い込み、「ユークリッド空間」を単なる近傍だけの近似的
なものと思い込んでいるわけです。ここにも「数学世界」を現実世界だとい
う思いこみがしっかりと根付いているわけです。しかしながら、「平行線が
交わる」などというのは現実的には直接実証できないわけです。わかった
気になって都合のよい「ツール」としての他の結果だけ使っているわけです。
ところで、私が一番気になっているのは、やはり「四次元時空」です。
カントが指摘したように、「時間」「空間」というのは「主観的」なものであり、
過去、その具体的な概念自体、総意を得たものは未だないまま、地球の科
学者が定義して、科学に帰せられたものですが、それを更に数学的処理で
一つにした姿が前述のように20世紀の物理学における基本概念となってい
ます。しかしながら、それは「ほんとう」のものでしょうか?
勿論、私自身は、「時間」と「空間」は独立して勝手に存在するものなどとは
思っていません。ある「出来事」は空間と時間の両方に関係するわけですか
ら。
それゆえ、相対性理論には疑念を感じてきましたけど、つい最近まで、今
の四次元時空の概念までは、さすがに疑念など感じてもいませんでした。
しかしながら、速度という概念の不十分性に気が付いてから、空間・時間
の現在の科学的定義は「ほんとうか」という疑念が湧いて来ている中で、
ある方のサイト(ここ)の主張から、
改めて、現在の「四次元時空」の概念
が相対性理論に出てくる式からの「おかしな」敷衍によるものであることに
気がついて、これにも「ほんとうか」という疑念が私の中に出てきてしまい
ました。「四次元時空」の概念を初めて知ってから約40年間、露ほども疑
念など抱いて来なかったゆえに、少々、寂しい思いもしていますけど、今
更、疑念から心をそむけられない私がいます。
ちなみに、上のサイトの御主張から、気が付いたんですが、どうもおかしい
気がしています。特殊相対性理論の中に、
| ・・・(a)
|
という式が出てきます。後世の学者がローレンツ変換式を出すのに用いて
いる式です。(a)を変形すると、
| ・・・(b)
|
となります。一番、「おかしい」のはなぜかこれをSと置いてことですが。
で、数学により、
| ・・・(c)
|
より、(b)は
| ・・・(d)
|
となります。そこで、
とおくと、(d)式は
| ・・・(e)
|
となるわけです。この(d)式は、三次元の球の式
| ・・・(f)
|
と類似しています。ここにめでたく「四次元座標系」が完成しています。
が、しかし、しつこく、私は(a)、(b)式で赤字で示しましたように、実は最初
から最後まで、
| ・・・(g)
|
なのです。Sが0でないなら、(a)式自体が成立しないのですから、ローレン
ツ変換自体が出てきません。すなわち、特殊相対性理論自体が成立しない
のです。要するに、Sは常に(g)なのですから、(f)とは類似していないので
す。結局、本質的に、わざわざ(b)のように、Sとおく蓋然性はどこにもない
のです。
しかるに、ictという発想は間違いなく、(b)、(c)式から出てきたものです。
要するに、この「四次元時空」の導出は、単なる「数学的トリック」でしかなく、
真の意味での「四次元時空」などではないということです。ですから、□
(ダランベルシアン)という発想もおかしな話になるんですが・・・
実は、恥ずかしながら、私は、前に「なぜ、時間軸は虚軸なんだろうか?」
などと思い悩んだことがありました。しかしながら、ctは(光速)×(時間)で
すから、これは時間t進んだ時の『距離』なんですよね。決して時間軸など
ではないわけです。恐らく、皆さんは、「t」に魅入られて、本来、単位系
があって無次元では無い「c」を単なる定数みたいに思ってしまっているの
ではないでしょうか?くりかえしますが、「ct」はあくまで三次元空間の「距
離」でしかないのです。
とうとう、私の中では、現代物理の基本になっている「四次元時空」まで崩
壊してしまいました。私の前には、時間、空間、これらの関係、速度ととう
とう4つもの課題が出て来てしまいました。で、現時点ではどれ一つも妙案
が湧いて来ていません(^_^;)。成功はおぼつかない長い思考の旅路です。
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