時間〜とりあえず〜

時間』、これは考えれば考えるほどわからなくなる不思議な奥の深い概念です。
過去、色々な意見が出されましたが、未だ、万人が納得するような答えは見出さ
れていないようです。国内でも、山口大学に哲学者や科学者が集う「時間研究所」
というのがあるそうです。

以前、一度書いてアップしたのですが、気に入らなくて削除してしまいました(^_^;)
そして、ずっと調べたり、考えたりしているのですが、浅学非才の私の頭では未
だに自分で納得できるような答えが見つかっていません。
で、ここでは、「とりあえず」としたように、これまでの私自身の基本的知識と考え
途中についてついてとりあえず得て勝手なまとめをしておこうと思う次第です。

そもそも、「時間」と言う発想はどこから生まれたのでしょうか?
私の中ではっきりしていることは、

 人間は、『経験的』に認識している『移り変わる変化』というものを
 (『空間』との関連から、)感覚的な『一方向への流れる何か』と捉え、
 それを『時間』と名付けた


のだろうということです。

この「移り変わる変化」というのは、一番プリミティブなところでは、「朝、太陽が
東から昇り、夕方西に沈む」という一日の状態、日本なら「『冬』と名づけられた
寒い雪の降る季節が梅が咲いて終わりに近づき、雪が融けて桜が咲く『春』と名
付けられた季節になり、やがて、太陽が真上を通って暑い『夏』と名付けられた
季節になり、そして、肌寒くなり木の葉が紅葉する『秋』と名付けられた季節にな
り、その後、落葉と共に、再び寒い冬となる」という1年の状態から自然に人類が
感じているものでしょう。

そして、その繰り返されるサイクルの中で色々と起きた出来事はすぐに過ぎさっ
た記憶・記録の中にだけ残るものになり、人間は、その『』を、考えているところ
の『現在』を起点にして 『過去』、一方、これから来るであろうと思っている
『時』を『未来
と名付け、

 過去⇒現在⇒未来

という、特に(それを後ヅモで言われているような)「直線」をイメージして一つの
方向
に『時』が流れる
と「自然に」思っているのではないでしょうか?
ま、この『現在』と言う概念はよくよく考えてみると曖昧なもので、瞬間なのかそれ
ともある範囲を指して言っているのかそこがはっきりしていないすごく漠然とした
感覚的」なものであるということは間違いないでしょう。哲学議論では、それが一
つの議論の分かれ目になったりしているようです。少なくとも、「過去は存在しない」
というような意見は共通に多いようです。

いずれにしろ、『時間』というのは「見えるもの」「存在するもの」ではなく、本質的
には、人間の『感覚的・観念的』なもの
につけられた名前・概念だと思います。

ただ、地球の文明人は人間の「社会生活」を円滑にするため、地球上における自
分達の『経験』『観測』を元に、1日、1年、1時間という「時間の尺度」を定め、それ
を周期的に刻むための道具として、『時計』を作り出しました

これにより、本質的には『感覚的・観念的』なものであった『時間』というものが『物
理的な存在』に還元され
、我々社会生活を送る人間は、その刻む「針の位置」が
共通の指標としての『時刻』となり、また、その2点間のintervalが日本語の狭義の
時間』として『科学(物理学)』の重要な指標となっているわけです。
英語では時間も時刻も共に"time"で同じ語彙であり、科学概念は西欧発のため
か、本来、日本語なら「時刻t1のとき」というのを「時間t1のとき」など言うことが多
いですけどね(図1)。

 図1 科学に置けるtime(時間、時刻)

ですから、科学で言う「"time"t1のとき」と言うのは、皆がきちんと理解しているか
どうか不明ですけど、我々が時計の針を見て、例えば「朝8時に」と言うのとは異
なり、暗黙のうちに、それより以前のどこかをt=0の基準にして、そこから通常の
「時間」単位の"interval"がt1の「時点」を指している
ようです。

いずれにしろ、

 『時間』の単位は、そもそもは、地球の学者が「普遍的」で、かつ、「不変的
 (すなわち、一定間隔で動いていくもの)ということを前提にして定義したも
 であり、それをvisualに示すツールとして『時計』を発明したのである。
 したがって、あくまで、『時間・時計』は地球人類の知恵の産物であり、後世
 になって『相対性理論』で修正された概念も含めて、所謂「万物創造の神が
 作りたもうた」純自然的なものではなく、当然ながら、「全宇宙で成立する絶
 対的真理のもの」というような絶対的証拠はない


のですが、科学者の多くはそれを忘れ、「時計による時間」を宇宙共通で通用す
る自然のものとし、かつ「存在するもの」と考えている気がします。

「『時間の逆行』がなぜないのだ?」と考えたり、『タイムマシン』なるものを信じた
り、ビッグバンの前には時間がなかったと真実見たいに主張したり、ブラックホー
ルの中では時間と空間が入れ替わると説明したりしている科学者は、まさに上
記の「誰が何に対してどういう前提条件のもとで時間なる概念を与えたか?誰
がその単位を決めたのか?」ということを忘れ(又は、思うことすらなく)、単に、
timeを「時計」による世界を通じてだけの『数学世界』で考えてしまっているから
でしょうね。私に言わせてもらえば、Einsteinの『相対性理論』もそういう世界での
思索の中から生み出された理論ですね。

しかしながら、繰り返しますが、決して「時計による時間」は自然のものではなく、
地球の科学者が定義したものに過ぎず、その本質は「移り変わる変化」というも
のへの「人間の感覚的」な概念でしかないのです。
ですから、

 「時計による時間」というのは「変化は一方的」であることを大前提に
 した上でその指標を『数値』で表した一つの方便でしかない


のです。

そういう不信感もあって、かつて、哲学の世界に答えを見つけようとしたのです
が、昔と違い、自然科学と分離して「思索の世界」だけになっている今の哲学世
界は私にはよりなじめなくて、残念ながら、そこには私が納得できる欲しい答え
は見つかりませんでした。

その昔は、科学者と哲学者が現在のようにきちんと分かれていなかったため科
学者が哲学的論議まで入り込んでいて、例えばNewtonは『絶対時間』なる主張
をしていたようですが、現代では、Einsteinの「相対性理論」に従い、「時間も相
対的」ということになっています。
ま、私自身は、Einsteinの『相対性原理』には疑念を抱いていますので、それを
正としての現代の『時間』の認識には賛同しかねますけど、だからと言って、
Newtonの絶対時間という思想にも賛同できかねています。

ところで、我々人間は、奇妙な思いを時にします。
「今日は時間が過ぎるのが早かった」とか、逆に、早く過ぎて欲しいと思うと時が
たつのが長く感じたりします。この「時間が早く過ぎるとか遅く過ぎる」というのは
勿論、感覚的なものに過ぎないですけど、ちょっと考えてみると「何に対してこの
ように思うのか?」は曖昧です。通常の時間に対してという考え方もありますけ
ど、では「通常の時間」って何?と聞かれたとき、明確に答えられないはずです。
したがって、元々の観念で考えた時、「時間」と名付けられた概念そのものは本
質的には、大上段に何かと聞かれると答えられないまことに不思議なものと言
えるのではないでしょうか?

私の思いですが、Einsteinは地球の科学者が定義した「時計による時間」を「神が
つくりたもうた自然に存在するもの」「ただし、過去の科学者の定義には誤りがあ
る」と(私に言わせてもらうなら誤解して)思い込み、相対性理論を創設しただけで
あり、後世の学者や多くの理系の方々が(元々の誤解自体に気がつかないまま)
完全に魅入られていますけど、単に「お釈迦様の手のひらの中の世界で飛び回っ
ていただけの孫悟空」と同じで、それが「真理」かどうかの絶対的証拠などない、
単に地球の科学者が定義した「時計による時間」という世界の中での時間の『普
遍的』という定義の部分に空間距離と合わせて修正を試みた
に過ぎません。

私は、そもそもは地球科学者が定義したものなのに、今、科学(物理学)で常識
のように使われている「時計による時間」自体、「ほんとう」なのか、違うのでは
ないかという思いを募らせており、物理的に表された「ほんとう」の姿は何だろう
かと果てもない馬鹿な考えにふけっているところです(死ぬまでわからずじまい
だろとは思いますが、誰か思いつかれる方がいらっしゃるかもしれないとそれを
期待しています)

('14/3)

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