続・特殊相対性理論への疑念(18)

〜決定版・Dayton Millerの論文@〜

そもそも、私はある理由(何かについてはあえて省略します)で「ローレンツ変換」自体に疑
念を抱いてきました。ですから、ずっと心の奥底には、"Special Relativity"に引っかかるとこ
ろがあったわけで、だからこそ、ネットのおかげで色々な意見を目にでき、す〜っという感じ
で完全に反対側になったわけです。

しかしながら、そうは思っても、敵は、なんせ、アカデミズム物理学の基本理論なわけです。
市井の物理愛好家がいくら「おかしい」と丹念に指摘しても、牙城はびくともしない・・・。
そこで、何度か書いているのですが、私は、「どうしてこの理論が物理学の基本理論に
なれたのか?
」ということが気になって、日本サイトでは情報が得られなかったため、理論
発祥の地は西洋ということで、英語サイトを当たり始めました。

その結果、ぞろぞろと私の知らなかった事実(fact)が出てきて、驚くやらなんやら状態・・・
日本語サイトで「正しい派」の方々が述べられていることの多くが、如何に、真相とは異なる
誤った伝聞に基づいているものかを知りました。それも、ちょろっとした情報ではなく、詳細
が複数サイトで示されているのです。日本と異なり、科学者が調べて本とかネットで発信し
ていたりしていて、それがネットで紹介されているので、英語さえ得意でない私にとって読む
のに苦労してはいますが(読みこなしていない言説がまだまだ沢山あります)これは紹介し
ておかねばと思ったものを中心に本コーナーで上げてきました。

結局、現在の私が得ている結論は、

 皆さんがEisnteinの"Special Relativity"として論じていることの大半は
 実は、Poincaréの"Principle of Relativity"のものであり、Einsteinの理
 論の唯一独創的なものはpostulateU(全ての慣性系で光速一定)で
 あるが、実際のところ、これには万人が納得できるような証拠など皆
 無である。

 そして、何よりも問題なことは、Poincaré-Lorentz theoryさえも前提条
 件に間違いがあり成立しないのである。
(※1)

ということです。

前述の「postulateU(全ての慣性系で光速一定)であるが、実際のところ、これには万人
が納得できるような証拠など皆無である」については、relativistsやEinsteniansの方達は、
「いや、そんなことはない。Michelson-Morley experimentが証拠である」と主張されるで
しょうが、そんなものは必要十分条件の証拠にはならないと私は主張してきました。ただ、
真の問題からすれば、そんな議論も「EinsteinはPoincaréの剽窃者だった」だという攻撃な
ども所詮二次的なもので、ある意味、どうでもいいこと
です。
なぜなら、最大のポイントは、反相対性理論の方々にも是非知っておいていただきたいの
ですが、

 1887年のMichelson-Morley experiment結果を当時の
 科学界が誤って解釈しでしまった
(※2)

という一点なんです。もっと具体的に言うと、

 "NULL"結果という判断は間違っていた!(※3)

ということです。

私はそれを、英語サイトを漁っている中で発見し、その時はすごく驚きました。そして、その
時点で、そのサイト記事をざっと読んで、それを特殊相対性理論への疑念(全面改定版6)
にしたためました。それは、アメリカの科学者Dayton Millerという方が1900〜1926年
になされた仕事に関するものでした。そのことを知ったのは、ANTI-RELATIBITY という英
語サイト情報です。これに関して、そこに引用されている言葉を以下に引用しておきます。

かのEinsteinはこんな手紙を書いていたそうです。

 "My opinion about Miller's experiments in the following. ... Should the positive
 result confirmed, then the special theory of relativity and with it the general
 theory of relativity, in its current form, would be invalid.
 Experimentum summus judex.Only the equivalence of inertia and gravitation
 would remain, however, they would have to lead to a significantly defferent
 theory.
"

 「Millerの実験に関する私の意見は次の通り...ポジティブな結果が確定されるなら
  私の特殊相対性理論と一般相対性理論は現在の形では無効となるであろう。
  Experimentum summus judex.ただ、慣性と重力の等価性は残るであろうが、
  それらは意味深い異なった理論に導かなければならない」

   −Albert Einstein, in a letter to Edwin E.Slosson, July 1925

Einsteinは相当、危機感を抱いたようです。その前1921年には、

 "I beleive that I have really found the ralationship between gravitation
 and electricity, assuming that the Miller experiments are based on a
 fundamental error.Otherwise, the whole relativity theory collapse like
 a house of card.
"

 「私は、重力と電気の間の関係を真に発見したと信じており、Miller実験は
 基本的誤りに基づいていると思っている。さもなければ、全相対性理論は
 カードの家のように崩壊する」

   −Albert Einstein, in a letter to Robert Millikan, June 1921 (in Clark 1971, p328)

と言っていたようですが、上記1925年の方では相当な危機感を抱くようになっていたことが
よく伺えると思います。その頃の科学界の葛藤についての記録を目にしていないのですけ
どこんな手紙から、Millerの仕事は、それほど衝撃的なものだったということは間違いないと
思います。

ちなみに、Wikepedia英語版によりますと、Dayton Millerは1866年生まれで1941年に亡くなら
れていて、1920年代、secretary, vice president, and president of the American Physical
Society and as chairman of the division of Physical Sciences of the National Research
Council
を歴任し、1931年〜1933年は president of the Acoustical Society of Americaを務
められたそうです(⇒ここ)。 MillerはMichelsonやMorleyと同じアメリカ人であり、少なくとも
1920年代以降、アメリカ物理学界の重鎮であったということは留意しておく必要があります。
ですから、前に書いたようにきちんと受理保管されている1920代の実験結果報告もこの論
文も、決して無名の若手とかoutsider学者の手によるものではなかったということを是非注
目しておいていただきたいのです。

すぐ後で、そういう地位まで上り詰めることになった米国科学界の重鎮の実験結果報告論
文ですから、1919年以来、"genious and hero of science"となって、対抗していたフランス
派に勝った喜びに溢れていたと思われるEinsteinとEinstein' fellow(Einsteinians)に対して冷
水を浴びせかけたものでしたから、彼らは相当危機感を抱いたと思います。前述の手紙は
まさにそれを表したものだということがよく伺えますよね。
前にも書きましたけど、当時はまだ母国ドイツにいたEinsteinはMillerに一杯手紙を出したら
しいのですが、Millerは論文を読みもしないであやこや言ってきている(読めば書いてあるよ
うなことを主張したのでしょうね)と不快感を示し、無視したようですね。

 
  Dayton Miller

ただ、前に書いた時は、その出展までは当たってはいませんでしたが、今回、1933年
Millerがそれまでの仕事をまとめたpaperのpdfを入手しました。やはり、こういう一次資料
を読むことは重要ですね。Millerがその仕事をした当時の事情がよくわかりました。
ちなみに、これは、前述の英語サイトのExperimentというタブの中の、Michelson-Morley
experimentの項の文章内でリンク("Miller's 1933"とあり)で示されたところにそのpdf版が
置かれています。実はMichelson-Morley experimentのオリジナル論文のpdfもこの方の
サイトに置かれています(同じところのリンクで"original MMX paper"とあり)。
興味のある方は上記リンクから読んでみられるとよいと思います。

尚、出展は違うようですが、日本語サイトで、このMillerの仕事に言及されているものは一
つだけ見つけました。
そんな程度ですから、あるいはrelativistsの方達は少しはご存知だとは思いますけど、多分
一般の人々は勿論のこと、科学者でも知らない方が多いのではないかと思っています。
その重大性に鑑みると、きわめてけしからん話であり、実際、前にも紹介しましたが、1990
年代にそういう批判をされた学者がおられます。これも上記英語サイトにありました
(⇒Experimentというタブの中の、"Dayton Miller"の項の文章内でリンク"Here")
フランスの物理学者でノーベル経済学賞受賞エコノミストのMaurice Allaisという方です。
21st century Science & Techonology, Spring 1988, p28の
"The Experiments of Dayton C.Miller(1925-1926) and the Theory of Relativity"の中で
Millerの結果の正統性について述べ、

 "It is startling that the findings published in Miller's paper in 1933
 should have been ignored for 25 years.
 The outright pigeonholing of Miller's paper strikes me as one of the
 scandals of contemporary physics.
"

 「1933年のMiller論文で発行された発見は25年間無視され続けて来た。
  Miller論文のあからさまな握り潰しは、現代物理学のスキャンダルの
  一つ
として私を打ちのめした」

と主張されました。

 
   Maurice Allais


さて、Millerの1933年7月発行のpaperは、

"The Ether-Drift Experiment and the Determination of the Absolute Motion of the Earth",
Dayton C.Miller,Case School of Applied Science


というタイトルのものです(pdfで57頁分のものです)。

前にも書きましたが、このサイトの方で、西洋では、「このMillerの実験結果がEinsteinの
"Special Relativity"にノーベル賞が出なかった理由だ」と思っている人が多いと書かれてい
ましたけれども、この意見には、論理的に見て、かなり信ぴょう性が感じられます。
(ま、一介の私企業の研究員である田中さんがノーベル賞受賞された理由を考えますと、
"Special Relativity"の根本的なところが前年に出された"Poincaré-Lorentz Theory"のもの
と差がないゆえに独創性を認めなかったためかもしれませんが。伝聞で言われたりするユ
ダヤ人だったからなどというのは、同じ1905年の三週間前に提出した「光量子仮説」には
ノーベル賞が与えられたという事実からも嘘であることは明白でしょう)。

ところで、この1933年の著作の最初の項で、『マイケルソン=モーリー実験(Michelson
-Morley experiment
)
』(以後、MM実験と略します)の歴史的背景と考察がなされていま
すので、とりあえず本項ではその紹介をしておきます(MIllerが直接係ったことについては、
分けて次項Aで紹介します)。

MM実験については、前にここで私自身の推定も入れて詳細に述べたのですが正確な背景
に言及されています(前のは私の推定が入っていましたので、若干ニュアンスの差がありま
すが、以前のは訂正せずそのまま残しておきます)。

Millerによれば、歴史的背景は下記だったとのことです。往々にして"Special Relativity"の
説明でされているような、「(静止)エーテルを見出すための実験」ではなかったということ
です!

1728年に発見された光行差(aberration of light)は、

 @エーテルは静止している(by Fresnel)
 A光速はエーテル密度の平方根に反比例する


という考え方で説明できたものの、@については疑問が出されたのことです(よくある説
明は1850年代のFizeauの実験結果から@が結論付けられたとされていますけど、前に言及
しましたように、それでもStokesの「エーテル引きずり説」支持派がそうではない−前述のA
が導かれただけ−という反論があったということです。Stokes自身、自らの説でAを導出し
たことは他からの情報で得ました)。

そこで、実験観測で決着をつけようという動きがあり、なんと、1878年に、かのMaxwellが実
験概念の提案をしたそうです。それは、

 ・エーテルは静止していること
 ・はそのエーテル内で任意の方向に、エーテルに対して一定速度で伝わること、
 ・地球はエーテルを乱すことなくエーテル内を自由に通過する


ということを前提条件とし、

 the apparent velocity of light would be different according to whether the observer
 is carried by the earth in the line in which the light is travelling or at right
 angle to this line.

 (見かけの光速は地球と共に運ばれる観測者が光が進行するライン上にあるか、
  このラインに直角方向にあるかに応じて異なるだろう)


という論拠(argument)に基づいて、

 を用いることによる、運動する地球とエーテルとの間の相対運動
 すなわち、"ether-drift"の検出の可能性


に言及したそうです。
地球の公転速度は30km/sであり、光速はその10000倍の30万km/sであるため、その差
は光速の1/10000(これを"first-order effect"と称しました)です。
そして、Maxwellは、

 since all practicable methods require that the light shall travel from one station to
 another and back again to the first station, a positive effect of the the earth's
 motion on the ray going outward would be neutralized by negative effect on the
 returning ray, except that on account of the motion of obsever during the time the
 light is travelling the neutralizaton would not be quite complete, and a "second-
 order effect
", proportinal to the square of ratio of velocity of the earth to the
 velocity of light, would be observal.

 (全ての実用的な方法は、光が一つの場所から他の場所に進み、再び最初の場所
  に戻ることを要求するので、地球の運動の外部側に進む光線に対する正の効果は、
  戻りの光線に対する負の効果によって中和化される、光が進行している間の観測
  者の運動を考慮すると、その中和化は完全ではなく、地球の速度の光速に対する
  比の二乗に比例する"second-order effect"が観測可能値であろう)


と説明したそうです。ただ、Maxwellは

 "The change in the time of transmission of the light on account of a relatctive
 velocity of aether equal to that of the earth in its orbit would be only one
 hundred-million part of whole time of transmission, and would therefore be
 quite insensible."

 「公転する地球の速度に等しいエーテルの相対速度の考慮での光の伝達時間の
  変化は伝達全時間のわずか1/100000000であり、それゆえ、ほとんど検知で
  きないであろう」


とも述べていたそうです。

そのMaxwellのsuggestionに果敢に挑戦したのがMichelsonだったそうですね。
(ちなみに、Clerk Maxwell自身は1879年に40代の若さで胃がんで病死されています。)
彼が、1881年に最初の報告をしていたことは既に述べましたが、どうやら、これは彼が1881
〜1882年にBerlin大学に留学していたときの業績だそうです。このとき、Michelson干渉計
(Michelson interferometer)を発明し、実験に適用したそうです。

そのときの装置は図1のようなものだったそうで、Alexander Graham Bellという方が装置の
構成を提案し、BerlinのSchmidt & Haenschによって製作されたものとのことです。
アーム長さは120cmだったそうです。よくある模擬図通りのsimpleな装置だったんですね。

 
 図1 1881年(最初の実験)の実験装置

最初はBerlin大学でやろうとしたそうですが、通りの交通による振動外乱で干渉縞が測定で
きず、大望遠鏡が設置されていて頑丈なObsevartry of Potsdamに場所を移してやったそう
です。
しかしながら、干渉縞の変移は理論期待値である干渉縞幅×0.04に対し、0.0015〜0.004と
不一致の上、この観測結果は誤差だとされてしまったようです(1887年の論文でMichelson
自身が認めているように、実験理論に誤りがあってLorentzらに指摘されたようです)。

Michelsonは欧州滞在中の1881年に、米国Cleveland(オハイオ州)の新設のCase School of
Applied Scienceの物理学教授に任命され、Western Reserve大学(Case Schoolのすぐそば)
の化学の後の教授Edward W.Morleyと知り合ったそうで、Morley教授はその干渉計とそれ
の使い方における種々の重要な進展となる提案をしたようです。

 
  Albert Michelson       Edward Morley

そして、Bache Fund of the National Academy od Sciencesから資金を手に入れて、改良し
た新しい装置を作りました(光学部分はPitburghのJ.A.Brashearにより制作された)。
これが有名な1887年の実験で用いた装置であり、これについては前にここでも紹介しまし
たが、図2のような構成のものでした(装置の詳細はここ参照ください)。

 
        図2 有名な1887年の実験装置

この1887年の論文についてMillerは詳細に解説しています。
以下に簡単に紹介しておきます。一部、前とダブルところがあるかもしれません。

実験は、ClevelandのAdelbert Collegeの本館地下の北西の部屋で行われたそうで、1887年
7月の8,9,11日の正午の各1時間、8,9,12日の夕方6時の各1時間、計6時間行われています。
実は私、少し(というか大変)誤解をしてました(^^;。Michelson-Morley experiment論文もじっ
くり読み直してみました。装置の回転は6分間で1回転という速度で6回転させています(正
午、夕方各3日間で、全6回の試験ですから、全部で36回転させたことになります)で、等間
隔の16点(図3に示した番号位置)の位置に来た瞬間、cross wire of micrometerを干渉縞
の最も明確な位置に合わせ、micrometerのscrew headの読み値を記録しています。
Michelson実験論文では、1テストで6回転ですから、16点位置の各位置の6個分の値の平
均値が表で示されています。表には、正午、夕方6時三日分のそれらの平均値が示され、
更に、干渉縞幅はその読み値が40〜60に変化しているので、平均の50を干渉縞幅λとし、
前述の三日間16点各点における読み値平均値/λが記載されています。
Miller氏は、これをグラフ化しています(下図3)。

 
 図3 1887年のMichelson-Morley experiment結果(arranged by Miller)

図3のそれぞれ上側は16点各点平均値(6回転平均/1テストの三日分平均)です。全部で1
回転分です。ether-driftは見られるように、各々半回転分で1周期となります。
そこで、後半の半回転分の1周期分ether-driftの効果を見るために、後半分を前半に加算
により重畳すれば、全周期効果と全ての余分の高調波分がキャンセルされ、望まれる1周
期分効果が与えられるはずで、それをそれぞれ下側に示しています。

Miller氏のご指摘通りで、一見して、

 このグラフ値は"NULL"でもなく、また、値がランダム分布も
 していない


ことがわかります。
Miller氏は更に高調波分析(harmonic analyze)を行い、地球とエーテルとの相対運動速度
の全回転分のsmooth curveを描いています(図4)

 
  図4 1887年のMichelson-Morley experimentによるether-drift

この高調波解析により、Miller氏は、平均値によるether-driftは正午=8.8km/s、夕方6時=
8km/sとなると主張されています。尚、図3には、Miller氏が、Morley教授とその後、1902年、
1904年、1905年に行った実験から求めたものも併記されています(本図でははみにくいです
が、□=1902年のもの、☆=1904年のもの、△=1905年のものだそうです。
1877年のMichelson-Morley実験結果とよく一致しているのがわかります)。

これだけでも私にとってはかなり説得力を感じています。
Miller氏は、この論文の最初の方にある上記解析からも、

 The brief series of observations was sufficient to show clealy that the effect did
 not have the antcipated magnitude.
 However, and this fact must be emphasized, the indicated effect was not zero;
 the sensitivity of the apparatus was such that the conclusion, published in 1887,
 stated that the observed relativity motion of the earth and ether did not exceed
 one fourth of the earth's orbital velocity.


 (短い一連の観測は明らかにその効果は期待した大きさを持たなかったことを
  示している。しかしながら、この事実は強調されなけければならない、
  指し示された効果はゼロではなかった
  その装置の感度は1887年に発行された結論は、地球とエーテルの観測され
  た相対運動は地球の公転速度の1/4を超えなかったと述べているような[レ
  ベルの]ものなのである)。

と述べ、

 This is quite different from a null effect now so frequently imputed to this
 experiment by writers on Relativity.

 (これは、現在、しばしば、Relativityに関する著者によってこの実験に帰すると
  されているnull効果とは全く異なっている


と強く批判され、更に、

 It also seems necessary to call attention to another histrical fact:
 Michelson and Morley made only the one series of obeservations, in July,
 1887, and never repeated the ether-drift experiment at any other time,
 notwithstanding many printed statements to the contrary.

 (また、他の歴史的事実にも注意を喚起する必要があるように見える:
  MichelsonとMorleyは1887年7月の一連の観測を行ったのみであり、
  多くの印刷された言説が反対のことを言っているにも係らず、ether-drift
  実験は、他の時期には決して繰り返されてこなかった)


と風潮を批判されています。これは既に、Einsteinの"Special Relativity"が物理学の基本論
文扱いされてしまった時期のことです。

私が不思議でならないのは、1887年の論文の純粋な結論は、

 Lorentzが作った実験理論による予測値に対して、Michelson-Morleyの
 実験結果値は1/6〜1/4(16%〜25%)であった
(※4)

ことと、上記のように、

 装置の半回転ごとに値に周期性が見られる(※5)

のに、なぜ、"NULL"と判断されたかということです。素直に考えるなら、(※3)は決して誤差
ではない(値もそうですし、※4も合わせて考慮しての話)という結論になるのではないでしょ
うか?ANTI-RELATIBITYサイトでもそれを 強く指摘されています。言うならば、ただ単に、

 Lorentzの実験理論予測値が間違っていた(※6)

というだけのことではなかったかと思うのです。これは、私もこのサイトの方の主張に賛成な
のですが、前にも書きましたが、

 当時の科学者が、古典的な"wave-motion-through-a-medium"で考えた
 ことが間違っていた
(※7)

のではないかと思うのです。
不思議なのは、MM実験報告論文には、「"NULL"結果だった」などとは書かれていないの
に、Michelsonはその後、どう考えたのかということです(私は、これについてはまだ見つけら
れていません)。

しかしながら、FitzGeraldがあの収縮概念を提示(論文にはせず、口頭で広めたそうですが)
し、それを元に、Lorentzは一旦、1895年に"Lorentz-FitzGerald theory"(Millerの説明)を出
していますけど、これは既に"NULL"結果を前提条件にしているのは間違いないでしょう。
今では1905年のEinsteinの"Special Relativity"が物理学の"Holy Theory"扱いされています
ので誰も気にしてこなかったと思いますけど、この"NULL"結果だという説明自体は、それが
いつのときのことかは不明なのですがすでに書いてきたように、"Special Relativity"が、20
世紀物理学の柱になることに最初に深く関与(けしからん企てをした)Eddingtonがmediaで
「"NULL"だったと話したり書いたりして繰り返し強調した」ということは知っておく必要があり
ます。

ただ、少なくとも1905年にEinsteinが"Special Relativity"を出し、「エーテルは不要だ」と主
張するまでの主流科学界は"ether-drift"の存在を疑ってはいなかったようです。

それにまつわることとMIllerのその後の仕事については次項Aで述べるつもりです。
                              (続く)(’15/5)

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