続・相対性理論への疑念(2)〜奇妙な側面〜/改
[注:本項はまだ調査が不十分だったときに、推定で書いた部分が多々あり、誤解してい
たことも書かれており、後日、UPした分と矛盾している論述がいくつかありますが、私自
身の思考の変遷だと考え、削除または書き換えせず残しておきますm(__)m]
そもそも、私が"Relativity"特に"Special Relativity"に疑念を深めた理由の一つは、再
三言及しているように、
実に多くの教科書・解説本(啓蒙書)が出され、また、ネット上には
実に多くの解説サイトがあるが、説明が金太郎飴になっていない(※)
ということにありました。それは、特にネット上に如実に現れていて、一部の反対者の主
張に対して、「誤って誤解したお前の脳内相対性理論に」反対しているだけ(「正しい相
対性理論の間違い方」(?)などというような本を出している相対性理論学者もいる)と
か「啓蒙書の類・メディアの『誤った』説明」に反対しているだけという反論がなされたり、
更には、驚くことに
Einsteinも相対性理論を理解していなかった(※※)
などとまで主張される意見も眼にしました。「なぬ?理論の創設者が理解していないって
一体全体どういうこだ?」てな感じで、疑念が解消するどころか、不快感ばかり拡大した
だけでした(そういう不快感がとうとうこんな大それたコーナーを作ってしまった原因でし
たが・・・)。
中には、こういう批判を気にしてかどうかわかりませんけど、「難しい理論だから色々な
解釈があるのだ」とか、「諦めればわかる」などという論理のへちまもないような弁解論
もどきの意見もあり、だからこそ、私からすれば、「な〜んだい、ただの『信仰』かい?」
と不信感だけ増強させてきました。説得力ゼロということが御理解できない方が多い気
がしているのです。
ですから、(※)という情況に鑑み、私は、大変失礼ながら
人それぞれが、自分の中で「理解した気になって」悦に入っている(※※※)
ということにほかならないのではないかと思っているのです。
ま、それほど人を魅了する理論だからでしょうが。
以上、再三、本コーナーで主張してきたことに再度しつこく触れましたが、それにしても、
なぜ、(※)という情況にあり、更には(※※)と言う方までおられる
のでしょうか?(◆)
そこで本項では改めてこのことについて、色々なサイト(日本や海外)で引用指摘された
りネット上で目についた例などに触れながら、独断と偏見で考察していきたいと思います。
私は、(※)ということと本理論が20世紀科学界において『原理・公理』とまで信奉されて
来たことに「不思議さ」を感じ、その具体的な歴史を知べく、海外サイトを漁り、わかった
ことについてこれまで本コーナーで紹介してきました。
そして、その中で、私的な独断と偏見の結論として、
Relativity特に"Special Relativity"は19世紀終わりから20世紀初めに
おいて科学界にあった閉塞感を打ち破るような『時代の寵児』であった
ことがそういう風潮をはからずしも構築してしまったと考えています。
大変失礼ながら、当時の多くの科学者は「"Devil"に魅入られてしまって」たちまちのうち
に"main stream"それも「物理学全体の基礎原理」の一つに祀り上げたのです。そして、
そういう意識はその後100年以上綿々と未だに続いている状況です。
ネット上には、「いや、未だに検証が続けられているのだ」という弁解論がありますけど、
私からすれば「ちゃんちゃらおかしい」弁明でしかありません。それについては、ここで
紹介したことや、既にここなどで紹介した最近、和訳されたロシア科学者の「反相対性
理論」相対性理論の基礎に対する批判の記述を見れば明らかですし、すでに指摘して
来たように、それは「正しさの証拠集め」が基本になっていて、過去なされた「反証観察
結果」は悉く、無視かうやむやにされてきた事実があるからです。
いくら、「違う」と否定しようと、前にも指摘したように、"Special relativity"は間違いなく
20世紀を通して100年以上『不磨の大典』扱いされてきたのです。
そして、それは、天動説から地動説にパラダイムシフトしたことと全く様相を異にしてきた
のです。こんなことは、科学の歴史をきちんと調べれば明らかなことです。
まずはこのことを押さえておきたいと思います。
さて、Einsteinが1905年に発表した"Special Relativity"の論文における彼の独創的な
ideaは"postulateU"「全ての慣性系で光速一定」とせいぜい同時性の概念ぐらい
ではないでしょうか?(ちなみに"postulateT"の「全ての物理現象は相対的」という
のはMachの思考の流用でしかなく、彼の純粋な独創概念ではないと考えています。)
多分に最初に"Special Realativity"について聞いたり学んだ時、多くの人に衝撃を与え
たことは、「時間の遅れ」「距離の短縮」という概念ではないでしょうか?しかしながら、
調べればすぐにわかりますが、すでに当時の科学界では"Local time"という概念が出て
きており、論文の形にはまだしてはいなかったらしいですが、ポアンカレーは独自のその
名も「相対性理論」という構想を発表していたようで、「時間の遅れ」「距離の短縮」という
のは別にEinsteinの独創的発想でも理論の結論でもなんでもなかったわけです(だらこか
そ、今世紀になって、ポアンカレーの理論を盗んだなどと言う主張が海外で出版されたり
しているようですが、それはあまりにも言い過ぎの感がしていますけどね。Einstein神話
を崩壊させようということかもしれませんが。でも、丸々盗んだものならポアンカレーが
黙っていたはずないですからね)。
結局のところ、Einsteinの"Special Relativity"の本質は、
独創的な"postulateU"を入れることによって当時の科学者が抱き
始めていた脳内思考(Local time)を「数学的に」簡単な形で導出
してみせた
というものにすぎないと思います(元々は原論文のタイトルを見ればわかるように、その
第三章で述べていること−Maxwellの方程式に対する彼の抱いた疑問点の解消−が理
論を生み出す元にあったわけですけどね)。
Einsteinの1905年のオリジナル論文を見た方は知っていると存じますが、これも既に指
摘したように、Einsteinの原論文と後世の学者の教科書では変換式の導出法が異なって
います(原論文では脚注でちょろっと触れているやり方になっているということです。
論文提出前に誰かに示唆されたのか??)。なぜかについては前に推察していますの
でここでは省略しますが、これ一つをとっても見えてくるように、すでにここ〜ここで指摘
しましたように、その論文はあまりに荒削り(私に言わせて貰うなら杜撰)だったものの、
当時の科学者達がよってたかってもう少し「まっとう」な理論に仕立て上げたというのが
事実のようです。
但し、一部の学者には反対論がありました。多分にその考え方は大きく分けて二つに分
かれていると思うのです。
当時の権威学者が、「これはすぐに実証証明すべきである」と述べたと言うのを目にし
たことがあります。当時の主流派権威であるLorentzやポアンカレーは積極的にどこが
という指摘はしないまま、「本当かなぁ」という疑念を最後まで抱いていたようです。
一方で、これも既に別項で指摘しましたが、当時、主流派の「静止エーテル説」に異を
唱えていた非主流派少数派の科学者もいたわけで、そういう方々は私が疑念を唱えて
いる"postulateU"に対して反対していたようです。マイケルソン=モーリー実験が衝撃
を与えたのは当時の主流派科学者達に対してだけであったのです。
結局、"Special Relativity"は、
・草創期に早々と多くの当時の科学者を魅了し、それゆえに多くの
学者(中には当初は半信半疑だった科学者もいると思いますが)
が共同で「きちんとした理論」に仕上げ、早い時期にmain stream
となった
・興味を抱いた次世代の科学者達は、そういう草創期の科学者達の
薫陶よろしく、反対論を打ち消すべく「正しさ」を完全にするために
更に解釈を広めた。
という歴史ではなかったかと推察しているのです(私自身は当っていると考えます)。
更に後世の学者は早々とmain stream化していたことから、そういう前期中期における
「研究成果」を全面的に受け入れ、それぞれの理解で学徒に教え、学徒はそれぞれの
教師・教科書に誘導された形で、大変失礼ながら、前述の(※※※)という情況にあるの
ではないでしょうか?
ま、こういう状況下にあったことが、(◆)という状況を生み出している元だろうと思うので
すが、それだけでは(◆)の問いの完全な答えにはなっていません。以上はあくまで一つ
の歴史的背景だけに触れただけだからです。
もう一つ、
なぜ、1905年のEinsteinの提示以来、100年もの間、少数派ながら
反対者がいたのか・いるのか(前項で示したように今世紀になり
欧米では様相が大きく様変わりしだしつつあるようです)
ということを考えなければならないと思うのです。
唐突ですけど、ネットでそういう意見を目にしているのですが、私は
科学者の多くが『自然哲学』に無頓着である(になった)(◎)
と思うのです。18世紀の頃までは、まだ、「『自然科学』と『自然哲学』が分離していなかっ
たようです。それが、19世紀以降、完全に分離してしまったのではないかと思います(そ
ういう風潮が、ネット上で目にした元・ロンドン天文台長が著書の中で嘆かれた「19世紀
以降、純粋に科学そのものに取り組む科学者は絶滅してしまった」という情況に繋がっ
ているのではないかと大変失礼ながら思うのですけどね。外部から見れば建前論と現
実が遊離しているのが見てとれます。ここで述べたようにもう18世紀もそういう姿勢がぽ
つぽつとは見られるようですけどね)。
"Relativilists"(欧米ではAnti-Relativityの人達の中には"Einsteinians"という人もい
ます)の説明を見ていますと、私は、そこに前述の(◎)が見てとれてしまうのです。中に
はそれを「科学者」の基本的スタンスだと固く信じておられるかのような方もネット上では
見られますが、私は「それは違う」と思いますし、全ての科学者がそうではないのは間違
いなく、だからこそ、科学者の中にも反対論が出てくるわけです。
私の独断と偏見かもしれませんが、(◎)であることは、ともすると、「自然的」な思考を忘
れ、大局的でなく枝葉末節で論理的判断をしてしまうことに繋がるのではないかと思うの
です。
具体的に気になる例をいくつか上げておきます。
ネット上に「マイケルソン=モーリー実験結果」が前述の"postulateU"の証拠だと言う主
張がありました。それを目にした時、「これは基本的共通認識なのか」「誰がそんなこと
言ったのか」と考えました。なぜなら、物理学の基礎で考えた時、こんな結論は到底出て
こないからと考えたらです。そして、調べたところ、そういう主張は共通したものではな
いし、Q&Aでは"postulateU"の直接的実証証明はできないしなされていないと書かれ
それには反論はありませんでした。
しかし、欧米サイトのネットサーフィンしていてわかりました。ちょっとサイト失念しました
のでそこに書かれていた名前は失念したままですが、これを述べたのは科学者や
Einstein本人でもなく、論文の編集者であり、彼はそれをEinsteinに示し、自ら広めたと
いう事実が・・・。自然に大局的に考えるならこんな結論は出てきません。
「マイケルソン=モーリー実験結果」というのはここで示したように、結果自体は単に、
簡単なモデル的考察において東西方向とこれと直角な南北方向の光の往復時間に差
がなかった(但し、ここで触れたように差があると主張した実験学者がいましたが)とい
うだけにすぎません。
ま、今現在、こんな一編集者が言った主張に納得されている方は、"Special Relativity"
ありきでそこから考えると言う「循環論」に陥っているだけだと思います。1887年に戻って
考えればそういうおかしな主張はできないことに気が付くでしょう。
これは、「二重星」の観測結果を証拠に上げる学者の主張にも繋がります。皆、「どこで
観測してるんじゃい」ということを忘れているのです。決して"postulateU"の証拠などに
は決してなりません!繰り返しますが、"postulateU"というのは「光速一定」でなく「全
ての慣性系で光速一定」というものですから。cは「真空中の値だから」などというのは
この指摘の反論には全くなりません。そんな枝葉末節の指摘をしているわけではありま
せんから。
海外サイト見てたら、"Relativilists"に驚くべきことを教えてきている方がいることを知り
ました。あっけにとられているのですが・・・
原論文の中でEisntein自身でさえ、「矛盾するように見えるが」と言及しているのに、
「"postulateU"は"postulateT"から"very reasonably"に導出されるとか"morally"であ
る」と言っているようです。これを示したAnti-relativityの方同様、私には到底理解でき
ません。ここにそれらの言説を引用しておきます。
Dave Slaven: "Einstein's first postulate seems perfectly reasonable.
And his second postulate follows very reasonably from his first.
How strange that the consequences will seem so unreasonable."
(ここ)
Lubos Motl: "The second postulate of special relativity morally follows
from the first one once you promote the value of the speed of light to
a law of physics which is what Einstein did."
(ここ)
別項でも触れましたけど、"Relativilists"はc+v,c-vを「座標速度」などと言う名をつけて
具体的な意義説明なくすましてしまっているそうです。「相対速度」と言う用語を使いたく
ないだけでしょうが、あまりにも「不自然」で姑息ではないでしょうか?
もう一つ、「時間の遅れ」「距離の短縮」を「そう見える」見かけのものだという説明と、
「実際の事である」という相反する二つの説明があります。理論発表前に既にあった
"Local time"の概念は明らかに後者でしょう。そして、あの理論を論理的に見れば後者
という解釈になるはずですが、どうして前者を主張する方がいるのでしょうか?
ちなみに前者の人は、μ粒子の観測(私は他のAntiの方同様、こんなものは恣意的な
解釈でしかないと考えますけど)を証拠にはできませんよね?論理的に言って。
前者の立場は結局のところ、「観測できないのは当然でそれでよいのだ」と言うような
スタンスではないかと思います。建前で言う「科学」の定義とはずいぶん異なるご都合
主義的主張だなと思いますけどね。
更に、これは海外サイトのAntiの方の主張で気が付いたのですが、前項の終わりの方
で触れた「光子」で伝達媒体なしで真空中を光が進むという解釈。粒子であればニュート
ン力学が適用できるはず⇒マイケルソン=モーリー実験結果は当たり前の結果で不思
議でもなんでもない⇒なぜ、余分な"Special Relativity"が出てくる必要があるのか?
という主張も成り立ってしまいます。ですから、そうではないというなら、「光子」という、
(Einsteinの概念では無く、彼は「光量子」としていたわけですが)概念で伝達媒体なしで
いいのだという理由にした説明はおかしいわけです。
以上、(※)である元凶について考察してきました。端的に言えば、
魅入られた理論の正当性をとことん納得しようと言う心の動きが
(◎)と結び付き、こういう傍から見れば「矛盾した」解釈をしてし
まってそれに気がついていない
のではないかと考えます。
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ネットサーフィンしている中で、「"Special Relativity"が間違っているなら代わりはある
のか?」という問いかけが目に入りました。実は、これは、以前、「間違っているというな
ら代案を出せ」という主張を目にした時から、のどに小骨がひっかかるように、私の頭の
中ですごく「ひっかかる」ものを感じて来たことです。それは、「代案を考えよう」という意
味ではなく、一体全体、"Special Relativity"って本質的に何なのか?そもそも代案って
必要なのかということでした。
Einstein自身はそもそもは別の事情(原論文の第三章に係わるもの)で考案したもので
あり、それは論文の表題にも現れています。決して"Special Relativity"という標題では
なかったということも私がもやもやしてきた理由でした。
そして、色々調べてわかったのですが、決して"postulateU"は1887年のマイケルソン=
モーリーの実験結果から思いついたわけではないのでした。
しかるに、たまたま、"Special Relativity"は当時の主流派の思惑を瓦解させてしまって
前述のように、当時の多数派科学者を納得させる解決策がないという閉塞感が18年続
いた後に出てきたことで多数の科学者が飛びついたのではないかと思うのです。
しかしながら、それを固めて行くうちに、当初の意義を失うような形(と私には感じられて
しまうのですが)でいつしか「物理の基本的原理」扱いになってしまったのではないかと
思うのです。
それは、時間・空間の概念をそれまでと変えるもの(但し、前述のように決してそれは、
Einsteinの独創的ideaではありませんでしたが)というのが論文の帰結にあったことや
"postulateU"とかローレンツ変換とかその新しい時間・空間の概念が直接実証試験で
証拠だてられない(困難である)ゆえに色々な現象をこの理論で説明する解釈論的な手
法での情況証拠集めをしてきたからではないかと思う訳です。そのうちのいくつかは他
の概念で試験されて求められたものだったにも係わらずです。
結局、私がひっかかったのは、そういう議論は「本末転倒ではないか?」ということでし
た。ここ数年、私が"Top-Down理論"に違和感を強く感じるようになったのはこういう思い
に端を発していたわけです。
「解釈論」というのは、結局のところは「つじつま合わせ」そのものです。勿論、それは
脳内での過去の知見を総合しての考案であることは間違いないでしょう。当然ながらそ
こには個人差が出てくるわけです。そして、再三指摘していますが、それが学問の絶対
基盤である「数学」と違い、少ないながらも「論理飛躍」が顔を出すのです。それも、かな
り「ご都合主義的」「恣意的」な形で。ですから、私は、地球に置ける「科学」というのは決
して「客観的」なものではなく、多数派の「主観的コンセンサス」によるものであり、絶対
真理だという絶対的根拠は無いと主張してきているわけです。
だからこそ、"Special Relativity"については私のように、「うさんくさいもの」と感じる人
間が出てくるわけですが、それが御理解いただけない方が多い気がしています。
繰り返しますが、数値データが出ている実験観測結果が有る場合、その数値を導出す
る理論が必須になります。一方、結果が"NULL"であったり、包括的概念的考察だけな
ら、その気になるならいくらでも「つじつまわせ」の理論が出来てしまうのです。
それについては前にもどこかで触れましたが、超新星1987Aが観測されたとき、速攻で
山のように理論論文が出てきたそうですが、観測が進むにつれて皆失格論文だったと
いう話があります。そんなものなのです。
「マイケルソン=モーリー実験は1887年のものだけではない」とひたすら強調する方が
いますが、私はそんな話は言われなくても知っていますので「それがどうした?」と言い
います。むしろここで示したように、「けしからん」判断でうやむやにした事実を知ってい
る上で言っているんかい?と言いたいです。ま、本来は別の意義で使われている言葉
ですけど、"experiment effect"というのはそれだけでなく影を落とすものであることにも
留意すべきです。
ちょっとあとがきみたいなところが長くなってしまいました(^_^;)。
いずれにしても、もう私の中ではすっかり、
Lorentz created an illusion based upon an underlying reality and
Einstein expounded upon the illusion while being ignorant of the reality.
となっています。
最後に本項で私が言いたかったことは、
「間違った」説明で納得されるのは勝手ですけど、それをいかにも
真実かのように断定口調で吹聴しないでください
ということです。無理とは思いますけどね。ま、私は調べて真実をアップするだけですけ
ですけどね。そういうのに騙されてしまう人を一人でも減らすために・・・。
(’14/7)
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