「特殊相対性理論」への疑念(全面改定版3)
〜原論文での理論の疑問点@〜
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※疑問を抱いてから思考の紆余曲折を経て(17)まで書いてしまいましたが、重複・誤解・
後から得た知見などもあるため、本タイトル分は整理しての全面改定で再編成しました
('14/4)
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さて、相対性理論に関する疑問の検討に入ります。
ただ、反対論サイトも多いですし、海外サイトもありますので、本コーナーでは特に私自
身が特に気になったこと(自らまたは示唆受けて)に絞って書くつもりです。
以前の古い文は原論文を読む以前に書いたものでしたので、改めて・・・。
どうやら日本語訳本があるそうですが、それを所有していませんので、英語訳論文を読
んのものです。
ただ、恥ずかしながら、元々乏しかった英語力が年齢と共に完全に衰えてしまい、文章
自体、冗長的で回りくどくわかりにくい(と感じました)上、知らない・忘れた単語が沢山出
てきて読み解くのに時間ばかりかかり苦労しています(^_^;)。
読んでいて一杯、「?」が出てきましたが、特に気がついた事に触れたいと思います。
相対性理論はEinsteinの『全ての科学現象は相対的である』という信念がベースになって
います。これは運動に限定されたガリレイの相対性原理の拡張です。私自身はこんなも
のはEinsteinの思い込みに過ぎないと思っているのですけどね。
Einsteinは例のマッハを尊敬していたそうですから、強く影響を受けていたのでしょうね。
ちなみに原論文の表題は、
”ON THE ELECTRODYNAMICS OF MOVING BODIES”(June 30,1905)
(運動している物体の電気力学について)
というものですです。
構成は、前書きみたいなものに続き、具体論は
T.KEINEMATICAL PART(運動学編)
U.ELECTRODYNAMICAL PART(電気力学偏)
として述べられています。本項ではTの特に基本ポイントの§1〜§3に関するものです。
しかし、この論文は図もreferenceも一切ありません。物理学ではこんな科学論文が認め
られているのでしょうか?不思議でなりません。
尚、読むに当り、特に、原論文に言及されている下記サイトを参考にさせていただきまし
たm(__)m。
・参照サイト@
・参照サイトA
逐次、要約しながら、私自身の疑問などを書き始めてみたのですが、膨大になり面倒に
なったのと、本論文の内容については私の検索した中で、上記のサイトで詳しく触れら
れ、問題点の指摘がされていますので、二番煎じになりかねないので特に気になる点に
ついて触れておきたいと思います。
ま、読んでみると、「『演繹法』だけで理論構築した」と手放しで誉める学者がおられるよう
に(別項で批判しましたが、現代物理学が私から見ると「おかしな」方向に行っているのは、
まさに、後世の学者がこういう風な思いをしてしまったことに原点があると思いますが)、
『思考実験』に優れている」と称賛されるように、実に「脳内」でいろいろと練った「苦労」が
見てとれ、その努力姿勢だけは十分認めたいと思います(と、ど素人の一介の市井の輩
のくせして、ノーベル賞学者さんに対して上から目線みたいに書いてしまいました(^_^;))
ただ、読めばすぐわかりますが、論を進める中で、実に多くの根拠が示されていない『仮
定』が散りばめられていますし、唐突に数式が出てきたりしていますので、私の頭が悪い
のか、解読していくのに苦労しました。
「特殊相対性理論」の核心部分は、Tの§1(Definition of Simultaneity)及び§2(On the
Relativity of Lengths and Times)を元にローレンツ変換を導出している§3(Theory of
the Transformation of Co-ordinates and Times from a Stationary System to another
System in Uniform Motion of Translation Relatively to the former)節ですが、後世の
学者の教科書・啓蒙書とは少し異なっています。恐らく、後世の学者にとって、そのまま
では「説明に苦しむ」箇所が多いこと(前述のように根拠が示されていない仮定が多く
入っていることなどからだろうと思いますが)、「基本思考だけ踏襲して、ローレンツ変換
がもっと簡単に導出できてしまう」ことからだろうと思います。
参照サイトAの方は、大学で相対性理論を学ばれたようで、、その教科書や他の教科
書を読んだ上で、その内容の「おかしさ」についての多くのご指摘をされています。
いずれにしろ、根本はこの論文に始まるのですから、「原論文を検証する」ことが一番
でしょうね。後世の学者のものは、彼らのバイアスが掛っていますので。
さて、論文の基本をなしているのは、
(a)Einstein's "Principle of Relativity(相対性原理)"
(全ての物理系は相対的で系による区別はない)
と、
(b)(全ての慣性系で、全ての慣性系から見て)『光速一定』
という二つの"postulate"です。
この二つは、明らかに、物理的に『矛盾したpostulate』です。
Einstein自身も(b)については、論の前書きみたいなところで、「前者((a))と両立しな
いように見える」と自ら書いているくらいです。
そもそも、(a)も実証証明などされたものではなく、単に「Eisnteinが信じていた」もの
に過ぎません。確立しているのは、『ガリレイの相対性原理』だけであり、これは本来
『質点系の運動』に関するものなのです。ですから、とても「原理(prinsiple)」などと
呼ぶにはおこがましいものですが、相対性理論は正しいと思われている方々はだれも
問題にさえしていない(「その通りである」と思い込まれている)のが不思議でなりません
(私は以前は「原理」という言葉に惑わされて誤解していて、「ガリレイの相対性原理」の
ことかと思い違いしてました(^_^;)。なぜなら、私にとっては、「原理」は確立している古典
物理学のものしか思い浮かびませんでしたので)。その意味で、上ではわざわざ「アイ
ンシュタインの("Einstein's")」と明示しました。
次に大きな問題は(b)の妥当性です。
そもそも、なぜ、Einsteinは自分の信念で(a)と考えながら「光」だけ特別扱いするような
考えを入れたか、「私にとっては」不思議でなりません。
根拠はあるのかと調べてみたのですが、結局、質問コーナーにおいて「実証根拠がある
のか」という質問に対してなされた「そんなものはなく実証は困難である」というのが事実
を象徴しているように見事に皆無でした。歴史を調べてみますと、当時からやはりこの
(b)に疑念を持たれた学者もいたようです。
私が不思議でならないのは、なぜ、100年もの間、実証観測が試みられなかったのか
ということです。調べてみると、全くやらなかったわけではなかったらしいのですが、う
まくいかなかったり、観測結果の解析から「違う」という論文があったそうですけど、うや
むやになってしまっているようです。現在なら可能なはずなのになぜかNASAとかもやら
ないのが不思議でなりません。ひょっとすると、光速一定が覆ると、一挙に相対性理論
とそれが基本になってきている現代物理学が崩壊するのを恐れてあえてやらないので
はないかなどと「下種の勘ぐり」で疑ってしまうのですが・・・
ただ、歴史を眺めていると、「相対性理論」は前項(ここ)で述べた事情も
味方してか、
結構早い時期から科学界に支持が広まったらしいことを考えますと、これは私の穿った
見方かもしれませんが、別項で推測した(⇒ここ)ように、地球物理学のパラダイムの発
祥の地である西欧人の意識の底にある「キリスト教文化」意識の賜物じゃないかと言う
気が強くしています。即ち、「光」を特別扱いするのはそういう文化的背景があったため
ということじゃないかと(Einsteinはどうだったかわかりませんが)。
その意味では、そういう文化的なしがらみのない日本で、上の矛盾を認めない反対者
サイトが多いのはこれまた必然的なものではないかと、「私は」思うのですが。
ま、Einsteinは「マイケルソン=モーリー実験」からそう判断したのではないかという見解
も国内・海外の反相対性理論サイトには少し見られますけどね。
ちなみに、ネット上では、Einsteinはこの実験の事を知らなかったと言っていたとか、いや
知っていたとか人により意見がわかれていますが、本論文内で、
with the unsuccessful attempts to discover any motion of the earth
relatively to the “light medium,”
(地球の「光媒体」との相対的な任意の運動を見出そうとする失敗した試み)
と本のわずかだけ触れているように、「知っていた」というのが真相でしょう。
ただ、興味深いことに、§3の後の方になってから、前述の「ご本人が冒頭で『両立しな
いように見える』と断っていた、「矛盾している」(a)(b)のpostulateの証明がここまでさ
れていなかったとして、その妥当性の証明なるものを示しています。要約しますと・・・
t=τ=0で二つの系の原点を同じとし、球面波の光が発射され、K系
(注:静止系)に対して光速cで伝搬されるとする。
(x,y,z)をこの波上の点とすると、
| ・・・(1)
|
となる。この式を我々の変換式を用いて変換すると、
| ・・・(2)
|
という簡単な式を得る。それゆえ、運動系でも速度cの球面波となる。
このことは二つの基本原理が両立することを示している。
「えっ?これだけ??」・・・Einsteinは「はい。これで、q.e.d.」だそうです。
上記参照サイトの方は「循環論」と批判されていますし、ここでも
その「おかしさ」を批判
されています。本当に素朴に考えるなら、これを「証明」などと納得する方が私には不可
解そのものです。とても「信じられません」。
ま、確かに軽く受け流すと、「なるほど」と思ってしまうかもしれませんが、はっきり言えば
二つのpostulateからなる『命題』に従って数学的に論を進め、必然的にそういう結果が
出るようになっていたものを、「すごい。こうなりました」と言っているだけの代物でしかな
く、この説明は言うなれば、当然そうなる数学解析のおまけの『検算』を述べているにす
ぎません。
こんな説明では、『物理的に』両立しない(a)、(b)のpostulateを同時に置いてよいという
証明になんぞ決してなっていないのです。0点答案です!
ま、どうも、「数学」と混同していないかと言う気がします。
別項でも書きましたが、多くの数学者は「数学は自然科学では無い」と言明しています。
数学の世界では、
その「命題』が例え自然に反していても、論理過程に誤りがなければ
その定義は『数学的』には正しい
とされているそうですから、このEinsteinがやったという『証明』もどきのものは、「自然科
学ではない」(と多くの数学者が言明している)数学においては別に「おかしくもない」
(a)、(b)という二つのpostulateからなる『命題』を数学的表現で論を進め、ただ、数学的
には誤りがなかったと言っているだけにすぎないのです。
二つのposutulateが「矛盾している」というのは、あくまで「物理学的に」
矛盾しているということ
であり、勿論、大前提としてそれぞれが直接実証されているか他の理論からの帰結であ
ることが明確化していて、導出された式の結果が完全に実証実験で悉く実証されている
ときだけではないでしょうか?
肝心の「ローレンツ変換」は直接実証試験で数値データとして確認されていますか?
全然ないじゃないですか?なぜ、学識のある多くの科学者がそういうことを考えもしない
のでしょうか?なぜ、ほとんどが「解釈論」による「間接的証明」ばかり揃えて「正しい」の
だと思い込めて云い張れるのでしょうか?
やはり、時に、"Lorentz-Einstein Relativity"と称せられたりしたように、時の権威学
者Lorentzが"Michelson/Morley Experiment"の結果から考えだした"Lorentz Ether
Theory"がベースにあることが幸いしてそう言う風になってしまったのかもしれません。
Einsteinには幸いし、20世紀以降の現代物理学には「不幸」の始まりだったとしか思えま
せん。
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(追記’14/7)
上記で"referenceの記載のない論文"ということへの疑念を書きましたが、やはり批判が
あったようですね。Max Bornの批判です。
"Another curious feature of the now famous paper, Einstein, 1905,
is the absence of any reference to Poincaré or anyone else"
(今や有名な1905年のEinstein論文の他の奇妙な側面は、Poincaré
や他の誰に対する参照も欠いていることである)
Max Born wrote in Physics in My Generation
(’14/4) (続く)
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