私論・Einsteinの科学哲学批判(’17/7)/追


知らなかったのですが、Einsteinはこんなことを言っていたそうです。

 "the special relativity is a theory of principle and not
 a constructive theory
"(※1)
 「特殊相対性理論は原理の理論であり構造的理論ではない
 (〜Carlos Barcelo, Stefano Finazzi, Stefano Liberati, arXiv100/4960v1[gr-qc],
 January 27, 2010. On the impossibility of superluminal travel: the warp drive
 lesson)

(注:"constructive"をどう和訳するといいのか不案内でしたので、とりあえず「構造的」と訳しまし
たが誤訳の恐れは十分ありますm(__)m)
これは、New Inquisition(新しい異端審問)(2)〜一Electrical Engineerの物理界への猛批判〜
引用しましたOmar A.H. Shabsighという方が引用されていたものです。

全く不案内でしたので、検索してみました。どうやらこれは、1919年にロンドンタイムズに寄稿した
記事の中での文節だったようです。

これについては、Stanford大学により出版された「Einsteinの科学哲学」(※2)で示されているよう
です。そういう分析本があるんですねぇ。

私はこれを目にした時、何よりも1919年というのが大変気になりました。既に散々批判してきまし
たが、この年、イギリスRoyal SocietyのEddingtonによる世紀の「大ペテン」(自己のイデオロギー
と野望により、そのシンボルとすべく「科学を捨てて、Eisnteinを英雄に仕立てあげるべく」偏向し
た日食観測結果を当時数々の反対論があったにも係らず、Royal Societyと結託して大々的にメ
ディアに発表した)と、庶民の「英雄願望」に付け込んだ当時のメディアの「売らんかな」精神から、
たちまちのうちに若き物理学者・Einsteinを一躍、"Genius & Hero"として、"Media Star"に持ち上
げた(そして、その後の物理学が私的にはおかしくなってしまったと感じている)重大な年です。こ
の3年後、ドイツでは反対学者を締め出して問答無用で強引に物理コンフェランスで「SRT」が正
式にmain streamとされました(作られた「科学史」とは裏腹で、その後、ヒトラー政権におけるナチ
派科学者も支持したという驚くべき事実もあります⇒続・相対性理論への疑念(31)〜G.O.Mueller
調査報告紹介再び〜B
参照)。

そういう風潮の中で、恐らくは「時は来たり」とばかりに「満を持して」言い出した彼の「科学哲学」
からの言葉が(※1)だったのでしょう。

さて、"constructive theory(構造的理論)"というのは、「興味のある現象に対して構造的モデ
ルを供給する(provides a constructive model for the phenomena of interest)
」ものだそうで、例
は「運動エネルギー(keinetic energy)」、"theory of principle(原理の理論)"というのは「ワン
セットの個別のうまく構築された高いレベルの実証的一般化からなる(a set of individually well-
confirmed, high-level empirical generalization)
s」もので例は熱力学の第一法則、第二法則だそ
うです。勿論、これらはEinsteinによる分類であり、そして、自分が1905年に出したものは、「相対
性原理」と「光速度一定原理」の二つの原理からなるところの、そういう「高いレベル」の"theory
of principle"であると主張したのです。

私はこの言葉の中に彼の「不遜性」を強く感じました。そこには、自分の理論はそうだと主張して
いる"theory of principle"を"constructive theory"より一段上の「高尚な理論」と考えていた彼の
思想・「思い込み」が濃く現れているからです。そしてそこには、明らかに「人間の脳力」への過信
が現れています。所詮、「地球人類の知力」などしれたものであり、「神」にはなれない、自然の前
には「無力」でしかないのに、「それができるはず」という思い込み・夢想でしかない思考から彼は
大それた野望を抱いたわけです。「自然科学者」ではなく、一人の「夢想家」でしかなかったと私
は思っています。そして、結局は「あすなろ」で、最後に目論んだ「統一化理論」は完成できずに
終わりました。

しかしながら、彼の夢想の最初の産物であるSRTが「アカデミア物理学」の「基本パラダイム」に
なった(真実は隠されてきましたが、G.O.Mueller調査報告紹介再びBで引用紹介したように決し
て「真摯な科学論議」の結果ではなく、反対論を締め出しての強引な施行でした)ことと、理論を理
解したわけでもなかったメディアにより(EddingtonらEinstein's suppoterの思惑にまんまと乗って)
Einsteinが"Genious & Hero of science"に祭り上げられたために、そういう、彼の「夢想的科学哲
学」が20世紀物理学に深く悪影響を及ぼしてしまった−すなわち、科学を志す若者をして素晴らし
いことであるかのような誤った意識を植え付け20世紀物理学を混迷させてしまった−と思います。

(※2)に、

 Not well known, though of comparable importance, are Einstein’s
 contributions to twentieth-century philosophy of science.

 (比較的重要にも拘らずあまり知られていないことは、Einsteinの20世紀科学
 哲学への貢献である)


とすごく「好意的」に書かれていますが、私に言わせてもらえば、「貢献」などではなく、悪影響を
及ぼした−「自然科学」であるはずの「物理学」を「観念数学物理学」にしてしまった、岡潔博士の
言葉を使うと「哲学か何か」に落とし込めてしまったものでしかないと思います。

東工大名誉教授の阿部先生と言う方が、「科学の本質を探る」というブログで

 最先端の科学は、解決の見通しが立たない深刻な謎を抱えているが、一般
 には科学は全てを解明できると考える人々が多い。それは、科学の本質と
 限界が理解されていないためである。


という我が意を得たりの批判をされていますが、まさに「夢想家」Einsteinはそれができると信じて
いたわけで、その思考が引き継がれてしまっているのです。ネット検索しているとそれがよくわか
ります。明らかにEinsteinの基本的な「夢想的科学哲学」を高く評価している方々がおられます。
アインシュタイン, "Einsteinians"、そして・・・でその言を引用紹介した「我こそは真のEinsteinianな
り」と主張され、Einsteinの科学哲学を真に理解したと思っておられるDr. Lee Smolin(gravitational
theorist at the Perimeter Institute for Theoretical Physics in Ontario)などはその一人のようです。

しかし、前述のように、EinsteinがSRTを"theory of principle"と言った根拠として上げていたのは
論文では"postulate"と書いている「相対性原理」(唯一確立している「ガリレイの相対性原理」で
はなく、それを勝手に拡張した「Einstein独自の相対性原理」ですので誤解なきよう)と「光速度一
定原理」であり、共に何も実証的証拠もない、本質的には「仮定」でしかない代物なのに彼はそ
れを経験的に「真実のこと」と思い込んで勝手に「原理」だとし、だからこそ、"assumption"とせず
"postulate"という言葉を使ったのです。いずれにしろ、SRTは「何も実証的証拠もないものを
『原理』だと強弁して前提において構築した夢想的な"Top-Down Theory"」でしかありません。
ところが彼は私に言わせてもらえば「厚かましくも」自分のSRTを熱力学第一法則、第二法則と
同列(彼の定義)の"theory of principle"であると主張していたのです。全く持って「大違い」です!
(もっとも、熱力学第二法則については創設者のクラウジウス著の1865年の教科書を読みました
が、彼が創設した「エントロピー」の概念というのは理想状態の理論の中だけに存在するもので
あり、その説明における「不可逆行程」の理論への考慮は現実世界から乖離したものだと私は
判断し、本コーナでは現実世界における「エントロピー」の存在への疑念の表明と「増大則」を自
然の摂理みたいに言う科学界の風潮に対する批判をしています[⇒熱力学の第二法則につい
てD
など]が、「エントロピー増大則」を殊更「自然の摂理」みたいに述べたのはなんとこれもかの
Eddington様でした(怒))

前に続・相対性理論への疑念(23)〜興味深い主張〜で"postulate"に関して英語がnativeのイギ
リスの方の批判を引用しましたが、「実証証明もされていない」前提条件を"assumption"でなく、
"stipulation"の意味で使っているのは間違いないSRTの論文は「科学論文」などではなく
、前述
のOmar A.H. Shabsighと言う方が酷評されているように、H. G. Wells や Isaac Asimovのものに劣
科学フィクション(SF)でしかないと思います。

もっと酷評しますと、Einsteinは19世紀までの「実証観測に基づいての理論化」という本来の「自
然科学」の在り方を軽視し、脳内で一挙に最終回答を導き出そうなどという大それたことを夢想し
ていたようですが、所詮「地球人類の知恵」など知れたものの上、彼自身、決定的に「知見」の欠
如があり、誤った「知識」で構築したのがSRTの本質です。あの論文を冷静な目で見ればそれが
醸し出されていることに気が付くでしょう(だからこそ、読まれてしまうと困る連中が「読む必要は
ない」などと言って煙幕を張っているんでしょう)。繰り返し指摘していますが、前年にLorentzがあ
んなad-hocな「つじつま合わせ」の理論("Lorentz Ether teory")を出すことがなかったら、そして、
同じく前年にPoincaréが「相対性原理」を打ち出すことが無かったら、Einsteinの夢想は夢想で終
わりSRTは構築されなかっただろうし(続・相対性理論への疑念(22)〜更なる虚像の証拠〜
示したように、SRTが出した概念の大半はPoincaréのぱくり)、例え独自に考え出したとしてそれ
を出しても相手にされることもなかっただろうことは科学界の状況を見れば間違いないでしょう。

そして、「夢想家」ゆえに、SRTについてはそれに魅了されてしまったEinsteinians*(Eddingtonだ
けは魅了されたのではなく別の意図でそうなった⇒なぜこれが大きく問題化されないのでしょう
か〜エディントンのやったこと〜
参照)らの百家争鳴に任せ、自らは、更なる夢想として、GRT→
統一場理論へと一人進んで行ったのです(前述のDr. Lee SmolinがそういうEinsteinのスタンスを
知り合ったGRT支持の有名天文学者が怒っていたことを暴露しています)。
*Einsteinians:
 私は相対性理論学者(relativists)を含む、相対性理論 and/or Einsteinのsuppoters/believers、
 アカデミア科学信奉者などを総称して海外サイトにあったこの用語を使っています


さて、もう一つ、これも前述の(※2)でEinstein語録として引用されているものですが、批判したい
ことがあります。
いかにも「もっともらしい」言葉ですが、その実、その真意を捻じ曲げ、結局は「自己弁護」の手段
に使っただけとしか見えない−彼のその後の科学者人生を見て−、そして、Einsteiniansを初め
とする科学界も真意とは離れたご都合主義的ダブルスタンダードで使われただけであることはS
RTが意図的に物理学の基本パラダイムにされ、批判・異論を許さない(内部的には「抑圧」、対
外的には「隠匿」による)不磨の大典"Holy Theory"扱いされてきた(日本人だけが知らなくて、既
に欧米では被害者が発信していて次々に暴露されてきている事実です)ことを見れば明白です。
前述のOmar A.H. Shabsighという方が、(※2)から引用されている抜粋の中の冒頭に、

 Einsteinは、哲学的心の習慣を通して、物理学者に「判断の独立」が提供される
 ことを望んでいる。


とあり、「どのようにして?」についてEinsteinは

 "Concepts that have proven useful in ordering things easily achieve such
 an authority over us that we forget their earthly origins and accept them
 as unalterable givens. Thus they come to be stamped as “necessities of
 thought,” “apriori givens,” etc. The path of scientific advance is often
 made impassable for a long time through such errors. For that reason, it
 is by no means an idle game if we become practiced in analyzing the long
 commonplace concepts and exhibiting those circumstances upon which
 their justification and usefulness depend, how they have grown up,
 individually, out of the givens of experience. By this means, their all-too-
 great authority will be broken. They will be removed if they cannot be
 properly legitimated, corrected if their correlation with given things be far
 too superfluous, replaced by others if a new system can be established
 that we prefer for whatever reason.
"
 「物事の整理に置いて有益であると証明されて来た概念は、我々を超えて我々がそ
 の地球上の起源を忘れ、それらを与えられた不変のものと受け取るような権威を容
 易に成就している。それらは、このように、「思考の必要性」「先験的に与えられた」
 等として印象つけられていている。科学進歩の道は、しばしば長い間、このような誤
 りを通して通行不能になってきている。そのため、もし我々が長く共通化された概念
 を解析し、それらの決断と有益性が依存している条件、それらがどのように個別に
 既知の実験事実から発達したかを示すなら、それは決して無駄なゲームではない。
 このようにして、それらすべてのあまりにも巨大な権威は破壊されるだろう。もし、
 それらが適切に正当化できないなら、それらは取り去られるだろうし、それらの与
 えられた物事との相関性があまりに不適切であるなら修正されるだろうし、新しい
 システムがなんらかの理由で好ましいことを確立できるなら他のもので置き換えら
 れるだろう。


と述べています。
しかしながら、20世紀物理学の「現実」を見てください。
結局のところ、彼は「それまでの『科学の権威』にけちをつけ、代わりに自分と自分の生み出した、
彼に言わせれば"Theory of Principle"という"Relativity"を『新たな権威』にしただけ
」ではないで
しょうか?なぜなら、既に1922年以降、「相対性理論」は異論を許さない「神聖にして犯すべから
ず("sacrosanct")」という"Holy Theory"(英語サイトで連日、反相対論をアップされている方は
これを"Divene Albert's Divene Theory"と酷評されています)化されてしまったのに本人はそのま
まにしたからです。19世紀までの科学では、2000年も続いたアリストテレスの天動説を除き、ここ
までひどい「権威理論」は見当たりません。後にRoyal Society議長にまでなった権威Newtonでさ
え、例えばLeipnitzの攻撃にさらされ、また、100年続いた彼の「光微粒子説」には反対する科学
者がいて、最後には、光微粒子説の必然的結果に完全に反する(波動説に一致する)実証観測
結果が示されて潰えたという史的事実もあります(回折現象ではありません。回折現象は微粒子
説の否定にはなりませんでした)。

科学の史実を調べていますと、18世紀・19世紀の方がずっとずっと、それこそ「真摯な科学論議」
がなされてきた、そして「自然科学」ということが意識されて来たことがよくわかります。
明らかに20世紀から物理学は異様な世界になり果ててしまっているのです。

 ('17/7)

-------------------------------------------------
(追記)
書き忘れていました。既に先に、アインシュタイン, "Einsteinians"、そして・・・で示しましたように、
Einsteinと対談して対立したHeisenbergがその対談に関して自ら書いたものの中に次のような
Einsteinの考え方に対する批判の言葉がありました。

 "(...) If, however, as is obviously the case in modern atomic physics,
 these laws have to be called into question, then even the concept
 of “observation” loses it clear meaning. In that case, it is the theory
 which first determines what can be observed.
"
 「(...)しかしながら、もし、現代原子物理学における明らかなケースとして、これ
 らの法則に疑問を呼び出されるべきであるなら、「観測」の概念さえもそれの
 明確な意味を失ってしまう。その場合、それは、最初に何が観測できるかを決
 める理論になる


Einsteinの科学手法というのは、寺田寅彦さんの言(「科学者とあたま」)である「人間の頭の力
の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の
教えにのみ傾聴する」とは全く立場を異にするものであったことは間違いなく、その科学手法
が現代物理学世界の誤った意識(例えば、「私は自然を見ない。数学だけを信じる」などという
とんでもないことを言う物理学者がいますが、言わないだけでそういう意識の物理学者は多い
気がします−日本の物理学者の中にもそれを批判をされている方がおられます−)を蔓延さ
せたと思います。

目次に戻る