『詭弁』にしか聞こえない(’15/9)
皆さまは、「確立したアカデミズム科学」という先入観を一旦捨てて、"Speial Relativity"や"Big-Bang
Universe"に関する解説を素朴に聞いた時、「なにかおかしい」という「気持ち悪さ」を感じられないで
しょうか?
まず、いうなれば、これらは創設者のちょろっとした「思い付き」を「数式」と「言葉」で固めて「科学理
論」という形にしたものであることは、どんなに取り繕うと間違いないでしょう。
そして、既に散々述べてきましたが、「純粋な厳密な科学的論議」などではなく、supportersが純粋な
科学とは無縁の、極めて世俗的な一種の手管を駆使してmain streamに仕立て上げたものであるこ
とは、少し、歴史的真相を調べて見れば明白です。
勿論、「直接的実証観測がなされたことが決してない」創始者の「思い付き」が元のpostulate
になっているものですから、反対する科学者から弱点を突く突っ込みが入ったのは必定でしょう。
そこで、創始者&supporterやmain streamゆえに出てきた後世の専門家は何をなしてきたかです。
それが、本項の冒頭で書いた質問です。
率直に言って、私には、彼らの説明の多くは「詭弁」にしか聞こえてきません。
Wikipediaによれば、『詭弁(sophism)』とは
主に説得を目的として、命題の証明の際に、実際には誤りである論理展開
が用いられている推論
ということです。ギリシャ・ローマ時代にはそれを駆使した「ソフィスト」と称せられる哲学者らの活動が
有名ですね。彼らの「言葉巧みな詭弁」に当時の多くの人々はすっかり誑かされていたようですが。
RelativistsやBig-Bang宇宙論者は、そもそも最初に
その理論は絶対に正しい(※1)
という言わば「信奉・信仰」ありきです。ですから、弱点を突かれたとき、「いや、ちゃんと説明できるは
ず」という強い思いがあるわけです。明らかに、一生懸命、脳内で「辻褄合わせ」を考えたのが見て
取れます。
その思考過程には"reality"との整合性などというのはすっぽり抜けていて、とにかく、
うまく説明できて、批判者に反論できればそれでよし
ということしかないでしょう。
しかしながら、
何事もやり過ぎると穴が見えてくる・出てくる
のです。
ネットで私が感じたのと同じように感じている方のご意見を目にしたのですが、素朴に感じることは
こんな説明が許されるのなら、どんなおかしなことでも説明
できてしまう
ということです。
典型的な例として、前に、宇宙論のこと(2)〜わからず調べてみたら〜で述べましたがBig-Bang宇宙
論者の説明を再度上げておきます。
仮に、まだ現在のようにアカデミズム科学のmain streamになっていない草創期にいるとして、これま
でBig-Bang宇宙論者がしてきた説明を聞いたとしたとき、素朴に素直に「なるほど」と思えますかとい
うことです。
(私自身は、本当は、これにもいちゃもんをつけたいのですがそれはまず置いておいて)「空間が膨張
する」というだけなら、これは「詭弁」ではありません。しかしながら、彼らは、更に進んで、
@その「どか〜ん」という爆発には、その中心はない
A空間は膨張しているが、天体はその空間に張り付いていてそのままの
大きさを保っている
と主張しています。そもそものBig-Bang現象及びそれが143億年前に起きたというのはHubbleの観測
結果からのガモフの思い付きによる、直接実証観測証拠など存在しないpostulateに過ぎないのです
が、本質的には、整合性をとるという「辻褄わせ」理由だけで、@Aという、realityと乖離した、まとも
に具体的にはきちんと万人が納得するような説明などできもしない説明をいかにも「事実」みたく説明
しているのです。そして、彼らは、「常識では理解できなくても、そうなんだから信じよ」と主張している
わけです。しかしながら、特に、Aなど、どうやって信じろというのでしょうか?こんなものは、常識以前
のことではないでしょうか?直接実証観測根拠があるわけではありません。単に、"Special Relativity"
の「光速は越えられない」という説明(よ〜く考えるとわかるのですが、本当は「結論」ではなく「前提条
件」なんですけどね)との整合性だけで作り出した「辻褄わせ」以外のなにものでもないのです。
彼らは決して@Aの根拠を示していません。思うに「できるはずはない」からです。なぜなら、単に
「辻褄わせ」だけから主張しているだけですから。
その意味で、私は、こんなのは「詭弁」ないしは「屁理屈」にすぎないと思うのです。アカデミズム科学
のmain streamだからというような先入観を捨てて素朴に考えれば、決して納得などできないのは当
たり前だと思います。
前述のarticleではもう一つ、彼らが自分の信じる理論に合わせてご都合主義的に「光年」の定義を
替えてしまって、何かわけわからんものにしてしまっていることを批判しました。彼らの説明は、明白
に、「詭弁」ないしは「屁理屈」としか感じられないのです。そうやっておいて、一般下々が誤解してい
るなどと抜かしているのですから何をかいわんやです。私は開いた口が閉じませんでした。
"Special Relativity"においても、ひょっとしたら、公には出てきてないだけで、水面下ではRelativists
が追いつめられているからではないかと思われるような発言が出てきていますね。本コーナーでは
既に引用紹介したのですが、postulateUはpostulateTからでてくる結果だと言明している学者や、
更にはpostulateUなどなくても"Special Relativity"は成立するのだと言明し、studentsに持論を教
えているrelativistsさえいるようです。勿論、彼らの説明は、そんなこと言うならなんでも説明できてし
まうという典型的な「詭弁」ないしは「屁理屈」です。
私は、そういう「詭弁」ないしは「屁理屈」と感じる私のような人間がいるような説明で逃げようとす
るのは、その理論に根本的な欠陥があるゆえだと思うのです。そして、現実には、一つも直接実証
観測結果はなく(解釈論ばかり)、Big-Bangなど観測が出てくるたびに「不一致」ばかりがあり、その
都度前の説明との整合性に欠けるような(⇒ここで
指摘されています)「辻褄わせ」説明で逃げて
いるのが実情です。
そこが、今のところ、私がいちゃもんをつけていない「(非相対論的)量子力学」(相対性理論の影響
的を受けている「量子論」ではありません)との最大の相違点です。決して、あとづも的なご都合主
義な「詭弁」ないしは「屁理屈」はでてきません。コペンハーゲン解釈批判がされたりしますが、よく
調べて見ると、ボーアらは「観測の途端、波束の収束が起きた」などと主張しているのではなく、率
直に「観測したときには波束が収束してるが、いつ波束が収束するかを説明する科学が今の地球
上にはない」として、それ以上の無理な「辻褄わせ」を避けたというのが事実のようです。
私は、こんなあとづもでの「詭弁」ないしは「屁理屈」てんこ盛りで、その「詭弁」ないしは「屁理屈」
を「なかなかご理解できないかもしれませんが」といかにも、素朴に「おかしい」と思う人々は理解
力に欠けているだけと下に見ている方達というのは、いくら否定しようが、間違いなく(※1)と信仰
しているbelieverさんだと思います。なぜなら、それ以外に、こんな「詭弁」ないしは「屁理屈」で納
得できてしまうこと自体が理解不能だからです。それこそ「信じない限り」受け入れなどできるはず
がないような「詭弁」ないしは「屁理屈」説明だからです。そして、「詭弁」ないしは「屁理屈」ゆえに
反対論者の指摘に対して、「納得される」ような反論をしない・できないいまま、「信じろ」と言って
いるのです。
特に、20世紀以降、基礎物理学分野は、ともすると"reality"など無視・軽視して、とにかく、「数式」
と「言葉」と「脳内空想」だけの世界になってしまっている気がするのは、市井のド素人の勝手な思
い込みでしょうか?ここでいう「言葉」とは"word"と"term"です。
私は、そこに19世紀までの科学との大きな相違点を感じるのです。そして、そういう世界になり果
ててしまっているゆえに、前述のような「詭弁」ないしは「屁理屈」説明を「おかしい」と思わなくなっ
ているのではないかと思うのです。
少なくとも、19世紀以前は、「実証観測結果」が「正しさ」の根拠となって着実に進められていまし
た。確かに、Newtonのような権威学者の説に従う科学者もいた(例えばNewtonの「光微粒子説)
のは事実ですが、先入観なしの「実証観測結果」の前には率直に自分の前の論文の誤りを認め
て撤回するというような誠実さを示された科学者がいたのは事実です。しかしながら、20世紀以
降、そういうrealityというのを無視・軽視して、単に、脳内での"thought experiment"だけで「正し
い」と判断してしまっているものが多々ある−その典型が"Special Relativity"であり、"Big-Bang
Universe"でしょう。特に"Big-Bang Universe"など、観測結果と合わないと、元の理論がおかし
いとせず、実証観測ではなく、全て「脳内で練った」だけの前述のような「あとづも」的な、「詭弁」
ないしは「屁理屈」説明でつぎあてして延命策を図るというおかしな姿を呈しているのです。
結局、現代物理学は、最早、根本的なところで、数学者・岡潔博士のことで、一人で数学の三大
難問を解かれて世界的に有名だった、故・岡潔博士が亡くなる前の1970年代に指摘されていた
ように「自然科学」ではなくなっているからではないでしょうか?
出展がわからないのですが、どこかで、「私は自然などみない。数学しか信用しない」というよう
な趣旨の驚くべき発言をしている物理学者がいるという話を目にしました。
また、前に触れましたが、かのDiracは「こんな美しい理論に合わないなら、その観測結果が間
違っている」と言ったという話を聞いてますし、宇宙物理学の理論構築に貢献した素粒子学者が
観測結果が理論と一致しなかったこと自体は認めながら、それでもなお、「しかしながら、かつて
こんな美しい理論が間違っていたことは一度もない」という強がりを言ったということが「宇宙論
の危機」(ブルーバックス/和訳本)にありました。このような発言がなされている・許されている
ということは、最早「物理学は自然科学である」というのは建前論でしかないことを如実に語って
いると思うのです。だからと言って、「自然科学ではない」と多くの数学者が言明されている「数
学」でもないことは再び、「数学」≠「物理学」と主張しますで指摘しました。
「論理」が全ての数学世界では、「詭弁」ないしは「屁理屈」など相手にされないのです。
しかしながら、本質的には、「物の理(ことわり)」を解明するための学問のはずの「物理学」が
建前とは異なり、実質的に「自然科学」からはずれていていいわけなどありませんよね。
前に、寺田寅彦さんのことで、寺田さんの
自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致
しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐
れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向にな
る恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。
人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分
を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚
悟があって、初めて科学者にはなれるのである
という主張を引用紹介しました。まさに私がもやもやしていたことをずばり指摘されていて、
「わが意を得たり」と思ったのでした。調べて見ると、寺田寅彦さんは、そういうご自分の確固
たるphilosophyに基づいて自ら実践し、弟子たちに教育していたようです。
どうやら、寺田虎彦さん自身が語っておられたように、そういう認識は、旧制高校時代の先生
から、「物理学」を学ぶ前に「物理」とはなんぞやということを徹底的に叩き込まれたことからの
もののようです。
私は、これこそ真の「自然科学」というものに対する正しい態度だと思うのです。ちなみに、前
述の岡潔博士は寺田寅彦さんだけは買っていたそうです。
かのNikola Teslaは特殊相対性理論への疑念(全面改定版5)で引用したことから抜粋再掲し
ておきますと
Today's scientists have substituted mathematics for experiments,
and they wander off through equation after equation, and eventually
build a structure which has no relation to reality. The scientists
from Franklin to Morse were clear thinkers and did not produce
erroneous theories. The scientists of today think deeply instead
of clearly.
One must be sane to think clearly, but one can think deeply and be
quite insane.
(今日の科学者は実験を数学で置き換え、方程式につぐ方程式でさまよって
いて結果的に、現実と無関係な構造を構築している。
FranklinからMorseまでの科学者は明らかに思考家であったが誤った理論
は出さなかった。今日の科学者は明確の代わりに深く考える。
人は明確に考える分別があらねばならないが、深く考えて全くばかげてい
ることにもなれるのである。)
と書いているそうです。
どうですか?どう見ても、昨今の物理学者のやっておられること・説明を見ていると、前述の
寺田寅彦さんのphilosophyとは完全に異なっている気がしますし、ですから、Teslaの指摘の
ように、私には"build a structure which has no relation to reality"としか思えないも
のがアカデミズム科学の正統理論として、「正しい、真実」かのように教えられメディア等を通
して喧伝されてきており、また、前述のような、「詭弁」ないしは「屁理屈」としか思えないよう
な、"one can think deeply and be quite insane"がなされていると思うのです。
口では否定しても、多分に多くの科学者(特に物理学者)さんは、寺田さんが批判されている
ように、ご自分を含む学者の「脳力」というものを過信しているのではないかと思います。
だからこそ、Teslaの指摘した"one can think deeply and be quite insane"に陥り、それを
素直に素朴に「おかしい」と思わない・思えないのではないかと考えるのです。
前にも書いたように、多くの数学者が「数学は自然科学ではない」というのは、蓋し当然のこ
とであると思います。なぜなら、完全に『論理』が支配していると思われる数学世界では「自
然に反している」かどうかは問われないのです。
しかしながら、そういう『数学世界』においてさえ、ヒルベルトが目論んだ、いわば「神の領域」
たる「形式主義」はゲーテルの不完全性定理の前に潰えているのです。
私は、このことは、
地球人類の知恵では決して神の領域には達しられない
ということを如実に語っていると考えるのです。数学世界でさえこうであるなら、ましてや、
「物理世界」は尚、そうであるのは蓋し当然のことです。
しかし、特に、デカルト以来、科学者さんの思考的なものにはそれほど大きな断絶はないだ
ろうと思うわけで、では、私が気になっているように、なぜ19世紀以前と20世紀後で相違が
あるのかという疑問がありました。
そんな、私の疑問のヒントになった一つが、宇宙論のことで引用紹介したプラズマ物理学の
父でありプラズマ宇宙論の創始者でもあるノーベル物理学賞受賞者の故・Alvenの語録でし
た。抜粋再掲しておきますと、
"We should remember that there was once a discipline called
Natural Philosophy. Unfortunately, this discipline seems not
to exist today. It has been renamed science, but science of
today is in danger of losing much of the natural philosophy
aspect."
(我々は、自然哲学と呼ばれる学問分野がかつてあったことを思い出
すべきである。
残念ながら、今日、この規律は存在していないように見える。それは
名前が変更された科学になってしまった。しかし、今日の科学は自然
哲学の側面の多くを失う危険がある)
という1985年の談話でした。
近代科学の基本パラダイムは全て西洋発ですが、そのそも、その西洋における科学とい
うのは西洋の文化を支配してきた宗教=キリスト教の支配下のものでした。
デカルト以来、「科学」というのは一応、そのキリスト教支配下から独立しましたが、それ
でも、19世紀はアカデミーでは独立した部門ではなく、Natural Philosophyの一部門で
あったようで、例えば1861年のMaxwellの論文には、肩書が、"Professor of Natural
Philosophy in King's College"とあります。""Professor of Science"とか"Professor of
Physics"ではなかったんですね。
ま、米国人のMichelsonは欧州留学中の1881年に米国Clevlandに新設されたCase School
of Applied Scienceの物理学教授に任命されたそうですから、伝統のしがらみの薄い米
国では先に独立したのかもしれませんけど、19世紀の後半になって、やっと科学は独立
した部門になったようですね。で、それが逆に特に物理学が自然科学から乖離していっ
た(realityを軽視・無視するようになった)遠因ではないかと思うのです。
詳しく調べたわけではありませんが、アカデミーではどういう考えのもとにカリキュラムが
造られ教育をしてきたかということです。
科学がNatural Philosophyの一部門であった時代には間違いなく、scientistsは一度は
Natural Philosophyについて学んだことと思います。ですから、当時のscientistsには、
研究活動において、多分にその精神は活かされていたと考えるのです。
google検索してましたら、「科学には哲学など不要である」という発言を目にしました。
私はこういう方は、大変失礼ながら、真の物理学者などではなく、物理学を「数式」と
「言葉」の世界だと思い込まれていて、「数学者になれなかった数学者崩れ」でしかない
と思うのです。どこだったか忘れたのですが、「数学者にもなれず、実験手法も見いだせ
ず、物理も知らない人間が物理学の主流派になっている」というような痛烈の批判を目
にしたことがありました。あらら、私の失礼な勝手な思いを代弁してくれてるわと驚き
ました。
前述のAlvenが創設した「プラズマ物理学」というのは、愚直な実験室実験観測を研究
の中心方針にしているそうです。このphilosophyは19世紀以前の科学界の普通の認識
ではなかったかと思うのです。しかしながら、米国ではそういう「愚直な実験室実験観
測を研究の中心方針にしておられる−実証試験のないような説は絶対に信じない−
科学者がおられて、そういう科学者が投稿している科学誌もあるそうですが、どうやら
こういう物理学者さん達は米国でも「異端派」扱いだそうです。私は、そういう体制は絶
対におかしい・それではそのうち必ずいきづまると思っているのです。
直接実証観測もしない(しようとしない・できない?)ような「詭弁」ないしは「屁理屈」説
明を「正しいのだ」と強弁しているだけですから・・・。歴史が示しているように無理は未
来永劫継続できないのです。科学でも人間がなしている限り同じでしょう。
('15/9)
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