数学者・岡潔博士のこと

(修正)お名前を間違えて森と書いていました。ご指摘をいただき気が付きまして
修正しましたm(__)m('16/12)

------------------------------------------------------------------------
ネット検索している中で、その方の名前くらいしか知らなかった高名な方の語録を
偶然目にして驚きました。

ネットで最初に目にしたのは、岡潔思想研究会 の一つのページです。
その世界は別として、もう一般には忘れ去られてきているようですけど、日本が生
んだ高名な数学者、岡潔博士と言う方がいらっしゃいました。実は、私はこの年に
なるまで、恥ずかしながらお名前くらいしか知りませんでしたが・・

もうかなり前(1978年)に77歳で亡くなられてしまいましたが、数学の世界におい
ては「多関数複素関数論」という分野で、世界的にすごい貢献をされた方だそうで、
文化勲章も貰われています。概念の構築からなされ、その分野で、当時の世界の
三つの難問をお一人でとかれてしまった方だそうで、西欧では「オカ」を個人名で
なくグループ名だと思っていた数学者がいたくらいすごいことをお一人でなされた
方だそうです。

ま、そういう方ですから、それを成し遂げられる若い頃は世間離れしたところのあ
る方(奇人変人扱いされた方)だったそうですけどね。ただ、私は、現代数学は難
しすぎて不案内なのですが、数学者というのは極めて頭が緻密で完全論理の世
界の住人という印象を抱いていましたので、そういう方の語録の内容に驚いたと
言う訳です。科学関連について抜粋しておきます。

で、それの一つは、上のサイトの語録のタイトルの一つが、「自然科学は間違っ
ている
」というもので、そこに「物理学の限界」という批判があります。

 「(現在の物理学は)『観念的公理体系』、『哲学的公理体系』と
 いうようなものに変ってしまった


 「現在の物理学は数学者が数学的に批判すれば、物理学では
 ない。なんと言いますか、哲学の一種ですか


 「公理体系の上にいろいろなものを積み上げて、物理学という
 知的体系の無矛盾が知的に証明できただけではだめだという
 ことが、数学の例でわかっていますが、その知的に無矛盾とい
 うものを証明することが、すでに到底できそうもないこととして
 写っている


と。このタイトルの語録は分割されて他にも色々とあり、紹介しておきます。

 「人は、素朴な心に自然はほんとうにあると思っていますが、ほんとうは
 自然があるかどうかはわからない。自然があるということを証明するの
 は、現在理性の世界といわれている範疇ではできない


 「自然があるということだけでなく、数というものがあるということを、知性
 の世界だけでは証明できない
のです(--中略--)
 最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない2つの命題をともに
 仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです。
 だからそういう実例をもったわけなんですね。それはどういうことかとい
 うと、数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がない
 ということを証明し、しかし、それだけでは足りない、銘々の数学者がみ
 なその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学
 だとはいえない
ということがはじめてわかったのです(--中略--)
 そのことは、数学のような知性の最も端的なものについてだっていえる
 ことで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。
 感情なのです。
 そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの2つの
 仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力
なんです。


 「日本は明治の始め、西洋から西洋文明をとり入れると共に、物質主義
 とり入れてしまった。物質主義の代表的なものは、自然科学です。で、自
 然科学というものをよく検討しましょう。自然科学者は、この、暗暗裏に
 いろんな仮定をおいて、そういうものを自然と言っています。人が現実に
 居る自然を指して自然といっているのではない。しかもその仮定を明言
 していない


 「自然科学者はこう思っている。『始めに空間と言うものがある』空間とは
 何か、全然わからない(--中略--)
 『その空間の中に物質というものがある』、とこう決めている。物質とは
 何かと言うと、『途中は少し工夫してもよろしいが、最後は肉体に備わっ
 た五感でわかるものが物質である』、こう決めてる。
 これはほとんど原始人に近い幼稚な仮定です。しかもそう仮定して疑
 わない。仮定していることも知らないんです。


 「自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。
 絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。


 「ただ、観念的に時間といっている以外何か時間について知っているか
 と言いますと、
 『時間ってどんなものか』と聞きますと、『例えば東から日が登ってから、
 次に日が登るまでの間が24時間だ』という。
 これは何も時間じゃあないでしょう? 空間でしょう?
 『それでは今は? 』 というと、『7時2分だ』と云う。
 これだって針の位置でしょう? 大針小針の位置でしょう?
 空間であって時間ではない。それを時間というものがあると信じている。
 あるとしか思えないらしい。


 「西欧的な『自然科学』は『物質的自然科学』である

以上、「自然科学者」だと思い込んでいる「物理学者」に対する痛烈な批判ですね。
尚、この方は、私が別項で再三その言を引用した寺田寅彦さんだけは評価されて
いたそうです。

ちなみに、この方の空間・時間の概念は下記の言葉に象徴されます。

 「空間は映像である

 「人は時間の中に住んでいるのではない。
  の中に住んでいる。


このような考え方は初めて目にしました。私には衝撃的でした。

」と「時間」についてですが、

時というものがあるから、生きるという言葉の内容を説明することができる
のですが、時というものがなかったら、生きるとはどういうことか、説明でき
ません。そういう不思議なものが時ですね。時というものがなぜあるのか、
どこからくるのか、ということは、まことに不思議ですが、強いて分類すれば、
時間は情緒に近いのです。


と述べています。そして、

欧米人は時間空間のない世界など、逆立ちしても考えられない

と言っているようです。だからこそ、日本語には「時」という「時間」とは区別した言
葉があるのに対して、英語では[time」しかないんすねぇ。

いずれにしろ、私が本コーナーでやっているよりもっと根本的な所での批判を
1960〜1970年代にもうされていたんですねぇ。
「数学」は「西欧的合理主義の権化」と勝手に思い込んでいた私にとっては大変
衝撃的でした。晩年、東洋哲学に習熟されたそうで、そこからの発想もあると思
います。

人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によって初めに
 人の心というものをもっと科学しなければいけなかった。


この言葉に晩年の岡博士の訴えたかったことがよく出ていると思います。


ところで、こういう文化勲章も授与された大数学者からの批判に「科学者」はどう
考えているのでしょうか?ノーベル物理学賞受賞者の湯川博士や朝永博士はこ
の森潔博士の教え子だとか(数学)。

興味深いことに、「岡潔」でググっても少なくともアブストラクトではほとんどその件
に関しては目にしません。もうずっと前に亡くなっておおられますので、多分に「過
去の人」扱いなんでしょうね。そして、むしろ「奇人変人扱い」で済ませている気も
します。テスラがそうであったように・・・。
                                        (’14/4)


目次に戻る