私が気になって来たこと

すでに書き散らしていることの繰り返しが大半ですが(^_^;)

ここでちょっと触れたように、ポパーは「"hypothesis(仮説)"を多くの証拠を集めて
証明する」という『帰納法』に反対したようですけど、聞くところによれば、Newtonは自
分の学説は"hypothesis(仮説)"ではないと断言していたそうです。どこからそんな
自信が出てきたのかわかりませんが、現代でも、今では『古典力学』というような、何
か蔑称的響きを感じる言葉で呼称されている(中には「間違っていた」とまで極論する
方達もいて、そういうところから出てきた言葉だろうと思いますが)ニュートン力学は
「初等力学」という形で、小・中・高(私らの頃は大学低学年でも)で学んでいるのは事
実ですから、当時発見されていた物理現象の鋭い観察によるものだったことは事実で
しょう。そして、恐らくNewton自身は「余計なつっこみが入るような空想は入れてはい
ない」という自身の判断があって、それが前述のような自信満々の言に繋がったので
しょうね。それと、当時はまだ、自然科学と自然哲学が分離する以前のことでしたか
ら、考察にもそういう当時の普通の流れみたいなものがあったんだろうとも思います。

ま、私は、恐らく19世紀以前の科学者達は、多かれ少なかれ、そういう自信を有してい
たのではないかと思うのです。なぜならば、本コーナーでは再三言及してきたように、
所謂、『古典物理学』というのは、曲がりなりにも、"Bottom-Up"で構築された世界で
あったのではないかと思うからです。

一方、20世紀物理学はどうでしょうか?

18世紀の終わりから19世紀以降の種々の実験観測結果において、従来の知見では
説明が困難なものが現れ始めてきました。そして、当時の「技術基準」ではそれを更に
見極める実験自体が困難になりつつあったのではないでしょうか?

その一番の問題点は、『光』ではなかったかと思うのです。20世紀物理学は全てこの
『光』が私に言わせれば、「混迷」させてしまった結果ではないかと思うのです。
要するに、18〜19世紀の科学者にとって、光は実証観測する中であまりにも不思議な
挙動を見せたゆえでしょう。

当初、Newtonらの『粒子説』とその他の学者の『波動説』が対立しました。調べたわけ
ではないのですが、恐らく、Newtonは「光は真空中でも届く」という事実から自然に『粒
子説』を唱えたものと考えますが。

しかしながら、『回折・干渉』現象が発見されてしまい、『波動説』が主流になりました。
当時の知見として、これは『波動』での現象で、『粒子』ではありえない現象でした。
ただ、そうなると、必然的に、それなら「真空中でも伝達する」のはなぜかという課題が
出てきました。なぜなら、当時の知見として、「波動ならそれを伝達する媒体が必要」で
あったからです。そこで、「光を伝達する」役目である"ether"という"hypothesis"が
考え出されたわけです。

本articleを書くまでは少々思い違いをしてきましたが、よくよく考えてみれば、既にこの
時点から、未だ直接観測もされていない"hypothesis"を作り、証拠集めをしようという、
所謂"Up-Down"型の帰納法的手法が出てきたんですねぇ・・・
その意味では、19世紀は20世紀以降の物理学の主流になった"Up-Down"型への切
り替わりの過度期だったということでしょうね(勿論、これは私の独断と偏見かもしれま
せんけどね)。

で、仮想された"ether"は不可視ゆえに、その性状として、Fresnelの唱えた『静止エー
テル説
』(部分引きずり説−水のような透明物質内だけ引きずる−)とその部分引き
ずりを不自然としてstokesが唱えた『エーテル引きずり説』(天体周りは完全引きずり、
少し遠くでは部分引きずり、それ以外では静止というもの)が対立したのですが、Fizeau
の実験観測結果により、『静止エーテル説』が主流派となりました。しかしながら、そ
れでも少数派でしたがstokes派の科学者はいたわけで、なんと、ここで述べたように、
マイケルソンもその一人だったわけで、「マイケルソン=モーリーの実験」というのはそ
の決着をつけるべくなされた試験というのが真相で、"ether"の存在確認実験ではな
かったことに留意が必要です。

本来ならこの時点で少なくとも五分と五分になったはずですが、Fizeauの実験観測結
果に対するStokes派の解釈が多数の科学者のコンセンサスを得られないままだった
のと、やはり、権威筋が『静止エーテル説』に固執したことが、ど素人の私には20世紀
物理学の行方を決定づけてしまった「不幸」の始まりだと思えてしまうのです(勿論こ
れはAnti-Relativityの私の勝手な思いですけど、同じようなことをおっしゃっている方
もネットなどにはおられますので私一人の思いでは無いのは間違いありません)。

そしてそれが、ad-hocなFizGeraldの思いつき⇒ad-hocなLorentz ether theoryに繋がり
更には、在野でくすぶっていた若き新星・Einsteinの登場により、20世紀初頭1905年に
"Special Relativity"及び『光量子仮説』("Special Relativity"の発表の13週間前に出さ
れたもので、ノーベル賞はこれに対して授与された)が鬱積していた当時の物理界に
大きな衝撃をもたらしました。
"Special Relativity"は"ether"無しで(とEinstein自身そして現代の科学者に至るまで
皆、そう思い込んできた)ad-hocな、「静止エーテル説」に基づくLorentz ether theory
の「ローレンツ変換」を導出したこと、そして、『光量子仮説』は「波動と粒子」の性質を
備えた、新たな存在物の提示となったことです。

ここに、前述のように、「19世紀に芽生えた"Up-Down"型の"hypothesis"を証拠を集
めて証明する帰納法的手法+Lorentzが創造した、『数学』による考察」という現代物
理学の基本的スタイルが確立した瞬間を迎えたのです。

当時の権威筋のLorentzやPoincaréらはうさんくささを表明しながらも、元々、数学的
手法でad-hocなLorentz ether theoryを作って「ローレンツ変換式」を提示し、また既
に、"local time"の概念を抱いていたのですから決定的反論もできず、一方、英国王
立科学協会重鎮のEditonが最初から強力支持者になり、また、論文編集者が積極
的に宣伝したことなどもあって、たちまちのうちにmain streamになり、Einsteinは「物
理学の英雄」に祭り上げられたと言う訳です。そして、彼への憧れが前述のよう
な20世紀以降の物理学のスタイルを決定づけたのでしょう。
確かに、ここで触れたように"ether否定"に反発した科学者もいましたし、Nikola Tesla
は、そういう手法に対して、

 Today's scientists have substituted mathematics for experiments,
 and they wander off through equation after equation, and eventually
 build a structure which has no relation to reality. The scientists
 from Franklin to Morse were clear thinkers and did not produce
 erroneous theories.
The scientists of today think deeply instead
 of clearly.


という批判も出していたのですが、いかんせん、多くの科学者は革命的なEinsteinの
新説に、大変失礼ながら、早々と魂を奪われてしまった感がしていますので、言わ
ば「犬の遠吠え」でしかなかったようですね。

尚、『光量子仮説』は20世紀物理の"Relativity"と並ぶもう一つの基本理論である
『量子力学』の元になっていますので、20世紀物理学というのは、根本的なところで
は全てEinsteinに帰すると言っても過言ではないですね。

以上、既に本コーナーのいろいろな所で繰り返し指摘してきたことを長々と再度まと
めましたが、それこそが、本articleで私が主張したいことの原点になった歴史だと考
えているからです。そして、それが前項で紹介したように

 The people who tend to believe more in theories than in
 the scientific method of testing theories, and who ignore
 the evidence against the theories they believe in
, should
 be considered pseudoscientists and not true scientists.

 (⇒ここ、Bryan Wallace"The Farce of theory",1993)

 Lakatos distinguished between two parts of a scientific
 theory
: its "hard core" which contains its basic assumptions
  (or axioms, when set out formally and explicitly), and its
 "protective belt",a surrounding defensive set of "ad hoc"
 (produced for the occasion) hypotheses. (...)
 In Lakatos' model, we have to explicitly take into account
 the "ad hoc hypotheses" which serve as the protective
 belt.
 The protective belt serves to deflect "refuting" propositions
 from the core assumptions...
"

 (⇒ここ

という批判に繋がる(私もそう感じました)根本要因なのです。


その結果として「何が起きているのでしょうか?」。
ネットには「科学離れが起きている」とか「科学者の説明が不十分だから理解していた
だけないのだ」というような意見があり、「物理学が物理学者だけのものになっている」
という批判があります。なぜ、「物理学が物理学者だけのものになっている」と言われ
るのか、当の学者さん自身がわかっていないのではないかと思うのです。また、「それ
でいいのだ。難しい現代物理学は学者にお任せください。皆さんは、我々に投資して
いただければいいのです。」と考えている学者がいる節も伺えます(ど素人の我々一
般市民の『下種の勘ぐり』ではなく、物理学者さんの中にそういう風潮を指摘されてい
る意見があるのですから間違いないでしょう。米国で大型加速器の予算が議会で認
められなかったのはそういう態度が議会側の反発を買ったためという指摘がありまし
た)。

要するに、そういう風潮ゆえに、必然的にそういう現代の『物理村』の中だけで通用す
る『用語』『概念』が山のようにあるわけです。しかも、中には、小・中・高等で学ぶ一般
的な用語の意味を拡張してしまったりしているものも山のようにあります。

そういう状況下では、「科学者の説明が不十分だから理解していただけないのだ」とい
うのは実は大間違いで、絶対「真に理解」などされるはずがないのです。そして、もう一
つの問題は、学者により「説明が異なる」場合が多々あることです。

要するに、大変失礼ながら、20世紀科学の大半は、「思いつき」を「数学的手法」で固
めて理論化(本質的には"hypothesis")し、その"hypothesis"で、その"hypothesis"に
都合のよい恣意的・ご都合主義的解釈・つじつまわせで証拠としたものを集め、不足
している時は、更には新たに、ad-hocな"protect belt"の"hypothesis"を追加しての強
引なつじつまあわせまでやって、「正しいのだ」とし、説明においては、次々に『用語
言葉』を導入し、又は、従来の『用語』の概念を恣意的・ご都合主義的に拡張させ
てやっている
という感が強くするのです。

したがって、学者により「説明が異なる」場合が多々あるという状況も出てくるわけで
すし、一般下々が議論を吹っ掛けても、平行線で終わってしまうわけです。

だからこそ、「科学者の説明が不十分だから理解していただけないのだ」というのは間
違いであり、それで飯を食っているわけではない科学者以外の人々にとっては、「偉い
先生様が云うのだからと、水戸黄門の印籠よろしく、あきらめてはいつくばる、信じる」
ことができない限り、絶対に「それは無理!」と言うものなんです。

しかしながら、そういう20世紀科学の風潮の端緒を開いたのは、やはりEinsteinなんで
すね。それは、"Relativity"と「光量子仮説」という"hypothesis"であり、彼が得意
としたと言われている『思考実験』だと思います。"hypothesis"は20世紀物理の「基本
原理」扱いになり、『思考実験』は「普通の科学手法」扱いになったわけですから。

私が気になってすでにそれぞれ別項でも指摘した、『用語』『言葉』の問題の例を再度
ここに上げておきたいと思います。

まずは、『量子』。人により、説明が異なるのですが、私は、大半の物理学者は説明と
は裏腹に、「波動の性質を持つ粒子(※)」と思っている気がしてなりません。
その典型的な用語が、『量子論』といいながら、『素粒子』と呼称していること、光では
『光子』(photon)という呼称が一般的になっていることを上げたいと思います。
よく考えてみれば、photonなどというなら、そして大局的な見方をするなら、マイケルソ
ン=モーリーの実験結果」は古典力学でも説明できてしまうことに気が付いていない
のではないかと思うのです(私自身はphotonという概念には賛同できませんが)。ちな
みに、Einsteinは「光量子」と呼称したわけで、彼がphotonと称したわけではありません
が、なぜかネットでは皆、Einsteinが言い出したように書いています。だからこそ、私は
皆、(※)と考えているのだろうと思うのです。実に曖昧です。いくら説明されても理解
できない人も出てくるのは当然ではないでしょうか?

次は、「ビッグバン宇宙論者」が言う、「空間だけが膨張し、天体はそれに張り付いてい
て大きさは変わらない」という『言葉』。もう完全に、「言葉」だけでの「反証回避策」その
ものです。「概念の距離」というのもそうですし、「ダークエネルギー」「ダークマター」と
いう『用語』もそうなんです。先に、理論のつじつまわせのためにこういう「用語概念」を
導入して、「うまく説明ができるのだ」と胸を張り、後から、一生懸命、対応するものを
探すという形。また、恣意的用語概念拡張としては、『光年』をわけわからないぼかし
た存在のものに落し籠めていることが上げられます(⇒ここ)。

これだけでも、とても、「科学者の説明が不十分だから理解していただけないのだ」と
いうような話で済ませてしまう問題では無いことを理解していただきたいのです。根本
的なところで議論がかみ合わないのです。

よく、「昔と違って難しくなっているから」と言う方がいますけど、私はそれは逃げであり
自己弁護にすぎないと思うのです。なぜなら、19世紀以前についてよく考えて見れば
明らかでしょう。まだ、技術も未発達の時代に、知恵を絞って貴重な実験観測をされた
科学者がおられたのです。そして、Newton力学はNewtonがまとめ上げたのです。誰も
ができたわけではないのです。伝えられている歴史が正しいのなら、その過程で微分
という手法まであみだして使用されているわけです。簡単に構築されたわけではない
のです。そのときそのときでは、同じように非常に困難な課題なのです。違いなどない
のです。

むしろ、ここで引用した米国NASAのGoddard Space Flight Centerを退いた物理学者
・レーザ光学エンジニアのDowdye博士の

 I believe if Einstein were alive today, he would take advantage of
 the modern techniques and the modern instruments we have and
 he would wind up disproving his own theory


 (⇒ここ

という発言さえもある時代なのです。
その時、その時の技術を使って「どれだけ知恵が絞れるか」がポイントではないでしょ
うか?
思考実験でしかなかった電子の二重スリット実験を故・外村博士は世界で初めて成功
されています(最も美しい世界の十大実験の一つ)。故・外村博士はAB効果の直接実
証実験にも世界で初めて成功されています。アスペはEPRパラドックスを覆す実験に
成功しました。Birkelandはオーロラの実験室再現実験に成功されています。
更に、東大工学部の古澤教授は、ニコンから米国に留学されてた時、当時の東大物
理学権威が「それはSFかオカルトか」と言ったという(古澤先生の本の前書き)量子テ
レポーテーションの実験に世界で初めて成功されています。
ちょっと調べただけでも、技術革新が進んでいる現代だからこそ、知恵を絞れば可能
になっている驚くべき直接実証試験がなされていることがわかります。

私は、本当に「科学離れ」を抑え、一般下々にも「物理」を理解してもらおうと思うのな
ら(思わなければ仕方がないかもしれませんが最後には「信頼性」が薄れるだけだと
言っておきます)、「物理村」でしか通用しない「用語」「言葉」「概念」をできるだけ少な
くし、誰からも文句の出ない、はっきりした(要するに、"hypothesis"による"hypothesis"
に都合のよい循環論的な恣意的解釈をするのではなく)直接実証試験で全てを固め
ることが必須だと思います。「解釈論」でやろうとするから、「物理村」でしか通用しない
(絶対に部外者には理解できない「名前」がメインになっている)「用語」「言葉」「概念」
が必要になり、それゆえに、反対者が出てくるのです。
前述の「静止エーテル」だって、Stokes派の科学者は別の解釈論をしているのです。
二重星だって、別の解釈論がずっとあったとのことです。そういうのがある限り、「解釈
論」は確実な直接証拠にはならないのです。

なぜ、古典物理学が21世紀の今も残っているのでしょうか?それは、実際の装置の製
品設計において「十分使えている」からなのです。
(非相対論的)量子力学はその「コペンハーゲン解釈」への反発があっても、理論その
ものは維持されているのは、全て実験実証され、また、電子工学部門で真の工学応用
がなされてきるゆえなのです。

一方、"Relativists"の方達が、一生懸命、「多くの証拠がある」と主張されても、
反対者がいる(欧米では物理学者の中にも公言している方がいる)のは、恣意的・ご
都合主義的解釈論による「情況証拠」ばかりだからです。
また、いくら、"Bigbarnists"の方達が、一生懸命、「一番うまく説明ができる」と主
張されても、反対者がいる(欧米では物理学者の中にも公言している方がいいる)のは、
"Bigbarnists"村でしか通用しない「用語」「言葉」「概念」ad-hoc"hypothesis"を次々に
入れて、大変失礼ながら、「みかけのつじつま合わせ」をして悦に入っているだけじゃん?
とすっかり見透かされているからなのです。

一般下々の方々は、理系の方と言えども、皆が物理学を学ぼうと言う思う訳ではあり
ません。人それぞれのモチベーションは異なります。当然、世界の理系の最高頭脳が
皆、物理学を専攻しているわけではありません。すなわち、特に興味の無い方は詳細
迄学んで考えようなどとはされないわけです。

長々と書いてきましたけど、特に、今の「物理学」のあり方では、「理科離れ」はなくな
らないでしょうし、「いくら説明しようとわかってもらえない」でしょうし、例え興味を抱い
ても、「偉い科学者が言うのだから俺が理解できなくてもあきらめるしかない」と思って
それ以後、興味の対象外になるか、私のような「あきらめの悪い」人達で黙っておられ
ない方達はインターネットが定着し、個人が自由に世界に意見を発信できる今、いくら
罵倒されても、嫌みの言葉を投げかけられようとも、それゆえに余計にこうやって何か
云わないとという気になるんです。

本コーナーは「科学へのいちゃもん」というタイトル通り、ど素人の一般人のくせして
色々といちゃもんをつけていますけど、誤解の無いように言っておきますが、私は、決
して、「反科学」「反科学者」「反理論家」ではございません。そして、「科学者」を侮辱す
るような気持ちも毛頭ございません。

しかしながら、ネット上では、疑念者や反対者はまず嘲笑・中傷・罵倒の嵐ですし、「反
対意見を言うのならきちんと学んでから言え(学ばずに勝手なことを言うな)」とか、単
に「多くの証拠がある」「一番うまく説明できる」という理由だけ上げて「反対する輩の気
がしれん」という感じのことを言ったり、「そんなものは教科書をきちんと読めばわかる」
と反対論への明確な論理的反論はなされなかったり、更には「まともな学者は・・・」とい
う感じの主張が並んでいます。

だからこそ、私の中で余計に不快感・反発心が湧いてしまっているのです。
ただ、私は性格的に「思い込みの激しい」ところがなきにしもあらずということを自覚して
いるゆえ、「絶対自分の考えは正しい」などというおこがましいことは考えたことはありま
せん。自分が間違っていたことに気が付けば、どんな相手でも素直に謝れる輩なんで
すよ。ですから、ネット検索を沢山してその中で、自分自身の意見の補填になること、思
い違いを見出し、突然のarticleの書き替えや追加をしてきているところです。
                          (’14/7)

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