『反証可能性』って(’14/6)

ネット上には、「『科学』(と彼らが信じているところの、要するに『アカデミズ
ム科学
』(アカデミー−大学・公的研究機関−の主流科学者が『正しい』もの
として研究し教えているもの)と、彼らが『疑似科学(エセ科学、いんちき
科学)
』だと決めつけているもの(アカデミーの主流派が間違っているとして
いるもの)の区別及び見極める手段」として、『反証可能性』という用語
を持ち出した説明が多々見られます。
そして、この『反証可能性』の説明として、よく『宗教』がアンチテーゼの例と
して出されています。

しかしながら、私はこういう説明に極めて違和感を感じました。
そもそも、そういう決めつけをされる方達は、

 そんなものは科学的にありえないのだから、いかにも科学で
 あるかのように吹聴するが、疑似科学なのだ
(※)

と考えておられるのですから、そのまま「正直に」そう言えばいいのに(現に
そういうことを言っている方もいるわけです)なぜいかにも『権威』的な概念を
持ち出して「上から目線で」言うのかという感情的な反発と、この言葉の響き
から、

 じゃぁ、アカデミズムで『科学』と称せられているものが悉く
 「反証可能性」を有しているのか


と言う疑問を感じたからでした。
要するに(※)と言ってしまうと、そういうものに特別拘りの無い攻撃側でもな
い人にとっては、絶対的根拠はない感情的攻撃とみなされかねないために、
こういういかにもきちんと絶対的定義がされているかのように見える高尚な
用語
を用いて「勝手な峻別」を正当化しようとしている
かのように感じられて
しまうのです。

で、どうやら、この『反証可能性』という用語は、ポパーという人の『科学哲学
論』の中で用いられたもので、ポパーと言えば、『反証可能性』が出てくる形の
ようになっているので調べてみました。

私自身、元々『哲学』というのには興味がなく、その方面では全く不案内(とい
うかほとんど何も知らない)で、前に唯一、クーンという人の『パラダイム論』
というものの存在を知り、それにはポパーという方が批判をしていた(若干
誤解していたところがありましたが)ということくらい、合わせて『科学哲学』と
いう部門の存在くらいを知っただけでした。そして、そのときは、実は、ポバー
の論というのは興味がなく、それ以上調べたりしなかったというのが本当のと
ころでしたので(本質的に、これは私の偏見かもしれませんし怒られてしまい
そうですが、どうも『哲学』というと、何か、言葉とか概念とかが前面に出され
て論争されているものという気がいてなじめなかったこともあります)。

さて、当然ですが、こういう『哲学』については必ず反対論・批判論というのが
存在する学問であり、全ての人が合意するというには程遠い学問の典型み
たいなもので、そこにはそれぞれの人の思想的背景・思考傾向が必ずあり、
表明も言葉の世界ですから、当然ながら誤解もあり、また、ご都合主義的・
恣意的解釈がついて回るため、本来は直接御本人の著述を読んで考えると
いうのが自分的には一番でしょうが、自分の興味の上で、そこまでやる気は
はありませんので、ちょろちょろと見て、最大公約数的な見方をしました。
こういう場合は、ともすると恣意的解釈が多く含まれる激烈な批判的解説は
避け、できるだけ、著述内容を純粋に紹介しているものを読んだわけです。

その結果、私の中での結論として、

 ポパーは別に「科学と科学でないもの」の厳格な峻別の
 基準を提起したわけではなく、「科学と称するもの」を遂
 行していく科学者の考え方・方法の理想的あり方(方法
 論)を提案した

と理解しました。

なぜ彼が「反証可能性」という概念を提起したのかその真意は理解できまし
た。彼は、そもそも、「証拠を集めてその理論の正しさの証明とする」帰納法
のやり方に疑問を感じたようです(誤解があるようですが、帰納法という方法
自体を否定したのでなく、それだけで理論の正当性を主張することへの疑念
だったということです)。
彼は「反証可能性」を持ちだした時、それに対する反論が出てくることは十分
予測していたようです。一つには、「反証可能性」に「反証回避法」というの
があることを認知しており、それが有効な場合もきちんと想定していたようで
す。ですから、反論にあるように、別に「一つの反証が出てきたらその理論は
終わり」だなどと言っているわけではありません。
ただ、彼は、二つの例を出して、前述の「伝統的な証拠を積み重ねるだけで
正しいとする帰納法的手法」だけでは、「狂信的反証回避法」による「それで
はなんでも説明できてしまう」ものも認められてしまうことでこれらへの批判
的信条ゆえに科学の方法の理想的なあり方として、「反証可能性」を持ちだ
したということです。

彼は過去の科学の歴史を全否定したわけでも、帰納法で用いられる実証証
拠を否定したわけでも、反証回避策を全否定したわけでもなく
、繰り返します
が、彼が批判の目を向けていたのは、

 ・証拠を積み上げて正しさの証拠にしてしまうこと
 ・それに従う形態をした上で「狂信的反証回避法」
  の手法で「なんでも説明してしまい正しいのだ」
  というやり方(批判に直接論理的反論をせず、恣
  意的置き換えで封じ込めようとする)


ことだったんです。ちなみに、批判の目を向けた2例は、アカデミズムで「科学」
と「名乗っている」学問体系です。決して、ネットで「疑似科学」という蔑称で目
の敵にされてきたものではありません!!
また、とことん、そのときのmain streamである基本理論に拘り、付随理論を見
直していけばよいという極論には批判的でした。

で、ポパーが批判したとされているクーンの科学哲学論ですが、基本的には、
これは『現状追認』のものだと思います。
ここに、哲学者であるポパーと元々、物理学者で、授業の関係で科学史を調
べて『パラダイム論』を提示したクーンの基本的背景の相違があると思うので
す。

ちなみに、クーンの論を『パラダイムシフト』論から『科学革命論』と称する意
見もあるようですけど、単に、必ずしも科学の進展というのはポバーの理想と
する形などにはなっていないという批判をしながら、一方ではパラダイムシフ
トなるものはめったに起きないとしていて、その間はポバーの論と同じような
進展をしていると言っているわけですから、完全対立論では無いんですよね。

ちょっとおかしいのは、ポパーもクーンの「科学」と称するものに特化しての
論なのに他の分野に恣意的に適用されて論じられてきたということです。
『権威』を御自分の思考思想の正しさの証拠に恣意的に使用することに大き
な不快感を覚えてしまう私がいます。

ネットに「科学哲学は科学者のあり方を論じている」として不快感を覚える科
学者も多いというような意見がありました。そして、現状を見るに、彼らの意
図したことが全く理解されずに無視されているか、または、立場の正当性を
述べるときに、せいぜいご都合主義的・恣意的利用されている気がしてなり
ません。なぜなら、金輪際実証証明されたことのない仮定を元に築かれた理
論が私から見ればいくら賛成者がいようとも、ご都合主義的解釈による証拠
を集めて正しいのだという主張がされている標準理論がいくつかあるためで
す。

一方で、「疑似科学」という蔑称が付けられてアカデミズム界から目の敵にさ
れているものには、わざわざ『科学』だと主張していないものもあり、そして、
提示している「実証証拠」を「そんなものは科学的にありえない」と無視して
いるだけで、そこには真の『反証』を示さないまま、「反証可能性」がないと
いう決めつけがなされ、それらは宗教みたいに「信じているから正しいのだ」
と本質的には主張もしていないことを主張するものだとして「科学では無い」
と恣意的に決めつけているだけに感じられてしまうのです。

「実証可能性」をそういう風に用いるなら、現在、アカデミズム科学の標準理論
である進化論、ビッグバン宇宙論、プレテク&断層論の地震学など、疑似科学
とどこに差があるのかと言いたいわけです。アカデミズム科学だから正しいの
だと主張しているだけに過ぎないのではないでしょうか(彼らは「科学的手法」
だからと強調しますが、私にはかなり独善的・恣意的主張にしか見えません)。
少なくとも、これらを正しいと主張する方達が、冒頭のような「反証可能性」を
持ちだしてきて「疑似科学批判」するのなら、ちゃんちゃらおかしいと考えます。
正直に、「物理常識に反しているからそんなものはない」と言えばいいのに・・


                           ('14/6)

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