『自然科学』って何だろうかA(’16/3)(追)

   〜気が付いていた方達〜

(修正)岡潔先生の名前を間違えて森潔と書いていました。ご指摘をいただき、
気が付きました。修正いたしますm(__)m('16/12)

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以前、『自然科学』って何だろうかというarticleをしたためていました。
基本的には理系人間である私自身、60才になるまでそんなことは考えたこともなかったのをネットを
漁っている中で今更私の心の中に芽生えた疑問でした。

その後、更に色々とネットサーフィンする中で、過去にそれにずばり言及しているないしは本質的な
ことについて言及している学者さん達がなされたメッセージ・主張を目にし、それらは私にとっては
大きなsurpriseとなり、私の心に芽生え始めていたもやもや感を次第に解消してくれるものであった
ため、その都度、本コーナーで紹介してきました。

勿論、浅学菲才の身であり、特に本コーナーの大半を占める「物理学」に関してはただのアマチュア
素人でしかない私ですから、それら先人の方達の言を全て理解できたわけではありませんが、少な
くとも私を「はっとさせた」ことが多々あり、触れずにはおれなかったゆえに自分なりの理解の上で勝
手に引用・紹介させてもらってきました。

本項は、それら、これまでぱらぱらと引用紹介させてもらってきたことを再度まとめなおしたものです。
サブタイトルで「気が付いていた方達」と書きましたのは、大変失礼ながら、大半の方達は以前の私
と同様、「自然科学」ということの本質に気が付いていない・思い違いしていると感じているからです。
言うならば、大変失礼ながら「お釈迦様の掌の中であばれていた孫悟空」みたいな状態でいるので
はないかと思ったからです。

さて、私を最も驚かせた言葉は、数学者・岡潔博士のことで引用紹介しました文化勲章も受賞され
世界的数学者だった故・岡潔博士が晩年の1960年〜1970年代に残された語録の中の

 自然科学は間違っている

というものでした。そのarticleで示しましたが、それは岡潔思想研究会 というサイト(故・岡潔博士の
思想に感銘して研究会を主宰されている方のサイト)にあったものでした。
読めばわかりますが、ここで岡潔博士が言及されている『自然科学』とは『物理学』を指しているよう
であり、理系人間の末端の私のもっとも好きな『物理学』に関して、私の心の中に湧いて来た拭い去
ることができない不信感・いらいら感からこんなコーナーを設けてしまって言いたい放題書いている
私にとって、一つの大きな衝撃だったのは間違いありません。勿論、100%理解できているわけでは
ありませんし、前述の紹介サイト主さんの理解通りなのかはわかりませんが、それを読んで引用紹
介した後の私の思考遍歴に大きな影響を与えてきたと考えています。

前には引用しませんでしたが、岡潔博士は、

 現在の物理学は数学者が数学的に批判すれば、物理学ではない。
 なんと言いますか、哲学の一種ですか。


と指摘されています。私自身、漠然とすでに気が付いてしまっていたのですけど、これについて、

 仮定している物理の公理体系が残っても、実験的には確かめることの
 できないものに変ってしまったのです。
 物理的な公理体系ではなくなったのです。


と述べられ、更に、

 公理体系の上にいろいろなものを積み上げて、物理学という知的体系
 の無矛盾が知的に証明できただけではだめだということが、数学の例
 でわかっています
が、その知的に無矛盾というものを証明することが、
 すでに到底できそうもないこととして写っているのです。


と鋭い指摘をされています。
ここで、「数学の例でわかっていますが」というのは、博士自身が実感したことだったようです。
数学の世界において、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない2つの命題をともに仮定しても、
それが矛盾しないという証明が出たため、数学は知性の世界だけに存在しえないということが今に
至ってわかってきたということだそうです。

 矛盾がないということを説得するためには感情が納得してくれなければ
 だめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でで
 きることは知性を説得することだけなんです。説得しましても、その数学
 が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。


とおっしゃっています。「数学のような知性の最も端的なものについて」だってそうなのだから、
ましてや「物理学」をやという指摘ですね。現代物理学を眺めていますと、大変失礼ながら現在の
物理学者の多くは、「公理体系の上にいろいろなものを積み上げて、物理学という知的体系を無矛
盾的で知的に証明されている」と固く思い込まれている感がしてなりません。
私に言わせてもらうなら、せっせと『砂上の楼閣』を脳内で築き上げているのではないかとさえ、
思えてしまうのです。

何度も引用してきましたが、私は、過去の科学者の言である、

 頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生に
 はなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大
 自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直
 接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるの
 である。

                          〜寺田寅彦

 "Today's scientists have substituted mathematics for experiments,
 and they wander off through equation after equation, and eventually
 build a structure which has no relation to reality. The scientists
 from Franklin to Morse were clear thinkers and did not produce
 erroneous theories. The scientists of today think deeply instead
 of clearly.
 One must be sane to think clearly, but one can think deeply and be
 quite insane.
"
 (今日の科学者は実験を数学で置き換え、方程式のち方程式でさま
  よっていて結果的に、現実と無関係な構造を構築している
  FranklinからMorseまでの科学者は明らかに思考家であったが
  誤った理論は出さなかった。今日の科学者は明確の代わりに深く
  考える。人は明確に考える分別があらねばならないが、深く考えて
  全くばかげていることにもなれるのである)

                         〜Nikola Tesla

を傾聴すべきではないかと思うのです。これらの言は前述の岡潔博士の言と通じるものだと思います。
引用しませんが、前述の言の前段にEinsteinの名前が出てきます。
宇宙論のこと(4)〜Einsteinの原罪〜のarticleで触れましたが、上記のような批判が出てきた最大の
背景はEisnteinが1905年に発表した"Special Relativity"の根源的な方法論に魅せられた科学者がそ
の後の物理学のあり方においていわば適用したことにあると思います。端的に言うならば、

 現実(Reality)を無視し、数学的に構築した現実と無関係な公理体系を(勝手に)
 物理学だと決めつけた


のであり、綿々とそういうphilosophyの上でやられてきている感がしてなりません。
私は19世紀まではそうではなかった、というか、前に書きましたが、どうやら既に19世紀ごろからそう
いう発想傾向が見ら始めていたようですけど、まだ、そうではない科学者=「本物のの科学者」(私
の勝手な言ではなく、続・相対性理論への疑念(22)〜更なる虚像の証拠〜で紹介したように、
G. BURNISTON BROWNという方が1967年に出した論文の中で「理論と同様、観測と実験を行う物理
学者」のことをそう称しています)も多くおられたが、Einsteinの出現以後、次第に「理論ばかりを尊ぶ」
科学者が主流を占めるようになったのではないかと思えるのです。

これも既に引用していますが、岡博士は、

 自然科学者は、この、暗暗裏にいろんな仮定をおいて、そういうものを自然と
 言っています。人が現実に居る自然を指して自然といっているのではない
 しかもその仮定を明言していない


という鋭い指摘をされています。
要するに、今の自然科学(岡博士は物理学のことを示唆されています)は、岡博士が唯一買われて
いたという寺田寅彦さんの前述の語録にある「人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前
に愚かな赤裸の自分を投げ出し、ただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する
」という、
本来の『自然科学者』のあるべき姿と程遠い姿になってしまっていることへの批判ではないでしょう
か?本来の「自然科学」というものをすっかり勘違いしているという・・・

さて、岡博士のもう一つの批判として、再度引用しますと、

 西欧的な『自然科学』は『物質的自然科学』である

というのがあります。そのような批判は少数派ですが、ネット上でも見受けられ、私も近年そういう
思いを強くしているところです。多くの人々が、近代科学の基本的パラダイムが皆、西欧発であるゆ
えに、西欧人の『物質主義』を合理的科学だと思い込んでしまっているのではないでしょうか?
例えは悪いかもしれませんが、東京人が使う言葉を『標準語』だと決めつけているようなものではな
いでしょうか?もっとも、日本人の場合、それは「自然に」そういう風になっているのではなく、そうい
う風に教育されて来たからだろうと思うのですけどね。
この『物質主義』というのは決して不変的な「ほんとう」と言う意味での真実などではなく、単にギリシャ
時代からの西欧人に流れている考え方に過ぎないと思っており、『物質主義』≠「合理的」だと思うの
です。どこに『物質主義』が合理的で科学的だという絶対的証拠がありますか?誰かそれを明確に
論理的に万人が納得できるような証明をしていますか?そんなものはありません。そう信じている
だけに過ぎないのです。じっくりと考えてみると、そういう、実は「そう信じられているだけ」ということ
が実に多くあることがわかります。

岡先生は、

 自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。
 絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。


と指摘され、

 観念的に時間といっている以外、時間についてわかっていない
 (時計の針のように空間であって時間でないものを時間だと思っている)


というような批判もされています。
そして、岡先生は、

 あるのは過去・現在・未来という『時』であり、『時間』は
 過去の属性でしかない


という主張をされていて、再度引用しますが、

 ・空間は映像である
 ・人は時間の中に住んでいるのではない。の中に住んでいる


という主張(仏教の『光明主義』という思想だそうです)をされています。
この主張は私には一つのsurpriseでした。
フランス留学の経験によるものか、岡博士は、「西洋人は『時間・空間があってその中に物質がある』
と考えている。彼らにとっては、時間・空間がないなどということは考えられない」というような主張も
されています。かのカントが、

 時間空間は先験観念である、自分はこれらなしには考えられない〜カント

と書いているそうです。これが西洋哲学と東洋哲学の最大の根本的な相違点でしょう。
私は、日本語では明確に「時」と「時間」という区別したtermがあるのに、英語では"time"一つしかない
のはそこに根本的な相違点があるからではないかと思うのですけどね。ドイツ語も一つだそうです。

ただ、西洋においても、物理学の空間・時間は"conventions"で紹介していたように、「物理学」世界に
おける「空間・時間」の概念・尺度は現実(real)のものではなく、体系のベースたる"conventions"でしか
ないということに気が付いていた科学者はいたのです。18世紀に既にBoskovichが示し、かのPoincaré
がそのphilosophyを受け継いでいたようで、再掲しておきますと、彼は、

 "Space is another framework which we impose on the world.
 Whence are the first principles of geometry derived? Are they
 imposed on us by logic?
 Lobatschewsky, by inventing non-Euclidean geometries, has
 shown that this is not the case.
 Is space revealed to us by our senses? NO ; for the space
 revealed to us by our senses is absolutlely different from
 the space of geometry.
 Is geometry derived from experence ? Careful discussion
 will give the answer no ! We therefore conclude that the
 principles of geometry are only conventions
"

 (空間は我々が世界の上に重ねた他の枠組みである。この最初
  の幾何学原理はどこから導き出されたのであろうか?それらは
  論理によって、我々に乗じているのだろうか?
  非ユークリッド幾何学を考え出したLobatschewskyは、これはそ
  のケースではないことを示した。
  空間は、我々に、我々の感覚によって現れているのであろうか?
  ノー;なぜなら、我々の感覚によって我々に現れている空間は
  幾何学空間とは絶対的に異なっている
からである
  幾何学は実験によって導き出されたのであろうか?注意深く
  議論すると、答えはノー
である。我々は、それゆえ、幾何学原
  理はただ、慣習的なもの
だと結論付けられる)


と述べています。
この「我々の感覚によって我々に現れている空間(the space revealed to us by our senses)」という
のは、岡博士の言である「空間は(人間の第一の心に投影された)映像」というのと通じている感が
しています。

まだ、観測技術も未発達で、人間が「見える」範囲内で捉えた現象を、西洋の科学者が取り決めた
時間の定義と、数学世界のユークリッド幾何学を適用したら、うまく説明ができたという成功体験が
その後の科学、科学者の発想を支配・決定づけてしまったのではないかと思います。

私は、岡博士の指摘しているように、「空間・時間は『ある』。そしてその中に「物質が『ある』」とい
う西洋的哲学は誤っていると思いますし、ましてや、物理学における「空間・時間」の概念を現実(real)
なものだという既にPoincaréやLorentzらが気が付いて否定していたものを信じ込んでいる感がし
ている多くの科学者の発想は基本的に誤っていると考えています。
そういう、実は絶対的証拠もないまま信じ込んでいる発想にとどまっているからこそ、量子力学の
結果が信じられず理解できないのではないかと思うのです。前にも触れましたけど、私は「(非相対
論的)量子力学」の結論は、そういう長らく信じ込まれて来た西洋的「物質主義」と「(物理学におけ
る)空間・時間は"conventions"にすぎないこと」を再考すべき強烈なアンチテーゼであろうと思って
います。

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(追記)
ネットサーフィンしてましたら、日本の若い素粒子物理学者の中にも、今の量素粒子物理学のあり方
に疑問を感じていらっしゃる方がおられることを知りました。
(⇒Et Tu, Anomaly !)
以下、一部引用させていただきます(赤字、下線は私が勝手につけました)。

 サイエンスに対する考え方の問題があります。
 物理学は常に自然を理解する事を目的とした学問です。ところが、
 素粒子論屋の大半は「理論内の整合性」の検証を最優先します
 (...)それが自然界のどの現象を表現するためであるかと言う最も重要
 な問い掛けに欠如しています

 (...)かなり幅広く、理論至上主義に毒された研究者が後をたちません。
 科学はあくまでも自然を理解するために数学を使っています。
 理解したい自然現象が存在しない場合の理論模型は当然の事ながら、
 科学には無意味
です。それは科学というよりも、「哲学的科学」とで
 も言った方が良いと思われます。
 理論内の整合性をしっかり検証する事は勿論大切な事です。しかし、
 それが自然界と無関係では模型としての意味はなく、どうしたら自然
 界を記述できるのかという事こそが最も重要
です。


若い物理学者の中に、こうやって、きちんと本来の『自然科学』の意義・あり方をご理解されている
方がいらっしゃるということで私は希望を抱いております。

                           ('16/3)

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