『自然科学』って何だろうか

自然科学』って一体全体何でしょうか?
wikipediaには
 科学的手法により一般的な法則を導き出すことで自然の成り立ちやあり方を理解し、
 説明・記述しようとする学問の総称

と書かれています。

しかし、この説明、ちょっと見は当然のように見えますが、今の私には少々違和感を感じて
います。

そもそもなぜ『自然科学』という学問が生まれたのでしょうか?
昔から人間が共通認識として自然現象に対して感じた不思議さを解明したいという自然の
欲求から必然的に生まれた学問ではないでしょうか?そして、地球生物の中で唯一『人間』
のみがなしてきたものであり、得られた知見から多くの『科学技術』が生まれ、人間にとって
計り知れないほどの恩恵を与えてきています。勿論、兵器のような人間にとってあだになっ
てしまった技術さえも生んでしまいましたが・・・

いずれにしろ、本来『自然科学』は全ての自然現象の謎』を解き明かす学問のはずでは
なかったでしょうか?で、そう言うと恐らく、皆さんは「そんなことは当たり前だ」と言うでしょう
が、実際を見て見ましょう。本当に現在の自然科学はそうなっているでしょうか?

私がWikipediaの説明に違和感があると感じているのは、冒頭の『科学的』という言葉です。
私がこのコーナーを作った目的でもあり、再三書いてきたのですが、アマチュアゆえに感じ
てしまっている現代科学のあり方への捨てがたき疑念からこの『科学的』という語彙に一種
の反発を覚えてしまっているのです。

現在の『科学的』という言葉は、科学アカデミズムの世界で、既に確立した真理だと学者が
信じている教科書定説理論に沿うことのみ
を意味しているようです。ですから、それとは
異質のものはたとえ実際にあっても「そんな自然現象はない、嘘だ。とんでもだ。」とはなか
ら無視またはそれを言う人へのひどい人格攻撃までなされています。

しかし、これこそ、本末転倒ではないでしょうか?私が前述で『全ての自然現象の謎』と
言いましたが、現代科学は、確立したとされている理論で説明可能と思う自然現象のみが
自然現象だと勝手に決めつけ、それ以外は幻としてしまっている『ご都合主義的選択的』
自然科学
になり下がってしまっている気がしてなりません。

そして、本来は『自然現象の謎』を解明するのが本質なのに、曖昧なところがあっても「つじ
つまがあっていればそれでよい」というスタンスで「できないからそれ以上そこは深入りしな
い、する必要性はない」というのが「あきらめればわかる」という言葉に如実に現れているの
です。

そういう意味では、私は『自然科学』はその歴史において本来の筋からずいぶん変節してし
まったという気がしています。誰でも子供のころには自然現象の不思議さを感じ、理科への
あこがれみたいなものを感じるものですが、少し大きくなると理系嫌いが多く出てくる理由
はまさにここにあるのではないかと思います。

要するに、本来の『自然科学』の本質である自然現象の謎(人間の素直な「なぜだろう?」
という思い)の完全解明ではなく、高等数学と思考実験やシュミレーションによるつじつま
わせでのHowの追求ばかりと、そういうところからでてきたいかにもエレガントで美しい理論
について間違っているはすがないと言う強い思い込みから、それに反するような実験・観測
データが出て来ても、実験観測者自身がデータ不備と思い込んでしまったり、そうではなく
ても「そんなはずはない」として無視するか、無視できなくなると、少しの修正でいいはずと
またもや次のつじつま合わせ補正を行うだけ・・・

そうやって、基本的教科書定説には一片の疑いも持たず、その線上でせいぜい修正だけ
追求しているのが、現在の『自然科学』と称されているものです。

私は自然現象の中で多くの人間が目撃しているもの、一部の方達が目撃体験しているもの
を含めて『現代定説科学』で説明できないものが数多くあることを無視して逃げてすませる
のでなく、もっと真剣に捉え、その中で、説明できないなら現在の基本的教科書定説理論自
体にも誤りがあるのではないかという疑念を素直に抱いて、別の方面からの研究をするよう
な学者が自然に出てくるような科学界になって欲しいと思うのです。

基本的教科書定説理論は神聖にして犯すベからずというような現代科学アカデミズム体制
ではいつまでも「全ての自然現象」は解明されないままで終わり、あいかわらず理科離れは
進むばかりであり、そして、科学の発展の行き先は暗いと思います。

高等数学をあやつって脳内高等ゲームに興じているだけで楽しい方達はそれでいいのかも
しれませんが私はそこには真の自然科学という学問的価値を見出せません。

本来あるべき『自然科学』の本質に戻り、観察目撃者数の多少に係わらず『全ての自然現象』
を先入観を捨てて素直な気持ちで着実な実験観測と出て来たデータを勝手な先入観で取捨
選択せず素直に捉えて完全解明していくという風になって欲しいと切に願うのですが、どうや
ら当面は(地球では永遠かも)無理なようですね。

こういう意見は浅学菲才のアマチュアの勝手な戯言としか思われないのでしょうね。しかし、
少なくとも日本では真理だとして義務教育で習う「進化論」を打ち立てたダーゥインは講義も
したことのないアマチュアだったそうですねぇ。
自然科学の世界は最初は反対者があっても、一旦多数派になるやいなや完全に神聖にして
犯すべからずの真理に祭り上げられてしまうようです。結局、真の真理というより多数決で真
理が決まってしまう世界ですね。だからこそ、いくら攻撃されても反対者が後を絶たないとい
うのは人間故の当然のことでしょうね。そういう自然の人間心理を勝手な偏見で「間違ってい
るから目覚めさせないといけない」とばかり、攻撃するアカデミズムには「何様だ?」という強
い反感しか感じられず、そういう目で見るとあまりにも曖昧さばかり目についてきて不信感
の虜になってしまっています(:_;)

「あきらめればわかる」なんて嘘もいいところです。そんなもん「わかった気になって自己満足
しているだけ」にすぎませんて。なんでそんなのに組みしなければいけないのでしょうか?
御自分だけそうしていればいいじゃないですか?そんなのが真実なのに上から目線でこうい
うことを言うことがいかに滑稽であるか考えてほしいです。

「中味を勉強せずに間違っていると批判する」という攻撃があります。そういう攻撃する人達は
完全に思い違いをしていることに気が付いていません。間違っているという批判の多くは多く
の曖昧さのなかで「つじつまが合う」から正しい、真理だということ自体に不信感を抱いている

のです。ですから、学んで最初は疑問も感じなかった人々に不信感を感じている人が多数いる
のです。曖昧さを不自然と考えず「あきらめればわかる」として「つじつまが合う」ことだけで正し
いと思う方達との最大の相違点がそこにあるのです。勿論、「つじつまが合っていない」という
批判もありますが、彼らの指摘に万人が納得できるような反論を目にしたことがありません。

私は子供のころから理科が一番好きな科目でした。そして、中学生のころは物理学に進みたい
という漠然とした希望がありましたが、諸般の事由から結局工学部に進み、社会に出てからは
ずっと機器の設計一筋で来た輩です。その中で、完全に成熟したと思われているものでも未だ
解明されつくしていない現象に多く出くわしてきた体験があります。前にも項を分けて書いたこ
とですが、一旦問題が起きますと曖昧なままでは済まない、定性的つじつま合わせだけでは納
得されないのが機器設計の世界であり、実験観測データというのが必須の世界です。
そういう風土で長年過ごしてきている私は、ですから曖昧さというのは受け入れられませんし
当然ながら実験観測データに基づいた着実な研究展開というのは普通の感覚なんですね。
いくら困難でも実験観測データを出せないというのでは許されない世界なのです。

対象範囲が異なっていようと、同じ科学分野であり学問手法自体に相違はないはずです。
だからこそ、この歳になって一つ湧いた疑問からどんどんと色々な面に対して疑念が膨らんで
きてしまい、自分の浅学菲才のなせるわざだろうと調べても意外にも全然疑問が解消されない
状況であることにわかり暗澹とした気持に落ち込んでいます(:_;)

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