数学適用の限界
物理科学の本には、『特異点』とというのが出てきます。
科学者を悩ませてきた問題点のようです。
しかし、私が極めて違和感を感じているのはこの『点』という「用語」です。
『点』というのは「数学世界」における概念的な存在であり、その定義は
「位置だけを持ち、長さ・面積・体積をもたない図形」(Wikipediaより)であ
り、こんなことは誰でも御存知のはずです。
それなのに、どうして自然科学である物理学に、こんな数学的概念の代
物が当たり前のように顔を出して論議されるのでしょうか?
「点」というのは、地球の学者が数学と言う学問を確立する中で定義した
もののはずですよね?それは、例えば、鉛筆でを紙にちょんと当てたと
き出来る「円形」図形を抽象化して定義したものであり、その紙に書かれ
た「点」というのは実際には、小さいながら紙の上では「面積を持ってい
る」わけで、決して「面積=0」の円ではないのです。三次元に拡張しても、
決して「体積=0」の球では無いのです。
ですから、まだ、「観測できる自然」という意識が残っている学者は悩ま
れるているようですが、中には、そんな「観測できる自然」などお構いな
しで、いかにも「実在」のものと考える「科学者」もいます。どうやら、現代
科学の「宇宙論」のmain streamであるビッグバン宇宙論者はまさにその
ようです。私には全く理解できない考え方です。なぜなら、再三強調して
きましたが、「観測できない」(「誰一人直接見ることもできない」という
意味も含めている)ことは未来永劫、地球の科学者の脳内から出てきた
「仮説」でしかなく、絶対真理だという証拠はないというのが私の基本的
な信念ゆえです。
で、彼らは「実在のもの」としながら、「じゃぁ、具体的な物理イメージを示
してくれ」というと「しない」のです。ネットでググっていたら、「観念物理学」
というtermを目にしました。私が言いたいことをずばり表している気がし
ます。前述で「しない」と言いましたが、実際には、「できない」のです。
なぜなら、「脳内」で構築された「概念世界」を「ほんとう」と思い込まれて
いるからです。「概念世界」というのは、具現化できないのです。ですから、
「言葉」だけで逃げてしまう訳です。「概念の距離」「空間の膨張」「超球」
などというのは、絶対具現化して示す事ができない「概念世界」のTermな
んです。恐らく、脳内でも具現化できていないと思います。
ま、「中心のない空間の膨張」という「概念世界」を「風船」を用いての物理
的イメージ説明に使っていて、聞く方は、深く考えないとつい「なるほど」と
わかった気にさせられてしまいますけど、風船が膨らめば、風船上の図形
の面積も拡大するはずなのに、「いや、それはそのままの大きさで静止し
て張り付いているのだ」と言う、既にもう現実的な物理イメージから外れた
「言葉遊び」で逃げていて、やはり、正しい具体的な物理イメージを示して
いない・示す事が出来ないわけです。
ですから、我々下々がいくら「おかしい」と言っても、さながら「宗教論争」
になっていてはなから議論がかみ合うはずがないわけです。
では、なぜ、そんな、一般庶民からかけ離れた存在の「観念物理学」がア
カデミズム科学となって幅を利かせているのでしょうか?
それは、一つには、20世紀になって現代物理学が分化が顕著になったこ
とが要因だろうと思います。すなわち、「理論物理学」と「実験物理学」とい
う分極化です。物理学界は、それを「高度に進んでいる物理学を有効に進
めていくためのもの」と自画自賛していますが、理想と実態というのは必
ず乖離があるものです。ちなみに他の科学分野にはそういう分化はありま
せん。そして、昔は物理学の分野でもそうだったわけで、だからこそ、誰も
それまでの科学常識では思いもつかなかった発見がなされ、古典物理学
が構築されたわけです。
「理論家」が理論を考え、「実験・観察家」がそれを観測実証していくという
のは確かに見た目は「効率的」かもしれませんが、現実には、「理論家」は
具体的な実験観測方法は示さず、それを考えるのは「実験・観測家」の範
疇になっている上、どんどん「観念物理学」化して「実験・観測」が速攻的に
できなくなっているために、仮説が実証されないまま、それをもとに更に先
へと進んでしまっているのが現状ではないでしょうか?そして、そういう世
界では昔のように、「誰もそれまでの科学常識では思いもつかなかった」よ
うな発見というのが確実に公開されるかどうか、大変失礼ながら疑わしい
感がしているのです。なぜなら、ちょっとあった情報について興味を持って
調べてみても、特に「誰もそれまでの科学常識では思いもつかなかった」
ような、場合によれば、物理定説に反するような驚くべき観測結果が発表
されても線香花火的でいつしかうやむやになっているのか検索ヒットしな
かごく少数しかヒットしないものが多い気がしているのです(⇒ここで触れ
ました)。
二番目は、「理論家」は何に「信」を置いて考え、何が多数の主観的コンセ
ンサス」を得る武器かということです。勿論、それまでの「観測結果」が基
本になっていますが(これに反していては理論になりません)、最大のツー
ルは当然ながら『数式』なんです。そして、それは『数学』が基本になって
います。
ネット見てますと、実験観測結果について、数学辞典を見ると、数学世界の
公式がうまくあてはまる例が過去に多々あったようで、どうも、そういうこと
が、「数学への信頼性・依存性」を高めている要因ではないかと思うのです
が、一旦、何らかの物理数式が出来ると、その後、ともすると、その数式の
成立した条件などが忘れられて一人歩きしている感もしています(⇒ここで
触れました)し、また、大変失礼ながら、「数学世界」信奉に陥ってしまって
いるのではないかと思うのです(⇒ここで触れました)。
要するに、「数学」に全面依存していて、合理的な「数式」から導出されたも
のであるから「正しい」とされるわけで、言わば「数式信奉」に基づく、概念
による「観念物理学」化してしまっている感がするわけです。「観念」の世界
ですから、矛盾するような結果が出てきても、それを避ける「概念」を創設す
ることでつじつまわせができてしまうのです。例えば、「天体自体が高速で
宇宙の外側向きに動いているのではなく、膨張するのは空間であり天体は
その空間に張り付いて静止している。空間は天体そのものではないからそ
の膨張速度が光速を越えても相対性理論には反していない」という「概念
的説明」で逃げているのです(いんちきな風船膨張説明でごまかし、空間
自体は具体的に何かを示していないし、そこに天体が張り付いているとい
う根拠も示していないのです)。
ところで、物理学者を悩ませている問題に「発散」というのがあります。
よく耳にするのは「場の発散」問題ですが、これは「相対性理論」が影を落
しているわけで、そんな高度の物理学の話でなく、古典物理学から本質的
な物理学自体の有する一種の「病巣」と言えます。
例えば、電磁気学で電界Eは、
と表され、分母に0を含む距離rが入ってしまっています。そして、r=0では
∞になってしまうわけで、これは「観測できる自然」に反してしまうわけです。
∞というのは数学世界の概念であり、人間は直接それを感覚的にも捉える
ことはできないものですから。
しかし、常識はr≠0のところでは実験結果と合う(直接的にはクーロンの法
則の実験結果ですが)わけで、こういう数式で理論化されているのですが。
ま、古典物理学の世界では、
とせず、
としていますけどね。そして、これが概念世界の数学とは異なる、自然科学
である「物理学」の本来の姿だろうと思う訳です。
要するに、『自然科学』である『物理学』に『数学』を適用する時、『数学』にお
ける「制約条件」は当然であるが、『自然科学』であることによる「制約条件」
も考慮すべきと言いたいのです。『実在証明』もできないような「点」とか「虚
数」とかを数学的に出てきたからとしても「実在する」と思い込むのは、『物
理学』が『自然科学』であることを忘れた愚挙だと主張したいのです。
『観念』とか『概念』というものは、どんなに「科学的」に見える「言葉」を並べ
ても、「数式」を並べて「科学的」に見せようと、結局のところ、「地球の科学
者の脳内での事象」でしかないのです。真理だと言う絶対的証拠はないの
です。単に、そう思い込んでいるにすぎないのです。
神は百の合理的説明を用意するが、その全てを取らないかもしれない
('14/3)
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