数学と現実について(’18/2)
私は、還暦の頃に相対性理論に疑念を抱いて色々と調べて自分で考えた中で、2003年にこっそり開設したこの自分のHP
(「中途半端なお部屋」)の中に、浅学菲才の身でありながら、僭越にも、この「言いたい放題/現代科学へのいちゃもん」と
いう大それたコーナーを設けて言いたい放題書いてきて早や、約8年もたちましたが、その間、色々と考える中で、それ以
前は考えたこともなかったことが気になり、自分自身が好きな科学特に物理学関連での現在の在り方への批判を並べてき
ました。で、今回、そういう私の琴線に触れるような記事を最近目にしました(記事自体は2014年のものですが、最近、それ
を紹介するよく眺めている海外の物理フォーラム(GSJ Physics Forum)のarticleからリンクを辿って発見して読んだもので
す−別のサイト記事の引用がされていて、その中の孫引用からのリンクを辿ったものです。ここでは、そのサイト記事−強
烈なANTI-Einstein&Relativity記事−自体には触れません)。
その記事は、Mathematicaly & Realityという、"Philosophy Now a magazine of ideas"というサイトのものです。
副題には"Raymond Tallis on maths' unreasonable effectiveness(数学の不合理な有効性について)"とあり
ます。著者はRaimond Tallis教授と言う方で、この記事は、"Tallis in Wonderland"というシリーズの一記事のようです。
この方は、
英語版Wikipediaによれば、イギリスの哲学者、詩人、小説家、 文化批評家 、引退した医師、 臨床神経科学者
であり、2006年に引退してマンチェスタ大学の名誉教授になられている方とありました。元々はオックスフォード大学で「動
物生理学」の学位を取られた方だそうで、純粋な「哲学者」ではないようです。
「数学にあるものは全て実在する」とか「数学で宇宙は解明できる」と信じ主張している物理学者(それも権威筋に)がおられ
ます。私自身、若かりし頃はそういう傾向の輩でしたが、現在は完全に否定的になりました。それは、数学という学問は何か
ということを表面的ではありますが知り(⇒再び、「数学」≠「物理学」と主張します等で論じました)、超弦理論や宇宙物理学
とそれを理論ベースにしているビッグバン宇宙論の数学的ベースが相対性理論であることを知ったゆえ、砂上の楼閣に屋
上屋を重ねているだけではないかという思いに至ったからでした。一方で、元々物理学が好きであり、物理理論は今でも好
きな私−もう完全リタイヤしましたが、会社勤務時代は技術系ゆえ、数学的理論は仕事の糧でもあり、数学使用を全否定
しているわけでは勿論ありません。そういう私にとっては、そんなことなぜ気が付かなかったのかと思うようなこの記事の主
張は興味深いものでしたので、ここに引用紹介しておきたいと思います。
冒頭で、
The belief that mathematics is the surest path to the truth about the universe because
the latter is at bottom mathematical has been very influential in Western thought.
(数学は、後者[宇宙]が基本的に数学的であるので、宇宙についての真実への最も確実な道である言
う信仰は、西洋思想に非常に影響してきた。)
とあります。のっけから、"belief"と書かれていて、何が論ぜられているか興味が湧いてきて読みました。
そして、続けて、恥ずかしながら全然知らなかったんですが、そういう考え方は既にギリシャ時代の偉人達の言動に現れて
いたことを示すものとして、下手な和訳だけを示しますが、次のように書かれています。
それは、「すべては数」またはアリストテレスがそれを「数学原理はすべてのものの原理である」と言い
換えたように、ピタゴラスの主張にさかのぼる。それは、プラトーの、誰も幾何学の知識なしでは彼のア
カデミーに入るべきではないという主張を背景に理由付けられている。楽器上の弦の長さを二倍にす
ることが1オクターブ低い音色を生み出すような、ピタゴラスの基調となるピッチの数学的比率の発見
は、人の意識を通して長く、声高に鳴り響いてきた。ガリレオの「自然の本は数学言語で書かれている」
という主張は、彼が大変貢献した科学革命ゆえに、科学の案内的原理となってきた。巨大コンピュータ
としての宇宙の考えと全てのもの(意識的経験を含む)は、それ自身デジタルか、または損失なしでデジ
タル化できる情報であるという信仰がしかし最近のピタゴラス主義(Pythagoreanism)
の兆候である。
その上で、
同時代の物理学の二つの柱−相対性理論と量子力学−を結びつける理論の予測は、「全てのものの
理論」に対する研究として宣伝されている。もし、あなたがたが、ときを知りたいと欲するなら、あなたは
警官に尋ねる:もしあなたがたが、時間(または空間または宇宙の基本物質または意識さえ)なんであ
るかを知りたいなら、あなた方は物理学者に尋ねる。
このことは、物理学者がそれを記述しているような世界と、我々がそれを経験するような世界の間で増
大する相違ゆえに困惑させている。
と述べています。ここに、この記事における著者の主張の基本的命題が暗示されています。
無論、サブタイトルが「不合理な『有効性』」(unreasonable effectivity)とあるように、
多くの人に対して、物理学の比較できない予測と技術力は、世界についての何か、恐らくは基本的真
実を把握する−すなわち、それは単なる現実のモデルを作り出すのでなく現実事態を明らかにする−
という主張を支える議論の余地のない証拠を与えてきた。Hilary Putnamがそれを表現しているように
「科学的リアリズムは、単なる科学哲学であるが、科学の成功をミラクルにはしていない」(Philosophy
in an Age of Science, 2012)。そして、物理学の力は数学の採用に基づいているので、ある人は、それ
を現実は数学的であるというピタゴラス派の結論に対抗するのは困難であることを見てきた。
と述べています。
その上で、小見出し"Effectively Mathematical"の節の冒頭で
有名な論文、「物理科学における数学の不合理な有効性」(in Communications in Pure and Applied
Mathematics, Vol. 13, #1, 1960)において、Eugene Wignerは、いかに「物理学者のしばしばの粗製の
実験の数学公式が、不自然な数のケースにおいて、現象の大きなクラスの驚くべき精密な詳述に導
かれているか」に留意した。そして、R.W. Hammingは、意識してWignerに同意した論文「数学の不合
理な有効性」(in The American Mathematical Monthly, Vol 87, #2, 1980)において、いかにして「常に、
我々が記号の巧みな操作から予測するものが現実世界で現実化されている」かの異様さに留意した。
と述べ、続いて、有効性の実例を挙げています。
しかしながら著者は、
我々は、何人かの物理学者、形而上学者、科学哲学者に従って、数学は宇宙をモデル化する最も有
効な方法を提供するばかりでなく、それは宇宙が実際にそうであるものの最も信頼される生き写し描
画だと結論付けるべきであろうか?あるいは、ずっとラディカルにさえ、プラトンの、数学的対象(−1
の平方根のような非現実的項目さえ)現実のものという主張を受け入れられるか?また、よりによって
最も過激に、非常に強力なピタゴラスイズムを強調して、「すべては数である」と結論付けるか?
問うています。三番目の「すべては数である」については、
Max Tegmarkによって、最近の本、"Our Mathematical Universe: My Quest for the Ultimate
Nature of Reality(2014)(我々の数学的宇宙:リアリティの究極の自然に対する私の探求)により広
げられた見解である。
とし、Max Tegmarkの主張を、
彼が、彼の「数学的宇宙仮説」とか「数学的一元論」と称するものは、何物も数学的物体以外の存在
であることを否定している:慣習的経験さえも、「自己意識」の数学的土台からなっている
と述べ、
この見解に従えば、数学は単なるリアリティへの手引きでなく、それがリアリティである
となるとしています。この記事は同じ2014年のものですから、恐らく著者Raimond Tallis教授は、このMax Tegmarkの主張への反
論として書かれたものと思われます。Max Tegmarkの主張を"Pythagoreanism"とし、批判されています。
次の、"Get Stuff"という小見出しの節の冒頭で、
この過度の数学的リアリズムのもつ間違いを簡単に見る方法は、数学的物理学の実際の例を試して
みることである。
と書かれ、
世界の全ての数学的計算の最も有名なもの:E=mc^2を考えてみよう。いくつかの法則を持つように、
それは、方程式の文脈で量以外の他の性質を持たない可変の値(エネルギー、質量)間の数学的関
係を述べている。(ずっと一般的に、そして技術的に、物理学法則は量的パラメータの共分散に関す
るものである。)アインスタインの方程式におけるエネルギーは、暖かくもなく明るくもなくノイジーで
もなく、その質量は重くもなく、粘着質でもなく、障害物でもない。物理学法則の世界−量の予測を可
能にする−は、質なしの量の世界である。
という指摘をされています。そして、
これは、偶然的な見落としではない。科学革命をキックスタートさせたGalileoは、色、味、音、匂いは、
その本が数学で書かれた物質世界にはどんな場所も有していなかった。我々が経験している質は、
意識がなせることによって導入された。対照的に、物理的現実は、残余なしでの数学的項目で表現
できてきた寸法、形、位置、運動のような「一次的性質」からなってきた。それで、数学的な物理学の
宇宙は、今(John Locke後の)通常、少しばかり軽蔑的な用語によって「二次的性質」と称せられてい
るものを欠いている。これらは数学的であることに反抗している。
と述べています。要するに、まとめてみると、著者は、
現実(reality)は「量」(「一次的性質」としています)+「質」(「二次的性質」としています)
からなるが、現在の数学物理学は「量」しか示しておらず(それは精密に出されている
が)「質」については、全く説明できていない
として、Pythagoreanism派の主張の欠陥を指摘されているわけです。
先に示したWignerのその線に沿っての言葉、
the laws of nature are all conditional statements and they relate only to a very small
part of our knowledge of the world… [they give] no information on the existence, the
present positions, or velocities of these bodies.
(自然の法則は全て条件的論述であり、それらは我々の世界の知識のごく小さい部分のみに関係して
いる・・・[それらは]これらの物体の存在、現在位置または速度に関する何らの情報も与えない)
を引用されています。
著者は、これを「こと(stuff)」の欠如とされていますが、「存在論的構造リアリズム」(OCR)と称しているものを守っている哲学者のJ
ames Ladymanのような著者らは、それを「よし」としていて、
リアリティは抽象的構造であり、実際、世界の数学構造は最も事実上現実であるものである。
という主張をしているそうですけど、著者はそれを批判して、
我々残りの[その他に]にとって、特定の内容のない抽象的構造はただ不毛であるだけではない:それは
不可能である。
と書かれています。私もこの意見に賛同します。大変失礼ながら、OCR派の主張というのは、私が批判している脳内思考だけの
「観念的物理学」そのものの考え方−だから私には純粋な西洋的哲学はなじまないのですが−だと思います。
更に著者は、
数学は、時制と我々の生活における時間を重要にする他の全てのものを欠いている。それは、観点
(viewpoint>−観察とこれによる物理学自身の必須な条件−と観点(今とここ、そして、と「現在」の項目
の特権的現実 の感知)から従う全てのものと経験自体が含まれる世界のモデルである。それは、「物
理学は、我々が世界についてそれほど知らなくてほんの少しを知っているゆえに数学的である:それ
は我々が発見できているその数学的性質のものである(An Outline of Philosophy, 1927)」という
Bertrand Russellの見解を誘発したのはこれである。
と述べられています。
但し、著者は、前述のように、「量」という面での有効性は、工学的応用が現実的になされていることから認めていて、最後に、
The challenge of metaphysics must be to see how these different kinds of truths relate.
This does not mean either on the one hand siding with the deliverances of immediate
experience against those of mathematical physics, or on the other hand dismissing
immediate experience as unreal. It does mean, however, that we should re-examine the
greatest mystery: that the world makes (growing) sense to us. Meanwhile, we reserve
our judgement as to the relationship between mathematics and reality.
Both the Pythagoreans and the anti-Pythagoreans have a lot of explaining to do.
(形而上学の挑戦は、どのようにしてこれらの異なる種類の真実を関係づけるかを見ることで間違いない。
これは、一方で、数学物理学のそれらに対する直接的経験の信頼性に組するか、他方で直接的経験を
現実でないと誤判断するかのいずれかを意味していない。しかしながら、それは、我々が最大の神秘
を再検証すべきであること:世界を我々に(成長していく)意味あるもにすることを意味している。その間、
我々は、我々の数学と現実との間の関係の我々の判断を保留する。ピタゴラス派と反ピタゴラス派はす
べき多くの説明を有している。)
で締めくくっています。非常に考えさせる問題提起だと思いました。
ちなみに、その言が引用されていましたけど、私がその科学遂行における基本的な考え方が、私が批判的に書いてきたEinstein
と同じに見える(⇒私論・Einsteinの科学哲学批判等で論じました)、有名なノーベル賞受賞物理学者Feynmanもその最終講義にお
いて、どうするのかには触れてはいないようですが、
The next great awakening of human intellect may well produce a method of understanding
the qualitative content of equations… Today we cannot see whether Schrödinger's
equation contains frogs, musical composers, or morality - or whether it does not.
(人間の興味の次の大きな目覚めは、方程式の質的内容を理解する方法をうまく生み出すことであろう…
今日、我々は Schrödinger方程式が飾りボタン、音楽の作曲家ないしは道徳を含んでいるかどうか−また
はそれは含んでいないかどうかを見ることはできない。)
と述べたそうです。
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このRaymond Tallis名誉教授の記事は、公正的なものと思われますが、その上で、私は素人ゆえの素朴な意見として、物理学理論
における数学の「有益性」は認めているものの、あくまで<「物理学理論における『数学』「は本質的なものではなく表現するため<の
『ツール』である」という考え方に固執しています。そして、物理学の空間・時間は"conventions"という記事をアップして以来、再三、
「現実世界(real world)と物理学世界は別物である」という主張もしてきています。
更に、この記事では触れられていませんが、「数学が使われてても正しいかどうかは不明」なmain stream理論も現にあるわけです。
すなわち、『量的予測』による証明さえなされていないものが多いのです。例えば、相対性理論を使って「量的予測」により製造され
た応用機器など未だに皆無です(GPSは開発リーダが全く使っていないと怒りの表明をしています)。ビッグバン宇宙論なんて、予測
が当たった試しがありません。そもそも、証拠としている「宇宙背景輻射」さえ、この理論の提唱者のガモフが最初に示した値はなん
と大外れの28kだったそうです(⇒ビッグバン宇宙論懐疑派のざれごとというサイト参照/ガモフの1947年の論文の数値、1956年の論
文でもまだ大外れの6Kとされているそうです)。
私はそういう状況でありながら、「数学は単なるリアリティへの手引きでなく、それがリ
アリティである」などというPythagoreanism派の思考ってどうなっているのかと思います。大変失礼ながら「頭でっかち」の思想としか
私には思えません。
('18/2)
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