ファラデー vs マックスウェル(2)(’17/10)

Faradayという方は、電磁気関連のみならず科学の様々な分野で画期的実験発見をされ、深い
洞察力から新規の様々な概念を生み出された、19世紀を代表するような偉大な実験物理学者
でしたが、彼に最初に影響を与えたのは、前項(1)で言及した1892年の王立協会(Royal Institute)
の市民講座で後に彼がその実験助手・秘書になったSir Humphry Davyという方の「放射物質
(radiant matter)」の講義を聴講したことだろうと思われます。で、前項では1819年に今度は市
民講座において「講師」として「物質の形について」という表題の講義をしたことに触れましたが、
その時の彼の言葉が前述のここのサイト記事の"Part I: Sneaking Up On Einstein Section 4:
Faraday Versus Maxwell"の中で引用されていました。

  There are so many theoretical points connected with the states of
 matter that I might involve you in the discussions of philosophers
 through many lectures without doing justice to them. In the search
 after the cause of the changes of state of bodies, some have found
 it in one place, some in another; and nothing can be more opposite
 than the conclusions they come to. The old philosophers, and with
 them many of the highest of the modern, thought it to be occasioned
 by a change either in the motion of the particles or in their attractive
 power; whilst others account for it by the introduction of another
 kind of matter, called heat, or caloric, which dissolves all that we see
 changed. The one set assume a change in the state of the matter
 already existing, the other create a new kind for the same end.
  The nature of heat, electricity, &c., are unsettled points relating
 to the same subject. Some boldly assert them to be matter; others,
 more cautious, and not willing to admit the existence of matter
 without that evidence of the senses which applies to it, rank them
 as qualities. It is almost necessary that, in a lecture on matter and
 its states, I should give you my own opinion on this point, and it
 inclines to the immaterial of these agencies. One thing, however,
 is fortunate, which is, that whatever our opinions, theydo not
 alter nor derange the laws of nature. We may think of heat as a
 property, or as matter: it will still be of the utmost benefit and
 importance to us. We may differ with respect to the way in which
 it acts: it will still act effectually, and for our good; and, after all,
 our differences are merely squabbles about words, since nature,
 our object, is one and the same.


  (物質の状態に関連する多くの理論的ポイントがあるので、私はあなた方を、
 多くの講義を通して、それらに判決を下すことなく、哲学者の議論の巻き添え
 にしよう。物体の状態の変化の原因後の研究において、ある人はそれを一つ
 の場所に見つけ、他の人は別の場所に見つけた;そして、彼らが到着した結
 論以上の反対の物はなにもなかった。古い哲学者と彼らとともにいる多くの
 近代の知識人はそれを粒子の運動か引力のいずれかの変化により生じると
 考えた。一方、他の人達は、それを、我々が変化したと見る全てを解明する
 熱または熱素と称せらた他の種の物質の導入により説明している。ある人は、
 既に存在している物質の変化を仮定し、ほかの人はその同じ結果に対して
 新しい種類のものを創設する。
  熱や電気などの性質は同じ主題に関する未定のポイントである。ある人は
 大胆にそれらを物質であると断言し、他の人はずっと注意深くて、それに適
 用する意義の証拠なしでは物質の存在を受け入れるのを望まず、それらを
 質に分類している。物質とその状態についての講義において、私はあなたが
 たにこれらの点についての私自身の意見を示すことが必要であり、それは、
 これらの働きの非物質性に傾いている。しかしながら、一つのことは、我々の
 意見に関する限り、それらは自然の法則を変化または狂わせるものではない
 未来である。我々は熱を性質または物体として考えるかもしれない:それは
 まだ、我々にとってほとんど便宜的で重要なもののことであろう。我々はそ
 の作用の方法に関して異なっているかもしれない。それはまだ、有効に作用
 しているだろうし、われわれにとってgoodになるだろう;そして、結局、我々に
 おける差は我々の目的の自然は一つで同じゆえに、単なる言葉についての
 言い争いである
)

どうですか?最後の、"after all, our differences are merely squabbles about words,
since nature, our object, is one and the same.
"は実に含蓄がある達観だと私は思ってい
ます。
向学心がありながら高等教育を受けられず全て独学で学ばれ、変にしがらみがない分、優れた
自分での実験から、まさに、前に寺田寅彦さんのことで引用した寺田寅彦さんの言葉(寺田寅彦
さんは旧制高校・東大物理学科主席卒業ですが)

 人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、
 そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学
 者にはなれるのである。


を実践した「ほんとうの科学者」だったと思います。そして、これは、私が再三主張してきた

 現実世界(real world)と物理学世界は別物である(◆1)

とこれに従う

 『物理学』は、現実世界の現象の観察結果を、慣習的(convention)な科学知見
 をベースにして解釈を図っている「数学的理論」である。
(◆2)

という主張に繋がるものだと思いました。私は(◆1)、(◆2)から、科学理論というのは結局は全て
「仮説(hypothesis)」であるという考え方になっています。それぞれの差は、単に「より現実世界の
現象を予測し、その予測がうまく「真に」観測と一致しているかどうかであり、未来永劫「正しい」
というようなよく科学者が宣うような断定はできないと思っています。所詮は「主観的」なものでし
かないのです。

話がまたずれてしまいましたが、前述のFaradayの言葉の中にもう一つ留意すべきものがありま
す。それは、"I should give you my own opinion on this point, and it  inclines to the
immaterial of these agencies.
"という箇所です。
国内サイトに、物理学が全て「西欧的唯物論」から発している点を批判しているところがありまし
たが、実は私もそういう観点に傾いています。で、このFaradayの言は、そういう慣習的な唯物的
とは一線を画しているものと私には思えました。で、「ニュートン力学」的「力」というのは慣習的な
西欧的唯物的思考のものだと思われ、だからこそ慣習に従ったMaxwellと立場を異にしていたの
だろうと思われます。

そんなわけで余計にFaradayがどのように考えたかをもっと知りたくなりました。いくつか関連記
事が海外サイトにありましたので、あまり著者のバイアスがかかっていない事実的なものをいく
つか示しておきたいと思います。

力線(lines of force)、場(field)

本節は、海外サイトにありましたPDF論文"The Filed Concept of Faraday and Maxwell"(A.K.T.
Assis[University of Campinas] and J.E.A.Ribeiro & A.Vannucci[State Universicty of San Paulo]
著)の中で抜粋引用されていたFaradayの著の分を孫引用しています。

場(Field)」というのは最初にFaradayが示した概念であると聞いていましたが、いつ頃、どうい
う形でそれを示したかは不案内でした。一方、Maxwellについて調べるようになって、「力線
(lines of force)
」という語彙はFaradayが最初に使ったらしいことを先に知りました。
今回、その辺について詳細を知りましたので引用紹介しておきたいと思います。

まず、「力線」については、最初に電磁誘導発見の1831年の論文で次のように言及しています。

 By magnetic curves, I mean the lines of magnetic forces, however
 modified by the juxtaposition of poles, which would be depicted
 by iron fillings; or those to which a very small magnetic needle
 would form a tangent.

  (私は磁気曲線[という語彙]により、磁力線、但し鉄くずにより描かれた極が
  並んだものまたは非常に小さな磁針がそれに対して正接を作るものによって
  修正されたもののことを意味している。
)

そして、1845年には次のように述べています。

 But before I proceed to them, I will define the meaning I connect
 with certain terms which I shall have occasion to use: thus , by
 lines of magnetic force, or magnetic line of force, or magnetic
 curve, I mean that exercise of magnetic force which is exerted
 in the lines usually called magnetic curves, and which equally
 exist as passing from or to magnetic poles, of forming concentric
 circles round an electric current. By line of electric force, I mean
 the force exerted in the lines joining two bodies, acting on each
 other according to the principles of static electric induction(1161,
 &c.), which may also be either in curved or straight lines.

  (しかし、私がそれらに進む前に、私は使う場合があるある言葉と結びつく
  意味を定義するつもりである;このように、磁力線、力の磁気線、磁気曲線
  により、私は通常は磁気曲線と称せられている線に働き、電流周りの同心
  円を形成している磁極から・磁極に対して等価的に存在する磁力の運動を
  意味している。電気力線によって、私はまた、曲線または直線のいずれか
  である静電誘導の原理に応じて互いに働いている、二つの物体を繋いだ
  線において働く力を意味している。
)

Faradayは更に1853年には次のように書いています。

 A line of magnetic force may be defined as that line which is
 described by a very small magnetic needle, when it is so moved
 in either direction correspondent to its length, that the needle
 is constantly a tangent to the line of motion; or it is that line
 along which, if a transverse wire be moved in either direction,
 there is no tendency to the formation of any current in the wire,
 whilst if moved in any other direction there is such a tendency;
 or it is that line which coincides with the direction of the
 magnecrystallic axis of a crystal of bismuth, which is carried in
 either direction along it. The direction of these lines about and
 amongst magnets and electric currents, is easily represented
 uand nderstood, in a general manner, by the ordinary use iron
 fillings.

 (磁力線は、それがその長さに相当するいずれかの方向に動くと針が常に
 運動線の接線となる非常に小さな磁針によって定義してよい;あるいは、
 もし横切る電線がいずれかの方法に動くならば、電線内に任意の電流を
 形作る傾向になくて、一方、任意の他の方向[に動くなら]その傾向がある
 ものに沿う線である;あるいはそれに沿ういずれかの方向に運ばれるビ
 スマスの結晶の磁気結晶軸の方向に一致する線[である]。磁石と電流周
 り及びその間のこれらの線の方向は、普通に鉄クズにより一般的な形で
 簡単に表示され理解される。
)

一方、Faradayが初めて"Field"という語彙を使ったのは、1845年11月7日の彼の日誌の中での
ことだったそうで、その年、Royal Societyに示し、1846年発行の論文で次のように書き、その語
彙を使い始めたようです。

 Another magnet which I have had made has the horseshoe form.
 […] the poles are, of course, 6 inches apart, the ends are planed
 true, and against these move two short bars of soft iron […]
 The ends of these bars form the opposite poles of contrary name;
 the magnetic field between them can be made of greater or smaller
 extent and the intensity of the lines of magnetic force be
 proportionately varied.

 (私が作って持っているもう一つの磁石は馬蹄形を有している。(中略)もちろん、
 その極は6インチ離れ、その端は真にかんな仕上げされていて、これらに対し
 て二つの軟鉄の短い棒を動かす(中略)。これらの棒の端部は反対の名前の反
 対極を形成している;それらの間の磁場はより拡大、縮小でき、磁力線の強さ
 は比例して変化する。
)

ここでは、磁場を二つの磁化棒の間の領域に関連つけているようです。
この論文(PDF)では、「彼が磁場によって理解していたものの明らかな定義は、1850年にRoyal
Societyで読まれ、1851年に出版された論文の中にのみ現れている」として下記が抜粋引用され
ています。

 I will now endeavor to consider what the influence is which
 paramagnetic and diamagnetic bodies, viewed as conductors(2797),
 exert upon the lines of force in a magnetic field. Any portion of
 space traversed by lines of magnetic power, may be taken as
 such a field
, and there is probably no space without them.
 The condition of the field may vary in intensity of power, from
 place to place, either along the lines of across them; but it
 will be better to assume for the present consideration a field
 of equal force throughout, and I have formerly described how
 this may, for a certain limited space, be produced (2465). In
 such a field the power does not vary either along or across
 the lines, but the distinction of direction is as great and
 important as ever, and has been already marked and expressed
 by the term axial and equatorial, according as it is either
 parallel or transverse to the magnetic axis.

 (私は今、どんな影響が、導体として眺めた(2797)常磁性体と反磁性体が
 磁場の中で磁力線に及ぼすものかについて考えようと努めている。
 磁力線によって横切られる空間の任意の位置が場のようなものととられ
 てよく、恐らくそれらの間には余白はない。
 場の状態は、場所から場所に、それらを横切る線[群]に沿って力の強度
 が変化するかもしれない;しかしながら、至る所で等価な力の場[という]
 目下の考えを仮定する方がずっとよく、私はこれがどのようにしてある限
 られた空間に対して生ずるかを公的に述べてきた。このような場において
 力は力線に沿っても横切っても変化しないが、方向の区別は相変わらず
 重要であり、既に、それが磁気軸に対して平行か横切っているかに従っ
 て、軸方向と赤道方向という語彙で示し表示してきた。
)

この文から見ますと、確かにこの論文の著者が解説しているように、

 Faradayにとって、磁場(magnetic field)は「磁力線が通っている空間の
 任意の位置」と捉えられていた


ようですね。論文の著者はこの後に「興味深いこと」としてFaradayの言を引用し解釈しています
がそれについては後述します。尚、この論文によれば、Faradayは「電場」に関しては何も述べ
ていないようですが、この論文の著者はFaradayが電気力線にも言及していたことから、「恐らく、
それを理解していただろう」と述べています。

ちなみに、この論文ではMaxwellがどのように定義したかについて触れられています。
1864年(この年、先にRoyal Societyで発表)の論文では、抜粋しますと

 (3)The theory I propose may therefore be called a theory of the
 Electromagnetic Field, because it has to do with the space
 in the neighborhood of electric and magnetic bodies,[...]
 (4)The electromagnetic field is that part of space which contains
 and surrounds bodies in electric or magnetic conditions.

 ((3)私が提示した理論は、それゆえ、電磁場の理論と呼んでよい、なぜなら、
 それは荷電物体と磁化物体の近傍の空間を扱わざるを得ないからであり、
 (中略)
 (4)電磁場は、荷電状態と磁化状態にある物体を含み囲んでいる空間の部分
 である。
)

と述べています。"Electric field"という語彙は、Maxwellが1873年の論文の中で述べている

 The electric field is the portion of space in the neighborhood of
 electrified bodies, considered with reference to electric phenomena.

 (電場は電気現象を参照して考慮された電気物体の  近傍の空間位置である)

というのが最初に明確に定義されたもののようです。更にMaxwellは、この1873年論文の中で、

 It appears therefore that in the space surrounding a wire transmitting
 an electric current a magnet is acted on by forces dependent on the
 position of the wire and on the strength of the current. The space
 is which theses forces act may therefore be considered as a magnetic
 field, and we may study it in the same way as we have already studied
 the field in the neighborhood of ordinary magnets, by tracing the
 course of the lines of magnetic force, and measuring the intensity of
 the force at every point.

 (それゆえ、電流を流している電線周りの空間において、1個の磁石が電線の
 位置と電流の強さに依存していることは明白である。これらの力がそこで働い
 ている空間は、それゆえ、磁場と考えてよく、我々はそれを既に、磁力線の
 コースを辿り、全ての点の力の強さを測ることにより、普通の磁石の近傍の場
 を学んできたのと同様に学んでよい。
)

と述べています。

我々は先に、既に前項(1)で言及しましたように、"Force(力)"の概念がFaradayとMaxwellでは
決定的に異なることを知りましたので、それを踏まえて考察しますと、"Field(場)"に対する二人
の定義には差があることを伺いしることができると思います。私はずっと思い違いしていたので
すが、決してFaradayは「近接作用説」をもとに「場」という概念を考えたのではなく、それは、
Maxwellとその師であるW.Thomson(ケルビン卿)による解釈であったということです。
そして、まだ、紹介していませんでしたが、この論文では二人のある言葉を元に、二人が共通に
考えた場の発生の根源を推察していますけれども、私はその結論には、他で引用されている
Faradayの言葉を考慮すると同意できません。これについてはおいおい示します。

('17/10)
((2)に続く)

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