ファラデー vs マックスウェル(3)/(改定)(’17/10)
続きです。
電気緊張状態(Electrotonic-state)
Maxwellは1855年の最初の論文で、自分の提起する現在の語彙では「ベクトルポテンシャル」
と称されるもの−Maxwellは「電磁運動量(Electromagnetic Momentum)」と呼称していまし
た−はFaradayの示した「電気緊張状態(Electrotonic-state)」と同じものであると書いてい
ますが、私はそれを鵜呑みにしないで、本当なのかどうかについて調べてみました。
Faradayはこれについて初期に、
a state of tension, or a state of vibration, or perhaps some other state
analogous to the electric current, to which the magnetic forces are so
intimately related
(それに対して磁力が直接関連する緊張状態あるいは振動状態あるいは恐らく、
電流に類似した何か他の状態
)
と書いているそうです。論文を見ていなのですが、海外ネットにThe contributions of Faraday
and Maxwell to Electrical Scienceという本の紹介抜粋がありましたので、以降はその内容に
よるものです。
どうやらFaradayは、その近辺で磁石が動くと導体内に電流が誘起することから「直感」で
「導体内が一種の『緊張状態』になっている」と考えて"Electro-tonic state"という呼称を与
え、それを証明しようと様々な実験を行ったのですが、彼が"Electro-tonic state"にあると考
えたものとそうでないものとの間の相違を発見できず、結局、その自分の直感に疑いを持っ
たようで、後の論文で触れています。
The law under which the induced electric current excited in bodies
moving relative to magnets, is made dependent on the intersection
of the magnetic curve by the metal being thus rendered more precise
and definite, seems now even to apply to the cause in the first
section of the former paper; and by rendering a perfect reason for
the effects produced, take away any for supposing that peculiar
condition, which I ventured to call the electro-tonic state.
(そのもとで誘導電流が磁石に相対的に動いている物体に励起するという法則が
このようにずっと精密で明確に与えられている金属により磁気曲線の交差に依存
して作られているということは、今や前の論文の最初の章における原因に適用さ
えされるように見える;そして、生じた結果に対する完全な理由を与えることは、
私が大胆にも電気−緊張状態と呼称したその特定の状況を仮定することを取り除
いている。)
しかしながら、Faradayはこのように書いてはいましたが、この彼の物質の"Electro-tonic state"
の概念は彼の心から完全に消えたわけではなく、その後、力線のアイデアを質的に発展させた
とき復活したようで、そのアイデアをMaxwellは、今でいう「ベクトルポテンシャル」と同じものと考
え、数学的解釈を与えたのでした。
そもそも、Faradayは、回路の近傍での磁石の運動や近傍の回路における電流の動きまたは変
化が過度電流を生じることと、その運動または変化は、逆方向に起きる同じ過度電流を戻さな
いことを発見したことから、「誘導電流は、電流が生ずる回路を構成している物質の極性の変化
の特質にある」と考えたのでした。彼はこの極性をその表面に存在する電荷ではなく、物質の粒
子の状態とみなしたのでした、それは一つには、その状態が吸引・反発を示さなかったことと、
誘導電流を生じた彼の実験においては、表面電荷を進展させない完結回路を用いたゆえでした。
彼は次のように書いていました:
In the electro-tonic state the homogeneous particles of matter
appear to have assumed a regular but forced electrical arrangement
in the direction of the current, which if the matter be
undecomposable, produces, when relieved, a return current.
(電気-緊張状態において、均質な物体の粒子は、均一であるが、もし物体が
分解されないなら、解放されたとき、戻りの電流を生ずる強制的電気配置を
仮定しているように見える)
彼は、物質の"Electro-tonic state"という仮説から二つの予測をしました。
この本では、ともにその後に正しいことが証明され、一つは自分自身で正しいことを確かめている
そうです。
第一の予測は、「もし一つの回路の電流が他の回路の物質に特別の状態を生ずるなら、第一
の回路の電流に反動があるだろう」というものでしたが、このことをFaradayは自身では検証できま
せんでした。次のように述べています:
The tension of this state may therefore be comparatively very
great. But whether great or small, it is hardly conceivable that
it should exist without exerting a reaction upon the original
inducing current and producing equilibrium of some kind. It
might be anticipated that this would give rise to a retardation
of the original current; but I have not been able to ascertain
that this is the case. Neither have I in any other way as yet
been able to distinguish effects attributable to such reaction.
(この状態の緊張は、それゆえ、比較的かなり大きい。しかし、大きいか
小さいかに係らず、電流を誘導し、ある種の等価性を生ずる源への反
動を及ぼさないで存在するということは考えにくい。これが元の電流の
阻害を生ずるということが予測されるかもしれない;しかし、私は、これ
がその場合であるとは確認できなかった。私はとにかくまだ、このような
反動に帰す効果をどちらとも区別できなかった。)
確かにFaradayは自身の実験ではうまくいきませんでしたが、この本の解説をそのまま示します
と、「我々は、このように一緒に結合された回路に親しんでいる」と書かれていて、後に証明され
たと言うわけです。
第二の予測は、「誘導電流自身が流れる回路の物質が、電気−緊張状態に投げ入れられられ
るだろう」というものでした。次のように述べています:
The current of electricity which induces the electro-tonic state
in a neighboring wire, probably induces the state also in its own
wire; for when by a current in one wire a collateral wire is made
electro-tonic, the latter state is not rendered in any away
incompatible or interfering with a current of electricity passing
through it. If, therefore, the current were sent through the
second wire instead of the first, it does not seem probable that
its inducing action upon the second would be less, but on the
contrary, more, because the distance between the agent and
the matter acted upon would be very greatly diminished.
(近傍の電線の中に電気−緊張状態を誘起する電流は、恐らく、その電
線自身にもその状態を誘起する;なぜなら、一つの電線の電流により平
行な電線が電気−緊張となるとき、残りの[電線の]状態は、とにかく、そ
れを通る電流と両立なしでは与えられないかまたは干渉する。それゆえ、
もし、電流が第一のものの代わりに第二の電線に送られるなら、その第
二の[電線に]誘導は小さくなるが、逆に、介在物と物質の距離が非常に
小さくなるので、大きくなるということはありそうには見えない。)
この自己誘導については初期の実験では失敗しましたが、3年後に成功しています。
このとき、予測がすぐに自身で実験検証できなかったゆえに大胆にも直感的に想定した"electro-
tonic state"には疑いを抱く(否定的な)ことを書いていたわけです。
要するに、Faradayは自ら実験研究の中で発見した電磁誘導の法則の説明として"electro-tonic
state"という発想を導入して論文化していたのですが、その後の論文では、それを自ら検証で
きなかったためにその発想自体に疑問を抱いたことを述べていたようです。
そして、この本の著者によれば、その後、Faradayは、メカニズムに関して別の考え方をしたようで
"Experimental Researches in Electricity"の第二シリーズにおいては、この本の著者によれば、
「電流変化は、磁力線を動かすことで生じる」としているとしています。
本の著者が書いているように、これも勿論、"electro-tonic state"と同様に、直接観察できない
仮定ではありますが。これについてFaradayは次のように書いています:
…The inducing wire and that under induction were arranged at
a fixed distance from each other, and then an electric current
sent through the former. In such cases the magnetic curves
themselves must be considered as moving( if I may use the
expression) across the wire under induction, from the moment
at which they begin to be developed until the magnetic force
of the current is at its utmost; expanding as it were from the
wire outwards, and consequently being in the same relation
to the fixed wire under induction as if it had moved in the
opposite direction across them, or towards the wire carrying
the current.
([電流が]誘起している電線、誘下で、互いに固定された離れた距離で
整列されている、そのとき、電流が前者に送られる。このような場合、
磁気曲線はそれ自身、誘導下にある電線を横切って、それが発達し始
めた瞬間からからその電流の磁力が最大になるまで−いわば、電線か
ら外部に広がり、あたかもそれらを横切って反対方向に、あるいは電流
を運ぶ電線に対抗する方向に、誘導下で固定された電線に対して連続
して同じ関係になっている−(もし、私がその言い回しを使うなら)動いて
いると考えなければならない)
そして、
…If a terminated wire move so as to cut a magnetic curve,
a power is called into action which tends to urge an electric
current through it; but this current cannot be brought into
existence unless provision is made at the ends of the wire
for its discharge and renewal.
…If a second wire move with a different velocity or in some
other direction, then variations in the force exerted take
place; and if connected at their extremities, an electric
current passes through them.
(もし、端末処理された電線が磁気曲線を切るように動くなら、力がそ
れを通して電流を加速させる傾向にある働きをする;しかし、この電
流は、電線の端で、その放電と再開の供給がなされないなら、存在が
齎されることはできない。
もし、第二の電線が異なる速度またはある方向に動くなら、そのとき、
働く力における変化が起きる;そして、もしその端で接続されている
なさ、それらを通って電流が流れる。)
う〜ん、これからは私はこの本の著者が書いているように、前述の「この彼の物質の"Electro-
tonic state"の概念は彼の心から完全に消えたわけではなく、その後、力線のアイデアを質的に
発展させたとき復活した」というのは確証できませんでした(私の理解力が足らないだけかもしれ
ませんが、直接言及されていたわけではないみたいです)。
いずれにしろ、とにかく"electro-tonic state"というのはFaradayが当初に考え、後に彼自身で
それからの予測を実証できなかったために、自ら疑問を抱いたことを論文で示していたわけで、
この本の著者も、「Faradayの物質の特殊な『電気-緊張状態(electro-tonic state)』は上記のよ
うに「ただしくない(incorrect)」と述べられた」と書いています。ただ、この本の著者は「しかしなが
ら」として、「このことは、ただ、我々がこのような物質のある特殊な電気-緊張状態を理解してい
ないだけということを意味しているにすぎない」とし、その現象はFaradayの第二仮説、すなわち、
磁束の干渉により完全に解釈されている」と指摘しているのですが・・・
そしてMaxwellを持ち出してきています。前述のように、Maxwellは自身の理論の現在ではベクトル
ポテンシャルAと称せられているもの(以前言及していますが、Maxwell自身は「電磁運動量
(electromagneticmomentum)」と称していて、その真相は調べていませんが、「ベクトルポテンシャ
ル」というのはかのノイマンが命名したものという説明を目にしています)はFaradayの「電気緊張
状態(electrotonic state)」に相当すると述べていた唯一の人(?)のようです。
で、Maxwellは、electro-tonic state"について次のように述べていました:
The whole history of this idea in the mind of Faraday, as
shown in his published Researches, is well worthy of study.
By a course of experiments, guided by intense application
of thought, but without the aid of mathematical calculations,
he was led to recognize the existence of something which
we now know to be a mathematical quantity, and which may
even be called the fundamental quality in the theory of
electromagnetism. But as he was led up to this conception
by a purely experimental path, he ascribed to it a physical
existence, and supposed it to be a peculiar condition of
matter, though he was ready to abandon this theory as
soon as he could explain the phenomena by any more
familiar forms of thought.
Other investigators were long afterwards led up to the
same idea by purely mathematical path but, so far as I
know, none of them recognized, in the refined mathematical
idea of the potential of two circuits, Faraday's bold
hypothesis of an electro-tonic state. Those, therefore,
who have approached this subject in the way pointed out
by those eminent investigators who first reduced its laws
to a mathematical form, have sometimes found it difficult
to appreciate the scientific accuracy of the statements
of the laws which Faraday, in the first two series of his
Researches, has given with such wonderful completeness.
The scientific value of Faraday’s conception of an electro-
tonic state consists in its directing the mind to lay hold
of certain quantity, on the changes of which the actual
phenomena depend. Without a much greater degree of
development than Faraday gave it, this conception does
not easily lend itself to the explanation of the phenomena.
(Faradayの、彼の出版した研究の中で示されているように、心の中
でのこのアイデアの全歴史は、研究する価値がよくある。強い思考
の適用によって導かれたが、数学的計算の補助なしでの実験の進行
により、彼は、我々が数学的量として今知っていて電磁気学理論の
基本的な量とさえ称せられている何かの存在の理解に導かれた。
しかしながら、彼は純粋に実験的な道により、この概念に導かれた
ので、彼はいくつかの他の精通している思考の形によってこの現象
を説明できるや否やこの理論を既に捨てているけれども、彼はそれ
に対して物理的存在のものとみなし、それを特定の物質の状態と仮
定していた。
他の研究者は後から純粋な数学的手法によるあるアイデアに導か
れているが、私が知る限り、彼らの誰も、二つの回路のポテンシャル
の洗練された数学的アイデアにおいて、Faradayの大胆な電気-緊張
状態の仮説を理解していなかった。それゆえ、最初にその法則を数
学的形式に還元したそれらの著名な研究者によって指摘された様式
でこの課題にアプローチした人たちは、時にFaradayが彼の最初の
二つのResearchesの中でこのような素敵な完全性で与えた法則の科
学的厳密性を適用することの困難性を発見していた。
Faradayの電気-緊張状態の概念の科学的価値は、実際の現象が
その変化に依存しているある量を把握することに心を向けることにあ
る。Faradayが与えた以上の大きさの発展なしではこの概念はそれ自
身、現象の説明には容易には加えはしない。)
これって、含蓄がある言葉ですよね。ま、Maxwellとしては自分は理解できたのだという自負心
からの言葉だったのかもしれませんが、晩年(といっても40代の若さで亡くなってしまいました
けれども既にそのころは権威学者の一人になっていました)の彼は友人がイラついてしまう程、
謙虚な方だったそうですからよくある自尊心から出た言葉ではないだろうと思っています。
ただ、この本の著者は、「Faradayのelectro-tonic stateに関して話をするとき、ベクトルポテン
シャルというのをそれに当てはめるだろうが、electro-tonic stateに関連付けられるのは、導体
がその中に置かれた磁場以外は何もないので、その用語を復活させることにはほとんどメリット
はないように見える。実際、electro-tonic stateは磁気誘導場におかれていることを意味してい
る。もし我々が望むなら、これは特殊な物質の状態と指定できるだろうが、しかし、Faradayは
元々は明らかに、その用語によってこれ以上のことを伝えていた」と書いています。
私が参照した資料数が不十分なためこれ以上は史実を見出せませんでしたので、私の中での
暫定的結論としては繰り返しますが、
@Faradayは電流が誘導する実験結果から、当初、直感的に、導体物質内に電気-
緊張状態(electro-tonic state)を想定してその現象の解釈を示した。
Aそれにより二つの予測をし、実験をしたが当初ともに実証でず、自分が想定した、
この"electro-tonic state"に疑問を呈した(否定的な結論を後の論文で示した)
Bそして、Faradayは別の解釈を思いついたため、少なくとも予測の一つ「自己誘導」
については3年後に実験で検証できたものの、この"eletro-tonic state"という概念
についての直接的言及はそれで一旦は終わりとなった。
であったのを、Maxwellが「導体内物質」ではなく周囲空間にそれを考えて理論を構築したという
ことだろうということです。すなわち、MaxwellはFaradayの直接言及したことではなく、そのアイデ
アの根源的なものを斟酌して、「同じものである」と述べたのだろうと思われます(私はFaraday
の上の記述の中の"expanding as it were from the wire outwards"くらいしかその接点が見いだ
せませんでしたが)。
エーテル(Aether/ether)について
(この記事は、 Faraday and the Etherからの抜粋引用です)
既に本コーナーで示してきましたが、Maxwellは当時主流的な「(静止)エーテル」という空間媒質を
基本において理論展開していました。「媒質」ですから、当時の科学界では「粒子」を想定してい
たようです。Maxwellは次のように書いています。
From these considerations Professor W. Thomson has argued*,
that the medium must have a density capable of comparison
with that of gross matter, and has even assigned an inferior
limit to that density.
We may therefore receive, as a datum derived from a branch
of science independent of that with which we have to deal,
the existence of a pervading medium, of small but real density,
capable of being set in motion, and of transmitting motion
from one part to another with great, but not infinite, velocity.
* On the Possible Density of the Luminiferous Medium, and on the Mechanical
Value of a Cubic Mile of Sunlight, Transactions of the Royal Society of
Edinburgh (1854), p. 57
(これらの状況からW.Thomson教授は、媒質は物体総体のそれに比較
して濃く、その密度に最小限度を与えさえした。
我々はそれゆえ、我々が扱うべきものと独立した科学分野から導かれ
たデータとして、小さいけれども実際の密度[を持つ]の、運動状態にで
き、大きいけれども有限の速度で一つの部分から他の部分に運動を伝
えることができる浸透した媒質の存在を受け入れてよい。)
一方、Faradayは彼は1850年の論文"Hypothesis Ether"でこんなことを書いているそうです。
The ether - its requirements - should not mathematics prove
or shew that a fluid might exist in which lateral vibrations are
more facil than direct vibrations.
Can that be the case in a homogeneous fluid?
Yet must not the ether be homogeneous to transmit rays in
every direction at all times.
If a stretched spring represent by its lateral vibrations the
ether and its vibrations - what is there in the ether that
represents the strong cohesion in the line of the string
particles on which however the lateral vibration(s) essentially
depend.
And if one tries to refer it to a sort of polarity how can that
consist with the transmission of rays in every direction at once
across a given ether.
If the ether be supposed capable of transmitting direct
vibration(s) also - then which is most facilly transmitted.
Which will pass into the ether.
Do the direct vibrations constitute light rays or not.
If so what is the property of this light.
If not what are the results of this direct vibration.
Can not all the light in a ray be polarized by Iceland Spar
[transparent calcite] - and therefore is not all the vibrations
lateral - Then there are no direct vibrations.
As rays of heat and actinics can be polarized so their rays
or vibrations as lateral as those of light.
Is it possible to conceive a liquid in which there shall be
all lateral and no direct vibration.
How do any lateral vibrations in fluids resolve themselves?
The lateral vibrations in pools of water by wind - are soon
converted into direct vibrations.
How can the lateral vibrations from a center open out i.e.
what becomes of them as to their lateral extent at increased
distances - what is the relative magnitude laterally - close
to the light center and at 10 or 100 times that distance.
If the same then how do the vibrations open out at the
increased distance so as to fill 100 times or 10000 times
the same area or how do they superpose close at hand to
the center so as to be able to open out to this extent.
Should not a mathematical account be given of the
possibility of all these things.
If the ether be uniform in all directions and the
transmission of rays shews that - then how is it that a
progressive lateral vibration is not very quickly converted
by the massy restitution of forces into direct vibrations
expanding laterally.
If a tense wire or string in a fluid have a progressive
lateral vibration given to it - does any portion of the fluid
[illeg.] with it and by it convey lateral vibration - or do
they not all quickly become direct vibrations.
(エーテル-その必要性−は、液体は横振動が縦振動よりずっと
容易であるものに存在するかもしれないことを数学的に証明も示
してもいない。
それは、均一の液体におけるケースとなりうるのか?
しかしエーテルは、全ての時に全ての方向に光線を伝えるよう
均一であるはずはない。
もし、引き伸ばされたバネが横方向振動で表現されるなら、
エーテルとその振動−エーテル内に、しかしながら横振動が本質
的に依存している弦の粒子線の中の弦の塊を表す何かがあるか
そして、もし、人がそれを一種の両極性に持ち込もうとするなら、
どのようにしてそれが与えられたエーテルを横切ってただちにな
されるあらゆる方向への光線の伝達と両立させることができるの
か
またもしエーテルが縦方向振動を伝達できると仮定するなら
−そのとき、どちらが最も容易に伝達されるか
どちらがエーテル内を通るだろうか
縦方向振動は光線を構築しているか否か
もし、そうなら、この光の性質は何か
もしそうでないなら、この縦方向振動の結果は何だろうか
光線の中の全ての光は氷晶石[透明な方解石]によって分極化
できない−そして、それゆえ、全ての振動が横波ではない−
そのとき縦振動はない[のか]
熱線と化学線は分極化できるので、それらの線または振動
は光のそれと同様の横[振動]である。
すべてが横振動で縦振動のない液体を考えることが可能で
あろうか
どのようにして液体の中の横振動が自身を分解するのか
風による水たまりの中の横振動−[それは]すぐに縦振動に
変換される。
どのようにして、中心からの横振動が開いていくのか−す
なわち、それらの何が距離の増大に連れてそれらの側面の広
がりになるのか−何が横方向の相対的大きさなのか−光中心
そばとその距離の10ないし100倍[のところ]において
もし、同じなら、そのとき、その振動はどのようにしてそ
の同じ面積の100ないしは10000倍[の部分を]満たすような増
大する距離で広がっていくのかあるいはどのようにして、そ
れらはこの範囲まで広がることができるようにその中心の手
は届くところに重ね合わせるのか
これらの全てのことを数学的見積もりでは与えられないだ
ろう
もしエーテルが全ての方向で均一で光線の伝達がそれを示
しているなら−そのとき、増大する横波がただちに力の質量
的保障によって横方向に広がる縦振動に変換されないことは
どのようにしてなのか
もし、液体中の張力のかかった線または弦がそれに与えら
れた増大する横波を持つのなら−その液体の任意の点がそ
れとともにそしてそれによって横振動を伝えるか−またはそ
れらは全く直ちに縦振動にならないのか)
実はこの論文は出版されなかったようで、1965年に L. Pearce WilliamsによるFaradayの伝記で
初めて示されたそうです。
これを引用紹介しているサイト記事の著者は、これを「Faradayは光学エーテルを疑っていた」と
解釈され、50年後、Maxwell/Thomsonの物質的な光学エーテルを拒絶したのはEinsteinである
と書かれていますけど、このFaradayの問いかけは私にはMaxwellの解釈に対する疑問(Maxwell
は電磁波を横波だけと断定したこと)ではなかったかと思われますし、Einsteinの話については、
彼はまるきりこのFaradayの考えとは共通などしておらず、しかも何度も指摘してきましたが、隠
されてきていますけど、Einsteinは1920年のLeiden大学での物理コンフェランスにてはっきりエー
テルを認める(光の伝搬にはエーテルが必要である!)発言をしています。著者はこのFaradayの
主張を十分に分析されていないと思いました。
[---ここから改定追記:ボケてしまって抜けていましたm(__)m]
Fardayは1851年には次のように述べています("The Field concept of Faraday and Maxwell"より)。
I desire to restrict the meaning of the term line of force, so that
it shall imply no more than the condition of the force in any
given place, as to strength and direction; and not to include
(at present) any idea of nature of the physical cause of the
phenomena; or to be tied up with, or in any way dependent on,
such an idea. Still, there is no impropriety in endeavoring to
conceive the method in which the physical forces are either
excited, or exist, or are transmitted; nor, when these by
experiment and comparison are ascertained in any given degree,
in representing them by any method which we adopt to represent
the mere forces, provided no errors thereby introduced. On the
Contrary, when the natural truth and the conventional
representation of it most closely agree, then are we most advanced
in our knowledge. The emission and the ether theories present
such cases in relation to light. The idea of a fluid or two fluids
is the same for electricity; and there the further idea of a current
has been raised, which indeed has such hold on the mind as
occasionally to embarrass the science as respects the true
character of the physical agencies, and may be doing so, even
now, to a degree which we at present little suspect.
The same is the case with the idea of a magnetic fluid or fluids,
or with the assumption of magnetic centers of action which the
resultants are at the poles. How the magnetic force is transferred
through bodies or through space we know not: --whether the result
is merely action at a distance, as in the case of gravity; or by
some intermediate agency, as in the cases of light, heat, the
electric current, and (as I believe) static electric action. The idea
of magnetic fluid, as applied by some, or of magnetic centers of
action, does not include that of the latter kind of transmission,
but the idea of lines of force does.Nevertheless, because a
particular method of representing the forces does not include
such a mode of transmission, the latter is not therefore disproved;
and that method of representation which harmonized with it may be
the most true to nature. The general conclusion of philosophers
seems to be that such cases are by far the most numerous, and
for my own part, considering the relation of a vacuum to the
magnetic force and the general character of magnetic phenomena
external to the magnet, I am more inclined to the notion that
in the transmission of the force there is such an action, external
to the magnet, than that the effects are merely attraction and
repulsion at a distance. Such an action may be function of the
ether; for it is not all unlikely that, if there be an ether, it should
have other uses than simply the conveyance of radiation (2591,2787),[…]
(私は、力線という用語の意味を、力と方向に関して与えられた任意の場所
における力の状態以上の何ものも示唆しないように限定することを望んで
いる;そして(現時点で)現象の物理的要因の性質のあるアイデアを含まな
いことを[望んでいる];またはこのようなアイデアと結合させないもしくはと
にかく依存しないことを[望んでいる]。それでも、物理的力が励起される
または存在するまたは伝達される方法を考えようと努めることは不適切で
はない;実験と比較により、これらがある与えられた程度に確かめられた
とき、そのとき、我々が、もしそれよって誘導された誤りがないなら、単な
る力を示すのに採用する任意の方法によって表示することも不適切では
ない。それどころか、自然の真実とこれの便宜的表現が最も密接して認
められるとき、我々は我々の知識は最も発展する。放射とエーテル理論
は光との関係においてこのような場合を提供している。一つの流体ある
いは二つの流体のアイデアは電気にとっては同じである;そして、実際
に心に、物理的作用の真の性質に配慮するのと同様、しばしば科学を
混乱させるように維持されてきた、今でさえ、我々が現在ほとんど疑って
いない程度にそうするかもしれない更なる生じてきた電流のアイデアが
ある。同じものには磁気流体のアイデアまたはその合成が極に働く作用
の磁気中心の仮定が同じであるというケースがある。どのように磁力が
物体または空間を伝達するか我々は知らない−その合成は重力のよう
に離れた距離での単なる作用か;または、光、熱、電流、(私が信じて
いるように)静電作用の場合のようにある介在媒体によるのか。いくつ
かによって適用されるような磁気流体のアイデアまたは作用の磁気中
心のアイデアは後者の種類のアイデアを含んでいないが、磁力線のア
イデアを含んでいる。それにも拘らず、力を表現する特定の方法はこ
のような伝達の様式を含んでいないので、それゆえ、後者は反証され
ない;そしてそれと調和した表現の方法が最も自然にとっての真実か
もしれない。哲学者の一般的結論は、このような場合は、はるかに最
も多いように見え、私自身の役割にとって、真空の磁力との関係と磁
石に対して外部的な磁気現象の一般的性質を考えると、私は力の伝
達の中に、その効果が単に、離れた距離での引っ張り・反発というよ
り磁石に対して外部への作用のようなものがあるという見解に傾いて
いる。このような作用はエーテルの働きかもしれない;なぜならば、
もし、エーテルがあるなら、単純に放射の伝達より他の利用があるべ
きということが全くありそうではないということはないからである。)
どうでしょうか?これを引用している記事の著者は、これから「Faradayは.磁力線を局所的プロ
セス、恐らくエーテルの状態の表現として考えたことは興味深い」と書かれています。これから
言えることは、Faradayはエーテルを否定したわけではなく、前述の言はやはり、Maxwellの理論
への疑問を表明したものであるという私の推定の方が真相の気がしています。
[追記はここまで---]
私は、当初は物の本に書いてある「MaxwellはFaradayの実験結果の全ての数学物理理論化を
行った」という話と「現在、『Maxwellの方程式』と称せられているのはMaxwellのオリジナル方程
式群とは異なる」という事実を知って、以前、概略的なことを受け売り的に記事にしました。
その後、「Faraday自身はMaxwellが出してきた数学物理学理論に大いに不満を持ち対立した」
ことを知り、これについても以前、概略を受け売り的に記事にしました。
しかしながら、色々と考えて私の中にはもやもやしたものが広がってきて、きちんとMaxwellの
オリジナル論文を読む気になり、それを読み、自らも考察した結果を最近、いくつか記事にしま
した。ただ、それは既にFaradayとの対立を知っていた後のことですから、次はFaradayの考えた
ことをきちんと調べてみようという思惑を抱いた上でのこと(言及はしてきませんでしたが)でした。
私の究極的な目的は、「Maxwellが示した『場(field)』と現在、『ベクトルポテンシャル』と称せら
れているものの間の関連性」についてFaraday自身はどのように考えていたのかを知りたい」
ということでした。
残念ながらFaradayの順番に出していたオリジナル論文を見ておらず、いくつかの海外サイト記
事の中で、その著者の主張の根拠として示されていた断片的な抜粋引用しかなく、結局未だ十
分な理解は得られていません。そのような観点で論じたものは見つかりませんでしたし。
それゆえ、自分自身だけの勝手な解釈を示すということは避けてきているつもりであり、今回
は当初の意気込みとは裏腹に竜頭蛇尾な記事になってしまいましたけれども、捨て去られた
みたいになっているFaradayのideaは真偽のほどは別として、そのままにするのは惜しいという
感を抱きました。本稿ではなぜかについてはとりあえず書かないことにしますが、私の本コーの
ナーで示してきた数々記事を読んでいただいたなら、気が付かれるところがあるだろうとだけ述
べておきます。
('17/10)
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