マックスウェルはどう考えたのだろうか?C

 〜1855年頃の最初の論文から(1)研究姿勢〜

私がMaxwellに関していくつも項を起こして入れ込んでいるのは、この1855年頃の一連の最初
の論文集"ON FARADAY LINESの冒頭の前書きに記されていた彼の研究に取り組む姿勢
(科学哲学)に共感を覚えたことにあります。これについては既に断片的には触れてきましたが、
再度、一挙に紹介しておきたいと思います。

まず、

 Such a theory must accurately satisfy those laws, the mathematical
 form of which is known, and must afford the means of calculating
 the effects in the limiting cases where the known formula are
 inapplicable.
 In order therefore to appreciate the requirements of the science, the
 student must make himself familiar with a considerable body of most
 intricate mathematics, the mere retention of which in the memory
 materially interferes with further progress.
 The first process therefore in the effectual study of the science,
 must be one of simplification and reduction of the results of previous
 investigation to a form in which the mind can grasp them.

 (このような理論は厳密に知られている数学的形のそれらの法則を満足させなけ
 ればならない、そして、知られた公式が適用できない限られたケースにおける効
 果を計算する手段を与えなければならない。
 それゆえ、科学の要請を正しく評価するためには、学生は、記憶の中でただ保
 持していることが更なる進歩の妨げになっているもっとも複雑な数学の考慮す
 べき実体に親しまなければならない
 それゆえ、科学の効果的研究の最初のプロセスは、以前の研究の結果の、
 がそれらを掴む形への簡単化・還元化のものでなければならない
)

と述べています。
そして、

 The results of this simplification may take the form of a purely
 mathematical formula or for a physical hypothesis.

 (この簡単化の結果は純粋な数学公式の形または物理学的仮説の形をとるかも
 しれない。
)

と述べた上で、これらの研究方法の問題点を次のように指摘しています。

 ・第一のケース(純粋な数学公式の形)
  we entirely lose sight of the phenomena to be explained; and though
  we may trace out the consequences of given laws, we can never
  obtain more extended views of the connexions of the subject.

  (我々は完全に説明すべき現象を見失う;そして、与えられた法則の結果を描き
  出すかもしれないけれども、決して主題の結びつきのより発展的な観察を得る
  ことはできない
)

 ・第二のケース(物理学的仮説の形) :
  we adopt a physical hypothesis, we see the phenomena only through
  a medium, and are liable to that blindness to facts and rashness in
  assumption which a partial explanation encourages.

  (もし、我々が物理学的仮説を採用するなら、我々は現象を単に媒体を通して見
  るだけであり、部分的説明が助長される仮定において事実に盲目的になったり
  軽率になりやすい。
)

Maxwellはその上で新たな研究方法を指向しています。

 We must therefore discover some method of investigation which allows the
 mind at every step to lay hold of clear physical conception, without being
 committed to any theory founded on the physical science from which that
 conception is borrowed, so that it is beyond the truth by a favourite
 hypothesis.

 (それゆえ、我々は、その概念がそこからの借りものである物理科学で発見されている
 任意の理論に任せてしまう−その結果、お気に入りの仮説によって真実の外になる−
 ことをせずに、各ステップにおいて、心に明らかな物理概念を保持することを認める何
 らかの研究方法を発見しなければならない
)

私は、これこそまさに本来の「物理学の在り方」ではないかと強く思っています。Maxwellは安易
に両者を足して2で割るというようなやり方ではなく彼が描いた第三の方法を取ろうとしていた
強い決意が伺えます。それは研究を始めるに当たってFaradayに示したように、「構築した理論
から次の実験観測の明確な課題・方式を与えるもの」であること意図していたからです。
明らかに、大変失礼ながら、「物理も知らない、実験手法も示せない」(あるブログにあった、現
代の理論物理学者批判)超弦理論専門家の方々のスタンスとは大きな相違があります。

で、彼は具体的にはどういうスタンスでやったかですが、続いて

 In order to obtain physical ideas without adopting a physical theory we
 must make ourselves familiar with the existence of physical analogies.
 By a physical analogy I mean that partial similarity between the laws of
 one science and those of another which makes each of them illustrate
 the other.

 (物理理論を採用せずに物理的ideaを得るためには、我々は物理的アナロジー
 存在に熟知しなければならない。
 私の意味している物理的アナロジーとはそれらの各々が他方を説明するある科学
 と他の科学との間の部分的類似性である
)

と"partial similarity(部分的類似性)"としての"physical analogies(物理的アナロジー)"
に着目したものであり、その理由として、

 all the mathematical science are founded on relations between physical
 laws of numbers, so that the aim of exact science is to reduce the
 problem of nature to the determination of quantities by operations
 with numbers.

 (全ての数学的科学は数値の物理学的法則間の関係に基づいている、それゆえ、
 正確な科学の狙い目は、自然の問題を数値にによって量の決定に還元することに
 ある。
)

と述べています。この言葉の中にも、抽象的な観念的な理論ではなく、実際の観測に供する理
論を与えようという意思が強く現れています。

で、彼はその「物理的アナロジー」として何を対象にしたかですが、1850年頃の時代背景を考え
ましょう。

 (...)We have all acquired the mathematical conception of these
 attractions.
 We can reason about them and determine their appropriate forms of
 formula.
 These formula have a distinct mathematical significance, and their
 results are found to be in accordance with natural phenomena.
 There is no formula in applied mathematics more consistent with nature
 than the formula of attractions, and no theory better established in the
 minds of men than that of the action of bodies on one another at a
 distance.

 ((...)我々は皆、これらの引力の数学的概念を得てきた。
 我々はそれらについて論じることができ、適切な形の式を決定できる。
 これらの公式は確かな数学的意義を持ち、それらの結果は自然現象と一致して
 いることが見出される。
 引力公式に勝る自然に一致した応用数学公式はなく、また、距離が離れた互い
 の物体間の理論ほど人の心の中でよく確立した理論はない。
)

勿論、当然ですが、

 The word force is foreign to the subject.
 (「力」という言葉はその主題にとっては異質なものである。)(※1)

と言明しているように、ニュートン力学を使うということではなく、数学理論にそれとのアナロジー
を応用しよう
ということです。
既に当時、ケルビン卿(W. Thomson教授)が熱流理論をそのアナロジーで示していたことを例に
挙げています。勿論、物理的には関連性はありません。(※1)をわかっていた上で、類似性の点
に注目して数学理論に応用したというわけで、そこでは、

 熱現象     力学現象
 -------------------------
 熱源   ⇔  引力中心
 熱流   ⇔  引力による加速効果
 温度   ⇔  ポテンしゃる

という対比で論じられているそうです。

Maxwellは概念的にはFaraday教授、理論化の面ではThomson教授(後のケルビン卿)の影響を
強く受けています。

そして、

 It is true, that if we introduce other considerations and observe
 additional facts, the two subjects will assume very different
 aspects, but the mathematical resemblance of some of their
 laws will remain, and may still be made useful in exciting
 appropriate mathematical ideas.

 (もし我々が他の考察を導入し付加的な事実を観測するなら、二つの主題
 は大変異なる様相を呈するだろう、しかし、それらの法則のいくつかの数
 学的類似性は残り、まだ、エキサイティングな適切な数学的ideaは役に立
 つだろう。
)

と述べ、

 It is by the use of analogies of this kind that I have attempted
 to bring before the mind, in a convenient and manageable form,
 those mathematical ideas which are necessary to the study of
 the phenomena of electricity.

 (この種の類似を使うことにより、私は便利で扱いやすい形で、電気の現象
 の研究に必要な数学的ideaを心に付すよう試みてきた。
)

そして、

 By the method which I adopt, I hope to render it evident that I
 am not attempting to establish any physical theory of a science
 in which I have hardly made a single experiment, and that the
 limit of my design is to shew how, by a strict application of the
 ideas and method of Faraday, the connexion of the very different
 orders of phenomena which he has discovered may be clearly
 placed before the mathematical mind.

 (私が採用した方法により、私が、私がかろうじて一つの実験をなした何ら
 かの科学物理理論を確立しようと試みているのではなく、私の設計限界が
 そのideaの厳格な適用とFaradayの方法により、いかにして、彼が発見した
 大変異なった一連の現象の結合がはっきりと数学的心の前に置かれるか
 を示しているかが明確になることを望んでいる。
)

と述べ、

 I shall therefore avoid as much as I can the induction of anything
 which does not serve as a direct illustration of Faraday's methods,
 or of the mathematical deductions which may be made from them.

 (私は、それゆえ、Faradayの方法の直接の例示の助けとならない何か、また
 はそれらからなされた数学的演繹法の導入は出来る限り避けるであろう。
)

と書いています。

そして、苦節(?)10年、既に詳述してきたように、1865年に最初のオリジナルの「電磁場の一般
方程式」(x,y,z成分表記で20個の方程式群)を示し、Faradayが1845年の論文の中で示した電磁
波の存在の理論的証明と光は電磁波であることの予測を盛り込んだに"A Dynamical Theory
of the Electromagnetic Field
"(前年の1864年にRoyal Societyで発表)を出版、そして、1873
年にはクオターニアン表記した上、拡張した"Treatise on Electricity and Magnetism"を
出版したのですが・・・電磁波は彼が1879年に病死した8年後の1887年にHertzによって実験実
証されるまで、生存中、当時の科学界からは受け入れられなかったこと、1873年の論文の方は
難解過ぎて不評を託ち、自ら切り詰めの検討を余儀なくされた(約8割切り詰めたそうですが、
それが出版されたのは彼の死後の1881年、1882年であった)ものの、結局は彼の死後Heaviside
により書き換えられたものが計算のしやすさから受け入れられてしまった(結果的に、オリジナ
ル式は無視されてしまった)こと、そして何よりもmaxwellには大変ショッキングなことだっただろ
うと思われますが、Maxwell/Faradayで言及しましたように、喜んでもらえると思っていた尊敬し
ていたFaraday教授からの思いもしない批判の手紙だったと思います。ただ、これは、Faraday
の描いていた"force"の概念が当時の(今もですが)物理学一般のものとかけ離れていたことに
起因していたことによるものであり、前述のように、確立した科学との「物理的アナロジー」を理
論化に用いたMaxwellに対しては酷な要求だったと思います。その後、Maxwell以外誰もFaraday
が抱いた概念であった"electrotonic-state(電気緊張状態)」の物理的概念を構築しなかったこ
となどMaxwellとしては当時の理論物理学の中で精一杯、尊敬するFaraday教授の実験で発見
してきたことと彼の描いていた電磁気に関する概念の理論化に努めたのですからね。

以上、Maxwellがどういうスタンスで研究しようとしたかについて論文から引用しました。
「アナロジー」による彼の手法が正しいかどうかは私には判断できません。ただ、本来の物理
学は「自然科学」であり、「現実の現象」を現実に即して理論化するのが本筋だと思います。
「現実世界」を無視して、何か「神」の立場で数学を駆使し、脳内で観念だけ膨らませるという
現在の「はやり」は私は「自然科学」ではなく「数学的観念哲学物理学」でしかないと考えてい
ます。彼はそういう手法は取らなかったということです。
成功しているかどうかは別として、そういう意味で、彼が目指した所、スタンスは評価したいと
思い、この稿をしたためました。
そして、繰り返し指摘してきましたが、彼の研究の集大成である1865年の論文(成分表示での
20個の「電磁場の一般方程式」が示された)及び1873年の論文(クオターニアン表記とし、か
つ拡張したもの)には言及されず、ベクトルポテンシャルを「余分なもの」と毛嫌いし、自ら確立
に協力したベクトル解析法適用第一号で書き換えたMaxwellのあずかりしならい二つの方程
式を含む提案された頃は"Heaviside-Hertz equaitons"と称せられた4つの方程式だけを作っ
たかのように業績が矮小化され歪められてしまっている一方で、少なくとも1865年のものは
現在はベクトル法の形で全て電磁気学の教科書に出てきているという事実
は知っておいて
いただきたく存じます。

(続く予定)

 ('17/7)

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