所詮は人間社会の縮図
どこかで目にしたのですが、西洋の科学者が、「宗教を信じる」のも「科学を考える」のも全く
同じ脳の働きだというような研究結果を発表したことがあったそうです。
私に言わせてもらえば、大変失礼ながら、こんなもの当たり前で研究までしてわざわざ権威
ぶって発表までするようなことなのかと思うのですけどね。
面白いことに、右脳・左脳の違いという説、私自身、こんなもの信じていませんが、調べてみ
ると「それは『俗説』だ、『疑似科学』だ(※)」という主張がネット上にあります。
しかしながら、この説は「決して『素人』の人が言い出したわけではない」ことに留意す
べきだと思うのです。要するに、
「最初にそれを主張したのは、その学説を発表した
『科学者』でしょ?」ということです。そして、本なりメディアの宣伝で一般下々がそれを知る
ところとなったに過ぎなのですから、本質的には『俗説』とはちょっと違うのではないかと思う
のです。そして、その説に対する科学者の反対論があるとしても、アカデミズム科学界の総
意として完全否定されているのかどうかということです。
結局のところ、大変失礼ながら、上記(※)という主張をされる方は、「自分が間違っていると
信じて断定している」ことから、「そんなものを信じている連中は能力が低い」と見下してい
る=だからこそ、『俗』説とか、『疑似』科学とか言う言葉が出てくるのではないでしょうか?
私は、再三、本コーナーで
地球の科学は、決して、(一般に信じられているような)『客観的』な
ものなどではなく、極めて『主観的』なものである
と主張してきました。そして、
アカデミズム科学における標準理論・定説というのは、多数の科学者
の『主観的コンセンサス』を得たものにすぎない。したがって、多数の
科学者の『主観的コンセンサス』を得ているからと言って、それが『真
実』だという絶対的証拠などない
と主張してきました。ちなみに、私の言う『真実』とは、別コーナーのここで触れた「主観的な」
意味合いだということである英語の"truth"ではなく、「客観的」な意味での「ほんとう」という
ことを示しています。
私自身も長い間誤解してきたのですが、結局のところ、
『科学』(と称せられているもの)は、『科学者』によりなされてきていま
すが、その『科学者』自体が『人間』であるゆえに、少なくともこの地
球においては、『科学』(と称せられているもの)は『人間社会』から逃
れられていない『人間社会の縮図』にすぎない
と思うのです。
しかしながら、未だ、「科学は客観的なものだ」と信じている方達が多くいます。ところが、そ
の思考を見ると、極めて『主観的』なわけで、愚かにも、それに自分自身で全く気が付いてい
ないのです。『考える』『思う』ということ自体、既に『主観的』なのに・・・。
要するに、よく言われるような、「客観的に考える」などというのは嘘なんですね。そう「思い
こんでいる」に過ぎないのです。
結局のところ、科学者であれ誰であれ、「人間」であるゆえに、『信仰・信奉』(belief)ということ
からは決して逃れないのです。そういうものを『不合理』だと決めつけて(これも一つの"belief"
でしかないのですが)一生懸命になって否定しようとする理系人間・科学者がいますけど、要
するに、
人間一人一人の言動を決めているのは、人間が持つ『心』である
ということです。ですから、私は、冒頭で、「そんなものは当たり前」と言ったのです。元は同じ
各人固有の『心』の働きでしかないからです。本質的に「宗教を信じる」のと『科学を信じる』こ
とにはなんら差異はないのです。「違うのだ」というのは、ご自分の「心」の働きによる「信仰」
でしかないのです。そんなのが真実だというような根拠などありません。
攻撃的宗教否定論者として有名な原理主義的進化論学者であるドーキンズは「心なんて脳
の働きにすぎない」と主張しているそうですが、「そう考えること自体、あんたの脳から出てき
たものにすぎないじゃないか」というような皮肉反論を目にしたこともあります。まさに、その
通りなんですね。「心否定論者」も「心などない」と「信じている」にすぎないのです。そんな絶
対的証拠などどこにもなくて、どこにあるかというと、御自分の「頭の中」(本当は「心の中」)
にあるだけにすぎないのです。
そもそも、「科学は合理的」とか「合理的なものが科学」などということは一体全体、誰が決め
たのでしょうか?よくよく考えてみれば、皆さんがなんとはなく「そう思っているだけ」にすぎな
いのではないでしょうか?そして、そう思っているだけにすぎないのに、多くの人々は
科学>宗教(※※)
と、当然みたいな「したり顔」で主張されますよね。しかしながら、特定宗教に帰依されている
科学者もおられるわけです。ですから、私は、(※※)を「したり顔」で主張される方達のことを
『科学教信者』だと言ってきたのです。そして、そういう方々は、大抵は、『○○理論信者』で
す。勿論、『○○理論信者』が全て、(※※)と考える『科学教信者』ではないとは思いますが。
ネット上に、日本人は「無宗教」ゆえに、「科学」に心の拠り所を求めている−すなわち、科学
が宗教の代わりになっている、『無神論的新興宗教=科学教』−だと言うような意見がありまし
た。確かに、そんな気がしますね。ところが、彼らは「科学=合理的、客観的」だと信じ込んで
それを「黄門様の印籠」「錦の御旗」にしていますから、一般の宗教とは異なり、「性質が悪い」
(すなわち、卑怯な)気がしています。
所詮、人間は、「自分の心の中で正しいと思うこと」=「自分の心が正しいものと思えと命じた
こと」をそれぞれ「信じている」にすぎないのです(勿論、そういう私も同じですが)。
結局のところ、私自身は気に入らないのですけど(これも私の『心』の働きでしかないのです
けど)、人間が考える限り、日本語の響きの『真実』というのは、所詮、英語の「主観的」という
意義が含まれていると言われている"truth"でしかなく、「あすなろ『ほんとう』」でしかないよう
です。
(’15/2)
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