事実(fact)と真実(truth)という用語に関して
あるところで読んだ記事の中に、
『事実』と『真実』は異なる
という説明があり、そのときはちょっと気にはなりましたが、それ以上深くつっこまないで
いました。
しかるに、あることを考え調べている中でそれをふと思い出してしまい、ネットで調べて
みました。で、山のように検索にひっかかり驚きました。その上、私の思いとは異なるよ
うな説明がなされていてすごく心にひっかかりを感じているところです。
意見を集約してみると、どうやら、英語においては"fact"と"truth"
は意味が異なると
いうことからの説明になっているようです。
ということは、日本語の『事実』とか『真実』というのは、元々あった用語
ではなく、「英
語を誰かが『和訳』したものだ」ということでしょう。
ちなみに、これは調べたわけではなく、あくまで、状況からの私の独断と偏見によるもの
ですけどね。で、その通りであるなら、このような和訳をされた方は、どのような思いか
らこのような和訳をされたのでしょうか?というのは、とくに、『真実』という用語について
ネットに多くある(幾分ニュアンスの異なる私の思いに近い説明をされている方もおられ
ますけど)説明は、私にとっては納得できないんです。
ま、多分に、ネイティブ英語圏の方が"truth"に対して抱いている意義は、そのネットに
あるニュアンスなんだろうとは思うのですが、日本語としての『真実』という用語を素朴
に感じたとき、果たして、ネットにあるような説明を思いつくでしょうか?
説明によれば、"fact"というのは、あくまで客観的な表面に現れ出た「現象・事象」を
意味する用語のようで、これは異議はありません。しかし、日本人は和訳された(と私
は思っているのですが・・・それとも存在していた用語を当てはめたのかな?)『事実』
という用語の使用で混乱している気がします。
ときに、有識者の説明に対し、「舶来語を偏重している」という批判がなされ、私もこれ
まで、そういう批判に同調したりしてきましたが、この"fact"と"truth"という用語につい
て考えた今、そういう意見には同調できない思いがしてきました。
というのは、近年使用されている多くの語彙は輸入紹介されてきた論の和訳において
使用されてきたということがあるからです。ですから、悉く、原文の語彙のニュアンスに
ぴったりの和訳になっているとは限らず、ニュアンスを確実にそのまま伝えるのに丁度
良い日本語が作れるとは限らないという現実問題があろうかと思うのです。
要するに、「下手な和訳」をするなら、原語のままの方がわかりやすいという語彙もあ
るんですよね。その意味で、私は『事実』という日本語を英語の"fact"の意義で使用す
るには違和感を感じています。私的には、ネットでされている前述の"fact"の意味とし
てなら、むしろ『事象』というのが合致している気がするのです。『事実』の後ろにある
『実』というのが、『事実』という日本語の使用を混乱させている気がいてなりません。
その意味では、英語で"fact"とあれば、そのまま『ファクト』という方がニュアンス的には
よいのではと思うのですが。で、どうしても日本語に訳すなら『事象』の方がようのでは
と独断と偏見かもしれませんが思うのです。なぜなら、『事象』なら「主観」は入らないわ
けですから。昨今、ネットの発達に伴い、マスコミ批判が多くなされているのは、本来は、
"fact"を伝える役目なのに、真の意義の"fact"でない主観を入れたものを"fact"である
かのように曲げて報道したりするからなのです。しかしながら、上記の日本人の混乱は
このような「主観」が入ったものを「事実」という用語で用いる人がいるということです。
要するに『事実』という日本語の用語はそういう解釈がともするとなされてしまうという基
本的問題を含んでいると私は思うのです。
さて、それよりもなによりも、更に気になっているのは英語の"truth"という用語の意義
です。ネット上の多くの説明によれば、これは「外的」なものではなく、人間の「内的」
なもの、すなわち『主観』が入ったものとされています。
私は、英語に詳しくないので、わかりませんが、少なくとも、英語の"truth"というのは欧
米人はそういう意味で使用しているのでしょう。しかるに、もしそうなら、それにあてはめ
られた日本語の『真実』というのはとてもそんなニュアンスには聞こえてこないんです。
主観的に『真実』だと個々の人が思っているだけのものなら、『真実』かどうかわからな
いわけでしょう?私は、日本語の『真実』というのは、人間の『主観』など一切入らない純
粋に『客観的』なものというニュアンスを感じるのです。
その意味で、『真実』という用語を英語の前述のニュアンスの"truth"の意味であるとす
るのなら、私はそういう意味での『真実』ではなく、『ほんとう』という用語を私の思いの
中で使いたいと思います。『主観』が入ったら、そんなものは『ほんとう』かどうかわかり
ません。それを声高にいう人は、それをいかにも「ほんとう」であるかのように言います
けどね。所詮、その人の主観なんですね。勿論、私だって同じですけど・・・。
結局のところ、英語の"fact"というのは「客観的な外面的・表面的な事象」を意味し、
"truth"というのは、「『ほんとう』のことと多数派の主観的コンセンサスが得られているに
すぎないもの」ということではないかと厳しく感じました。
別コーナーでも散々主張していますが、「多数派の主観的コンンセンサスを得ているもの」
が真に「ほんとう」かどうかの絶対的証拠はないわけです。私は、本来の日本語の『真実』
というのは、そういう未来永劫不変的かどうか不確かな不安定な代物を意味するもので
はなく、未来永劫、不変の「ほんとう」という意味ではないかと思うのです。
ですから、先のニュアンスの"truth"を『真実』と訳すのには抵抗感を感じてしまいます。
ネットで説明されている方々はそういう認識はされておられるのでしょうか?
ネットの説明から考えるなら、
"truth"=『真実』だという多数派の主観的コンセンサスを得ているもの
というのが正しいのではないでしょうか?要するに、「ほんとう」だとする絶対的証拠などな
いものだということです。
別コーナーで主張していますけど、現代人は馬鹿にしますが、2000年もの間、『天動説』は
"truth"とされてきたのです。『地動説』がだされた当時は、こちらは今でいう「とんでも」扱
いされていたんです。私は地球人の知識・知恵など所詮、ちっぽけなものにすぎないと考
えています。昔だからどうのこうの今はどうのこうのとすぐ人々は言いますが、根本的に人
間の『主観』など変わっていません。それに気が付いていないだけです。地球人は傲慢不
遜なんです。
('14/11)
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