水上勉・作『飢餓海峡』について(1)
(’20/10)
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最初からネタバレが多々ありますので、ご留意くださいm(__)m
よくある感想文ではありません。
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散らばっていた小説を整理していたら、新潮文庫の
水上勉
作・『
飢餓海峡
』(昭和52年発行十八刷)
が出てきて、もう筋は知っているのですけど、近年はだいぶ収まったのですが若い頃から活字中毒気
味だった私は、最近本屋にも図書館にも足を運ばなくなったため、読む本に事欠いて、これをまた読
み返してしまいました。
私としては、この作品は唯一先に偶々映画を見て知ったもので、後から小説を読んだのでした。偶々
映画を見たと書きましたが、元々、松本清張作『点と線』の映画化されたものが上映されると知って
映画館に行ったところ、どうもメインがこの『飢餓海峡』で、『点と線』は併映扱いだったのでした。
−封切り時期から見ると、封切りではなく、二番・三番館だったと思います。
ですから、それが水上勉原作の推理小説の映画化されたもんだということをまるで知らないで見たと
いう訳でした。そういう意味で、私がいつも拘ってしまう原作との比較という視点で見たのではなく
純粋に映画として楽しめた記憶があります。ミステリーファンではありましたが、所謂、社会派推理
小説については松本清張「砂の器」からやっと読み始めた頃でもあり、水上勉氏が推理小説を出して
いることなどまるで知らなかった頃だったのでした。
映画は、例の東映のマークの下に「東映106方式」と書かれ、わざわざ白黒映画としたもので、どう
やら内田吐夢監督の最高傑作とも言われているようです。いたこの画面では反転画面も使われ、音楽
も私にとっては、映画にはぴったりの暗いというか怖い感じのものではありました。
先に映画を見ましたので、私の中では配役の方たちの印象が強く、後から小説を読んだわけですけど
犬飼多吉
/
樽見京太郎
役の
三国連太郎
さん、
杉戸八重
役の
左幸子
さん、
弓坂吉太郎警部補
役の
伴
淳三郎
さんなどは丁度うまく当てはまっていたなと思っています−と言うより、映画を先に見たこと
でむしろ映画の役者のイメージに引っ張られてしまっているのかもしれません(^^;。
この作品は、実際に
昭和二十九年(1954年)
に発生した
洞爺丸台風による青函連絡船『洞爺丸』沈没事
件
と同時期に発生した
岩内町大火
をモチーフとし、その方が色々と好都合ゆえだろう−そう考えた理
由は後述します−と思われますが、7年遡らせて、それらを、戦後すぐの
昭和22年
に起きた事件とし
ており、洞爺丸を『
層雲丸
』、岩内町を
岩幌町
と名前を変えています。
ミステリーではありますが、むしろ、犯人の逃亡途中で出会い、弓坂警部補の捜査の過程でも現れた
女性
『杉戸八重』の物語の趣が強い
−杉戸八重の存在感が大きいです。勿論映画もそうで、配役の左
幸子さんの演技が秀逸でした。
私の所有する文庫本の解説によれば、水上勉氏が文化講演会で北海道旅行をした時、雷電海岸の荒涼
とした光景を目にして着想したとか。水上勉氏は若狭湾の谷の奥の乞食谷というところで生まれ、そ
のため日本の僻地や僻村をこよなく愛されたそうで、(ミステリー作家としての)出世作「霧と影」で
も主犯の故郷として、架空の地ですが、そういう場所が扱われています。実在の地と名前を変えたり
架空の地が盛り込まれ、その私にとっては見事と思える地理的描写が地図好きの私の興味を強く誘い
ました。
この小説は、私的には非常に悲しい物語で、「たらねば」と強く思わざるを得ないものでした。
以下、前半の事件の勃発・犯人の逃亡・捜査状況と、後半、闇に消えてしまった犯人が思いもかけぬ
ことで再び犯行を犯したために、まんまと逃げおおせた過去の事件の犯人であることが暴き出される
−前述で私が「たら・ねば」と感じた部分−「ミステリー色」の部分を中心に、じっくり読み返した
時にいくつかの気になった点の"ちゃちゃいれ"(
茶色字
で触れます)、補足としての注意書きと感想(
緑
色
字で示しています)、地図好きゆえ調べた、小説内で出て来ている地名の位置を示す地図(google
mapや国土地理院の現在の地図参照のものですので当時とは道路など異なります)を勝手に挿入した
自己満足のたわごとです(^^;。そのため、細かくねたばれ満載ですのでご留意の程m(__)m
序章「遭難」では、まず、
昭和二十二年九月二十日
に、台風により青函連絡船「層雲丸」が転覆・沈
没して、死者420名、行方不明者112名、生存者324名という未曽有の事故が発生
したところから始
まり、二日後の九月二十二日に函館署で開かれた事件処理の総合会議で函館署捜査一課の
弓坂吉太
郎警部補
が、
乗船名簿に名前がなく引取り手が現れない二人の死体が発見された
ことを報告し処置
方法を問いかけたが、結局、この身元不明の二死体は身元が不明のまま、気にかけた弓坂が自分の所
有する墓地に土葬埋葬したことが述べられています。
第一章「発端」では、
層雲丸沈没事故と同日朝、街の2/3が消失する
岩幌町
大火発生
、岩幌署の調
査の結果、
田島清之助巡査部長
が
原因は火元の佐々田質店の一家心中に見せかけた強盗殺人放火
事件
であると断定、岩幌署に捜査本部が立ち上げられ、ここにミステリー物語としての発端の「殺人
事件」について述べられています。田島巡査部長の推察では、凶行は前夜十九日に行われ、犯人は翌
朝放火して逃亡したものとであろうと。
目撃者が現れず捜査が難航している時、
十月二日
、網走刑務所の看守部長の
巣本虎次郎
が田島に耳
寄りの情報−六月に仮出所した富山出身の
木島忠吉
と
沼田八郎
が未だ本籍地に帰っていないこと、犯
行の手口が沼田が前に魚津で起こしたものと似ていること−を提供。どうして二人が佐々田質店を
知ったのかが問題となったが、小樽から応援に来ている荒川刑事が、佐々田質店の伝助夫婦・若嫁ま
つが二、三日前に朝日温泉へ湯治に行ったことを聞き込み、田島巡査部長と、同行を申し出た荒川刑
事の二人は朝日温泉に聞き込みへ。これは正解で、
一番大きな朝日館で伝助夫婦と若嫁が
十六日〜十
八日
の二泊したこと、
十五日〜十九日
、三人の男が宿泊−うち二人は木島・沼田で、もう一人の謎の
男−
角ばった浅黒い顔で坊主頭、背の高い男
−が宿帳に札幌市の
犬飼多吉
他二名と書いたこと
が判
明。佐々田質店と犯人の接点がここ朝日温泉だったのでした。田島から電話連絡を受けた岩幌署
桑田
署長
が
札幌署
に、宿帳に書かれた犬飼多吉の住所の調査依頼を−電話を受けた札幌署の司法係の
宮越
警部補
がすぐに部下に調査させたがその住所に犬飼という名前の男はいないことが判明。宮越は巣本
に問い合わせたが出所者に犬飼多吉という名の人物も、そんな大男もいないとのこと。
十月六日
、札幌署で合同会議開催−岩幌署桑田署長・田島巡査部長、網走刑務所巣本看守部長、札幌
署刈田係長・宮越主任警部補の五人。その結果、札幌署は道内に三人の指名手配公文を出したのでし
たのでした・・・
−ちょっとしょうもない茶々入れですが・・・。
この文章によれば、何か、「札幌署」の方が「岩幌署」より格上で道内の取りまとめ
警察署的なことになっています。しかし、実際は昔から「〇〇署」というのはその自
治体・地域だけの警察署です。事実確認のためWikipediaも調べたのですが、戦前の
警察が一括して内務省管轄から戦後進駐軍により内務省が廃止され一時は自治体所属
の自治体警察であり、自治体費用とか広域捜査に難があるとして旧警察法ができ、自
治体警察と国家警察とからなり、その後、それを一体化した現在の警察法警察になっ
たことがわかりました。舞台である昭和二十二年当時はそれぞれの警察署が独立して
いた時代ですから、ちょっとややこしいのですが、小説が書かれたのは昭和三十年代
ですので、それ以前なら一般的には「国家警察」が「自治体警察」関連の広域事件を
扱っていた時期ですので、本来なら「札幌署」ではなく、札幌にある「国警北海道本
部」の方がベターではないかと思います。現在なら「道警本部」ですね。
そもそもそこがちょっといい加減ですが、札幌署の宮越警部補が横柄な口調で巣本に
対して「札幌署」に申し出なかったと批判するのもおかしな話です。事件が発生し、
岩幌署→札幌署に連絡して岩幌署に捜査本部が立ち上げられたというのならわかりま
すが、そうではなくて札幌署は捜査本部を立ち上げていた岩幌署からの犬飼多吉の調
査協力を受けて初めて動いただけですからねぇ。
岩幌町、雷電海岸、朝日温泉の地理的情景については下記のように書かれています。水上勉氏の描写
は私にとって眼を引くことが多く、そのまま引用します。
まず第一章の冒頭で「岩幌町」については下記が記されています。−
国鉄函館本線が、尻別川の上流に沿うて、東に羊蹄山の端麗な容姿を眺めながら、
倶知
安町
に向かって北上するあたりは、ところどころに火山灰地が灰いろの地肌を露出して
いる。かなりの高原地帯である。この倶知安を出た本線
[注:函館本線]
が、北に迂回し
て、積丹半島を縦断する地点に
小沢
こさわ
という小駅がある。ここから岩幌線が
岐
わか
れていた。
「岩幌町」と「岩幌線」は架空名ですが、尻別川、羊蹄山、倶知安、小沢駅は実在のものであり、実
在地の現在の地理的位置(尻別川は省略)は下図で、明らかに「岩幌町」は「岩内町」、「岩幌線」は
国鉄「岩内線」をモデルにしています。尚、「岩幌線」のモデルの国鉄「岩内線」は1985年に廃止
されています。田島が見送った巣本が乗った岩幌線の列車については所謂「
貨客混合列車
」であるこ
とが描写されていますが、恐らく短いローカル線であった岩内線は当時はそうだったんでしょう。
図1 岩幌町のモデルの岩内町位置(現在)
田島らの岩幌から朝日温泉への行程については以下のように述べられています−
岩幌町から野束、敷島内を通って
雷電海岸
に出る道は険しかった。海に沿うて硬い岩層
が屏風のように切り立っている所もあり、道は岩石につき当たると、その巨大な岩を通
り過ごすために山に入りこんで迂回せねばならない。
・・・五十メートルもある巨大な岩と岩の合い間から噴出するように数条もの滝が海に
落ちこんでいた。黒と茶褐色との斑になった岩壁に、純白の滝水が糸状に投げつけた
ように落下する底の方は、背すじを寒くするような巨大な
穽
あな
であった。道は穽に沿う
てまがりくねっている。時々、昔の旅人がどうしてそのような穴をあけることが出来
たのかとおどろかせるトンネルもみられた。
雷電を越えると、北尻別、
歌棄
うたすつ
、
寿都
すっつ
と険しい道は渡島半島の北部を通って
檜山
ひやま
に出
る。
海岸から山へ入った。埃っぽい道がつづく。両側の山壁が次第にせばめられていくと、
前方にかすんでいた雷電山と
目国内
めくんない
岳のきりたった山容が黒さをまして浮かんできた。
朝日温泉は雷電山のふもとにあった。
野束、敷島内、雷電海岸、雷電山、目国内岳、朝日温泉は実在のものであり、これは実在の岩内町の
市街地からの昔のルートの描写でしょう。野束、敷島内は図2の位置にあります。
(雷電山、目国内岳は図1に示しました)
図2 雷電海岸へ[現在:「岩幌町」のモデルである岩内町]
図2の先は国土地理院地図で見ると、海側へ面面と崖が続く雷電海岸となっています。現在は鳴海ト
ンネル、雷電トンネルなどを通る国道229号線がありますが、当時は険しい道だったようですね。
当時の道がどうなっていたか調べていませんが、現在の地図で見ると朝日温泉へは下図のようになっ
ています。
図3 朝日温泉へ[現在]
ところで
序章 遭難
の2節には、忽然と三人組の足取りの一部が示されています−
ちょうど函館が層雲丸の沈没事故でてんやわんやしている
九月二十一日
[
岩幌署に質屋強盗殺人放火
事件本部が設立された日、そして、事件処理の総合会議で弓坂が引き取りてのいない、層雲丸の乗客
名簿に名前のない死体が二体あることを報告した日の前日のことです]
に、
混乱の函館市から約十五キロ離れた
矢不来
やふらい
という村から、遠く
茂別
もべつ
の山に入り込む国
道を、東に向かって歩いてくる三人の若者
があった。
矢不来の浜に出るまでの道は国道だった。かなり広かった。道の両側は畑になってい
て、
市
いち
ノ
渡
わたり
という村を出て、一時間もすると、
木古内
きこない
に至る鉄道線路につき当たった。
三人は線路ぞいに函館の方角に向かって
黙々と歩いた。
(※1)
とあります。矢不来、市ノ渡、木古内は実在の地で函館との現在の位置関係は下図の通りです。図
の「道南いさりび鉄道」は旧・国鉄・江差線です。前述の「鉄道線路」はこの鉄道のものです。
図4 函館、木古内、矢不来、市ノ渡などの位置関係
実は、ここまで読んだとき、私にはこの矢不来や市ノ渡などは仮想的な村かと思い、地理的位置がよ
くわかりませんでした。というのは、岩幌町のモデルである岩内町と函館との位置関係は下図となっ
ているからです。
図5 「岩幌町」のモデルの岩内町と函館の位置関係
普通に考えるなら、3人が犯行を起こした「岩幌町」からの逃避行としては、道内に潜伏するのでな
い限り、当然ながら函館まで出て内地に逃げようとすると思われます。そうなると、
「岩幌線」で小
沢駅まで行き、そこから函館本線に乗り換えて函館に向かうというのが常道
だろうと思われます。
しかしながら、上記(※1)の描写では、彼等は
函館より西方、函館本線とはまるで離れた地を東に向
かって−すなわち函館に向かって歩いての逃避行となっている
わけです。もし、
函館本線で来るなら、
そんな地を東−函館方面−に向かって歩く必然性
はありません。ところが、三人はそんな地を東に向
かって歩いていた訳ですから、これは当然ながら西北の方からやってきたことになります。したがっ
て、作者がこの一文を書いたときは明らかに、三人は岩幌から険しい雷電海岸を通り、前述の記述に
ある「
雷電を越えると、北尻別、歌棄、寿都と険しい道は渡島半島の北部を通ってに出る
」その
道をはるばると歩いて来たということを想定していたとしか思えないのです。
図6に北尻別、歌棄、寿都、檜山の位置を示します。
図6 推定ルートの、北尻別、歌棄、寿都、檜山
(※1)の記述に対応する部分を現在の地図を見ての推測をするため、現在の矢不来、市ノ渡付近の詳
細を下図に示しておきます。
図7 現在の矢不来、市ノ渡付近
現在、「市ノ渡」は「北斗市茂辺地市ノ渡」、矢不来は「北斗市矢不来」です。で、現在、「北斗市
茂辺地市ノ渡」には国道はなく、あるのは道道29号(図5の(※)の道)です。道道29号の北西部は谷に
入っていますので、前述の「茂辺地の山」というのはその辺のことを差していると思われます。この
道道29号は、現在では雷電海岸から続いている国道229号線から檜山郡で東方に分岐している国道227
号線の途中から更に分岐しています(図示せず)。調べてはいませんが、昔もそこに元の道があったの
ではないかと思われます。そして、道道29号は「木古内に至る鉄道線路」=旧・国鉄江差線=現・道
南いさりび鉄道につき当たります。で、茂辺地川の北側は「北斗市矢不来」地区であるのです。
更に三人は矢不来の入口にある「きぬた」という店でとうもろこしを食べているとき、店主から層雲
丸沈没事故のことを聞いて−三人は知らなかったのでした−三人の目がぎろりと光り、異常な関心を
示し−内地への逃避行の絶好のチャンスと考えた訳ですよね−て、急いで金を払って店を出ていった
ことが示されています。三人組としての描写されているものはここまでです。
−(※1)等の文章から以上のような三人組の逃避行を想定したのですが、図5、図6から
して、岩幌町のモデルである岩内町からこの地はあまりにも遠い−9/20朝に放火し
てから徒歩で来て9/21午後に市ノ渡、矢不来の地まで来るというのは
ちょっと時間
的に無理がある
と思われます。ただでさえ険しい道ばかりでしたから。それでも著者
は、岩内を岩幌と仮想名に置き換えたくらいですから、そういう逃避行を創作したの
かなと思っていたのですが(その方が面白いから)・・・
序章に挿入されたこの文章は逃亡犯三人組の唯一三人での足取りを示したものです。
しかしながら、
最後まで読むと、この描写と最後に犬飼多吉が自供した行程とまるで
一致しておらず、整合性がありません
。
弓坂が想定し、「犬飼多吉」が自供したのは、そんな無理のあるルートではなく、前
述の普通に考えられるルート−岩幌線、函館本線で函館まで来る−というものです。
そして、層雲丸の転覆沈没事故は函館で聞いたと供述しています。これは前文のきぬ
たの主人から聞いたとも一致しておりません。
折角わざわざ思惑ありげに序章に三人組の逃避行の断片を示していますけど、著者は
小説を書き進むうちの、それを忘れてしまったのでしょうか?連載小説だったそうで
すが。本にするとき、その矛盾について考えられなかったのでしょうか?
どうせ小説ですから、凡て仮想的な地名として、「東に向かって歩いてくる」という
ことから、ごっそり函館駅より東にその地を動かしたかなとしても、「函館の方角に
向かって黙々と歩いた」という一文がそれを否定しています。
ミステリーの本筋としてはどうでもいいことかもしれませんが、わざわざ序章遭難の
ところに挿入されている文章であることからそんな軽々しく考えられる話ではないと
思うんですがねえ・・・。
−実はこのことを指摘したくてこのarticleをしたためたのでした(^^;
さて、札幌署からの公文を読んだ函館署係長の弓坂警部補は結局引取り人のなかった二人の死骸の顔
を思い浮かべ、詳細を知るべく札幌署の宮越警部補に電話し、木島と沼田の写真を送ってくれるよう
依頼しました。
−ネット上で指摘されていたのですが、公文書に顔写真を添付していなかったというの
は何か片手落ちですねぇ−
。
二日後に届いたぴんぼけ写真を見た弓坂は、
引取り手のなかった二人の死骸に似ている
と感じたので
したのでしたが、そのときは部下から十九日に朝日温泉にいた三人組が二十一日に函館近辺まで来る
のは時間的に無理だと一笑にふせられ、それ以上深くは追及しませんでした・・・。
札幌署の指名手配により、全道をくまなく捜査されたのですが、三人の行方はようとわからず、
函館
管内のどこからか内地に逃亡した確率が高くなり
、函館署長指示で、弓坂を首班としての函館署の担
当となりました。捜査は難航したのですが、そんな時、弓坂配下の
戸波牛松刑事
が舟の詐取情報を入
手−
二十一日午後三時ごろ
、七重浜から、矢不来の方へ入った地点にある零細な一本釣りで生計を立
ている通称「三木」といわれる漁村酒木田辰次という漁師が、消防から来たという四角い顔の髭ずら
の大男(辰次は以前消防団にいたが、見知らぬ顔の男、土地の者ではなかった)から引き上げが難航し
ているので舟を貸してほしいと言われ二つ返事で貸したが未だ返却されていない
−男は犬飼多吉の人
相とそっくり。翌日にも行われた調査の結果、消防団の中に、酒木田辰次の持舟であるイカ釣り用の
和船を借り出した者は誰もいなかった−辰次の舟は
四角い顔の大男にまんまと詐取された
ということ
が確定したのでした。
で、弓坂は、三人が津軽海峡を舟を漕いで渡ったと断定して青森警察へ至急の捜査の依頼をしたので
したが、その回答は弓坂にとって満足できるものではなく、署長の許可を得て戸波刑事と二人で下北
半島へ−下北半島に絞ったのは、台風の影響から気象庁係官が犯人らは下北半島以外は向かうのには
困難と言明したからでした。
−この時点で岩幌の質屋強盗殺人放火事件犯人捜しに執念を持ち三人組を割りだした
岩幌署の田島巡査部長は札幌署での合同会議以後、お役御免になってしまい、岩幌
署に設置された「捜査本部」も放置された感じでなんだかなあと思いました。この
時点ではまだ引取りてのない乗船名簿に名前の記載がない二人の遺体との結びつき
は函館署の総意にもなっておらずちらっと疑念を抱いた弓坂さえ三人組で下北半島
へ詐取した舟で逃亡したと思っており、そのまま岩幌の質屋強盗殺人放火事件犯人
追跡を引き継いで行っているという形態になっていますね。しかも、岩幌署の田島
巡査部長との直接の引継ぎもなく、札幌署の出した指名手配書だけで動いています。
ですから、田島巡査部長らが「主実行者が沼田であろう」という想定も全く届いて
いなかったようです。
弓坂・戸波両名は、その日のうちに水上警察の警備船で大間へ渡りましたが、派出所での聞き込みで
渡った先は大間ではなくもっと辺鄙なところと推察。その後の弓坂の行程は、
駐在所を出て、弓坂警部補が、
陸奥湾に沿うて佐井から福浦に出て、例の仏ヶ浦の奇
勝を眺めながら、海路をとって川内についた
のはその翌日だった。そこから弓坂は汽
車に乗って、
大湊に
きた。
と述べられています。
−ここに重大な誤謬があります。小説だからと割り切ってしまえばいいのかもしれませ
んが−作者はわかっていて小説だからとして創作したのかもしれませんけど−
川内から大湊までは昔も今も鉄道はありません
!!
微妙に事実と仮想が混合されていますのであえて触れておきました。
上記の地名の下北半島に於ける位置関係を下図に示します。
図8 現在の下北半島
上図には国道や県道が記されていますが、当時はこのような道路網はなく、内陸部では
森林鉄道網
が
あって、内部の集落の交通はそれに便乗してのものだったようです。
ここで記載されている下北半島での犯人の足取りについて述べておきます。それは犬飼多吉ただ一人
のものです−
小説ではしばらく「犬飼多吉」の名前を出さずに「六尺ちかい怒り肩の体躯」の男と表
現されていますが読者はすぐにわかりますね
。
まず、彼が出現している最初の場所として次の記載があります−
大間から、岬を西へ迂回して、
海岸ぞいに平館海峡にのぞんだ険路をゆく
と、山地は
急に海に向かって突きたてたように断層崖がつづいてゆく。その中でも、
仏ヶ浦
とい
われる断崖は見事な景勝を誇っていた。詳述しておくと、この浦は、下北郡佐井村牛
滝という部落と、福浦という部落の中間にあって
、湯の沢岳という背後の山が海に落
ちこむために、そこだけ切り落とされたように、数百メートルの崖をつくっているの
だった。古くから「仏が宇陀」と近在の人びとに崇拝されているこの断崖は、グリン
タフの海蝕台地の上に、純白とも見まがうばかりの石や、淡緑色の石やで、巨大な仏
像に似た奇石怪石を抱いていた。もとより、この岸壁の突き出た姿を陸路から遠望す
ることはできない。海から眺めるしかないわけだが、この海蝕台地が、次第に傾斜を
ゆるめてゆく中腹部に、濃緑色の混成原始林がつづいていた。木樵が通るくらいのあ
るかなしかの細い道がまがりくねってつづいているのだ。
とあり、
札幌市で網走刑務所から来た老看守部長と、岩幌署の田島清之助が、会議を終わって、
風の吹く町を歩いていた時刻
である。この仏ヶ浦の巨大な岸壁に陽が照っていた。崖裾
では波が塩をふりかけたように砕けていた。その海を右に見ながらとぼとぼと歩いてく
る一人の男がいた。角ばった額と顎は埃でよごれ、無精髭が耳下から鼻下へうす黒く被
っていた。六尺ちかい怒り肩の体躯が、いかにも、背後の原始林から、とび出してきた
ばかりといった印象をあたえた。
牛滝
の部落が、ヒバ林の樹間にとびとびに見えはじめ
た時、角張った男の顔に、かすかな安堵の色がただよいはじめた。
(中略)村口にかかった時、その道は村へ下りる
路
みち
と山へ入る路との二股路に
岐
わか
れた。
とあります。ここに出て来る福浦、仏ヶ浦、牛滝付近図を下図に示します。
図9 現在の福浦、仏ヶ浦、牛滝付近
−図9と「札幌市で網走刑務所から来た老看守部長と、岩幌署の田島清之助が、会議を
終わって、風の吹く町を歩いていた時刻である、という文章を見た時、「あれれ?」
と思ったのは私だけでしょうか。
岩幌署の田島巡査部長と網走刑務所の巣本看守部長が札幌での合同会議に出席したの
は
10/6
のことです。ということは、
「札幌市で網走刑務所から来た老看守部長と、
岩幌署の田島清之助が、会議を終わって、風の吹く町を歩いていた時刻」というのは、
当然10/6のこと
です。しかるに、
犬飼ら三人組が漁師から舟を搾取して津軽海峡に
漕ぎぎ出したのは9/21
のことであり、これでは日数が立ちすぎていないでしょうか?
二週間程もたっています。犬飼多吉はほとぼりがさめるまでこんな長い間そこで過
ごしていたのでしょうか?−
そこから先は、そこにある掲示板の前にたむろしていた四五人の男女のなかの犬飼に話しかけた小男
に犬飼が大湊までの時間を聞いた時にその小男の答えと先での親切な説明の中にあります−
「
ノダイ
から
畑
はた
さ出て、畑から
川内
さ出ねばいけねぇ。川内さいけば、あんさん、軽便
が走ってるすけ・・・・・・・
」
ノダイについては、次の記述があります−
野平
のだい
というところは、四十分ほど歩くと山の中腹にひらけた開拓部落だった。
(中略)
道はこの部落を斜めに通りすぎると、材木のならんだ
森林鉄道
の出発点へきた。そこ
には、トロッコとも汽車とも名のつけようのない鉄鎖のついた枠だけの車輪と箱をつ
ないだ軌道が停まっていた。
小男は、更にその野平で
「
これさ乗れば、畑さゆけるス、それから
湯野川
からくるべつの軌道さ乗ればよ。
安部
城
つうところへ出るス。安部城さ出れば川内だスな。
陸奥
むつ
だス
」
と言っています。野平、畑、湯野川、安部城は現在も実在する地です。現在の地図を図10に示します。
1
図10 牛滝、野平、畑、湯野川、安部城、川内位置関係(現在)
ここで触れられている森林鉄道軌道−野平〜畑、湯野川温泉〜畑〜安部城〜川内はかつて実在してい
ました。ただ繰り返しますけど、川内〜大湊(現在は「むつ」市)には軽便もなにも鉄道はありません。
このことは、
水上勉の「飢餓海峡を歩く」下北半島
というサイトでも言及されていました。尚、この
サイトには当時あった下北半島の森林鉄道の路線網が示されています。
犬飼は畑で湯野川からの森林鉄道軌道に乗り換えたのですが、ここで運命の出会いと云うべき一人の
女性と出会い、彼女からおにぎりを貰っています−
杉戸八重
です。杉戸八重は川内で逃げるように材
木置き場の方に消えた犬飼と離れ離れになってしまったのでしたが・・・大湊で劇的な再会をしたの
でした。
二十四歳の杉戸八重は、大湊の歓楽街、喜楽町にあるあいまい宿「
花屋
」で、千鶴という名で酌婦を
していました。畑の部落で零細な農業を営んでいる杉戸長左衛門の次女。高等小学校を卒業し、大湊
に出て酌婦になってから八年。終戦になって、大渡海兵団が崩壊して水兵が復員して町も彼女らの商
売も不景気になったが、杉戸八重の抱かえ主の来間佐吉は、転業もせずほそぼそと営業を続けていた
のでした。八重はこの店で一番の古参でした。
大男は、その「花屋」にひょっこり顔を出したのでした。喜んだ八重に迎えられて八重の客になった
大男は、
犬飼多吉と名乗り
、八重の身の上話を聞いて、「
闇商売で儲けた金や。どっちみち、右から
左へ品物を動かしてつかんだ金や。あんたにあげる。好きなように使いなよ
」といって雑嚢から出し
た一掴みの大金の札束を八重の前に置いたのでした・・・。
−犬飼のこの行為が八重のその後の人生を変え、勿論、彼女に犬飼への強い感謝の気持
ちを持たせ続け、犬飼がその時逃げおおせた要因になるのですが、人生はそううまく
は運びません−その八重の強い感謝の気持ちが十年後に逆に、彼女を悲劇に追いやり、
本名で生まれ変わった順風な人生を歩んでいた犬飼の旧悪が露呈するきっかけになっ
てしまったことについてはその時は二人共しるよしもありませんでした・・・
さてその後の弓坂です。どうやら大湊までは一人で行ったようです。大湊
[現在は「むつ市」]
まで足
を延ばしたのは、大湊は海軍の諸施設が進駐軍に撤収され、海兵団の解体といっしょに、徴用工や施
設要員の多数が、この町から各地に散っていったという事実があり、函館の層雲丸遭難のような大事
故をまんまと逃走に利用した犯人ならば、内地への出発起点を、廃港の大湊に考えつかぬこともある
まいと考えたからです。で、これは実際には当たりで、大湊の「花屋」の主人から、犬飼多吉らしき
大男の客が来たこと、彼は千鶴=杉戸八重の客となったことを聞き出したのですが、八重は一足違い
で休暇を取っていたため、父親を連れて湯野川温泉へと行っていた杉戸八重を追いかけて接触したの
でしたが・・。
この時八重は、<
あの人を助けてあげよう。助けてあげねば、あたしの貰った六万八千円は消えて
しまう
・・・・・・>と考え、必死に、それもできるだけ自然体を装っての受け答えを−
四日前に来たのは復員服の川内の製材工場に知り合いがいて、材木の仲買にきた工藤と
名乗る男。青森言葉だった。風呂敷包みを持っていた。
この時は、さすがの弓坂もすらすらと語る八重の言葉に誑かされてしまいました。八重は、人違い
だったかな、不愉快な思いをさせてすいません、という弓坂の言葉を聞いて<うまくいった。うま
くだまし終えた>と胸をなでおろしたのでしたが、温泉の中で父親に話していた「東京に行く」と
いうのを聞かれてしまっていて、それを弓坂が話題にしたことにぞっとしたものの、ここでも、ね
ちっこい弓坂の目つきに怒りを覚えながらもできるだけ平常心を装って受け答えしたのでした。そ
して、うまくだますことができたと胸をなでおろした八重は、最後に−
「
私は嘘をいわなくてよ、刑事さん。嘘をいったって一文のとくにもならないんだから
」
と云い放ったのでした。
折角湯野川温泉まで八重を追っかけたものの、八重の必死の偽証により徒労に終わってしまいがっか
りした弓坂は森林軌道で野平まで行き、そこから戸波刑事の待つ牛滝へ−作者は記述不要と考えたの
か、戸波刑事の大間から牛滝までの行程は記載されていません。で、牛滝で待っていた戸波が、イカ
釣り舟所有の夫婦から、二十二日夜、仏ヶ浦から福浦の方によった山林の中に焚火みたいな火が上が
るのを見たとのいう聞き取りしてきたことを告げ、そこは陸路のない山の中で、行く着くためには舟
しかなく、崖からあがらねばならない、岩壁の断崖のはずれた深い原始林の下でかんたんに山へ登る
ことはできないなどと言ったのですが、弓坂は、そこに連れて行ってくれと言ったのでした。
二人はその晩は牛滝の駐在所で泊まり、駐在所の寺田巡査は焚火の主が海から入り込んだことには否
定的で、山の方から来た木樵ではないかと云ったのでしたが、寺田から、そこは国有林であり、村の
連中は冬にならないと山には入らない、と聞いて、弓坂は他所者が入り込んだ形跡が濃厚であると思
い、更に、寺田巡査が大間と川内に聞いたところ、
台風で福浦と佐井の間で崖くずれがあって国道が
遮断され
、トロッコも軌道も不通のままであり二十二日に伐採夫が入ることは無理とのことと聞いて、
意を強くしたのでした。
−なにげなく読んでいて「えっ」と思ったのは私だけでしょうか?
ここでは、「台風で
福浦と佐井の間で崖くずれがあり、国道が遮断
され」とあります
がでは、前述の「弓坂警部補は、陸奥湾に沿うて佐井から福浦に出て」との整合性は
どうなるのでしょうか?
私は図8にある国道は当時はなかったと最初思っていたのですが、ここには「国道が
遮断され」と書かれており、どうやら大間から佐井を通って福浦に至る辺りは当時
も国道はあったようですね。で、現在でも佐井から福浦に至る国道は海岸に近く、
それより浜辺寄りの道はなく、地形的に浜辺をそのまま歩いて福浦までは行けそう
ではありません。そうなると、弓坂は佐井から福浦までどうやって行ったかという
ことになります。前述の記載はどう読んでも、佐井から海路を取ったとは読めませ
んから。矛盾している気がしますが。
翌日、弓坂警部補、戸波刑事、寺田巡査の三人は舟で現地へ。午前十一時に到着しました。
現地を見た弓坂は、仏ヶ浦の奇石怪石がならんでいる下には舟をつける岩場がいくつもあるので、焚
火の主もおそらくそのあたりから岩壁をよじのぼって山へ入ったのだろう、舟はこわせば持ち運べる
と言い、焚火の跡を求めて崖を登り、弓坂が先頭でヒバ林の中を登り、やがてもみと楠の密生した原
始林になって出て来た細い木樵の歩く道を。で、道からそれた戸波が焚火の跡を発見。しかし、舟を
焼いた痕跡は残っておらず、釘一本も残っておらず、さすがの弓坂も強引に登って来たことに後悔を
憶えたりしましたが、それでも強気で「
やった罪の深さは、逃亡する心構えをいっそう慎重にさせた
と考えられないでもない。三木から盗まれた舟を焼いてしまうなんてことも、決して無茶なことじゃ
ないんだ。慎重な逃亡なら、当然計画されていいことなんだ
」と−結局、大した情報は得られないま
ま虚しく函館に引きあがることになったのでした−
昭和二十二年十月十六日の午後
のことでした。
二人も出張して、少なくとも四日は費やしましたが徒労に終わったため、帰参した弓坂は刈田署長か
らこっぴどくどなりつけられ、それ以後、弓坂は毎日叱られてばかりで気が暗い日々を送ってました。
家に帰ると、網走刑務所の看守部長の巣本虎次郎からの手紙が来ていました。巣本は弓坂とは面識は
ありませんが、弓坂が捜査を担当している旨、札幌署の宮越警部補から聞いたとのこと−文面から、
老看守部長が、
司法保護事業の欠陥から、このような凶悪犯人を野放しにした事実
を率直に認めて責
任を強く感じていることが伺われたのでした。これは元々岩幌署の田島巡査部長に面会した理由でも
あり、その時にも田島巡査部長に同様なことを述べていたのでした。犬飼に関する情報として、木島
・沼田の本籍地には犬飼なる知人はいないこと、網走刑務所に入所している懲役七年の強盗犯の男−
古田伊三次から六年前にハッカ工場で働いていた関西訛りの顎の張った髭面の男がいた−調べたら、
北見物産」というハッカ工場に草壁猪太郎という人物が半年くらい働いていて、半年後に歌志内に
移っていき、歌志内の炭鉱夫になったとのことなどがが記されていました。
その日は、層雲丸事故(9/20発生)から明日で四十九日となる日でした。妻の織江から、今、岩幌の
大火の話で持ち切りで、小学校教師のシダラの妻が、旦那の言葉として、「
岩幌の町から、朝早くに
汽車にのったとしたら午過ぎには函館に着く。岩幌の町を焼いておいて、大風の中を走ってくれば
間に合う
」と言っていたと聞いた弓坂。ちらっとは弓坂も考えたのですが時間的なことで否定されて
それ以上はつっこんで考えなかったのでしたが、ここに、可能性ありとして、
二つの死体と岩幌大火
の犯人を結び付けて考えた
人がいたのでした。
弓坂は、阿鼻叫喚の混乱の中で、三人が仲間割れして一人が二人を殺し、二つの死体が海に投げこま
れたらどうだろう、という恐るべき推理をして、それを一旦は否定したのですが、この話を聞いて弓
坂はその設楽教師の話を確認するため慌てて函館駅へ。その結果、
・朝一番は五時五十分だが、これに乗ると本線は倶知安止まり。
・つぎは八時五十九分で、九時四十六分小沢着。小沢からは四〇八列車の岩見沢初の
九時五十六分、倶知安十時二十三分、函館着十六時五十二分
と判明。弓坂は念のため岩幌線の他に本線に入り込む経路がないかどうか駅員に聞きました。
・尻別までは汽車はなく、蘭越で乗り換えて本線に連絡しているが、岩幌から尻別まで
は雷電海岸を通るしかなくバスもない−険しい道だけ。
・寿都まで行くと、寿都鉄道があり、黒丸内で連絡が取れる。寿都鉄道の時間表は−
朝一番は四時五十分で黒松内着五時五十分、二番は十時三十分で黒松内着十一時三
十分、三番は午後三時五十分、黒松内着四時五十分−これだけ。
ということで、岩幌署ので岩幌駅での徹底捜査では確かに三人らしき人物の目撃証言はなかった−そ
れゆえ岩幌署では、三人組は朝日温泉から雷電海岸を岩幌にやってきたから、雷電海岸への道で逃走
した−と考えたのでしたが、弓坂は、三人がばらばらに乗れば判らないと考え、九月二十日午後四時
五十二分に函館に着くことができる岩幌線→函館線のルートで犯人は来たと断じたのでした。
こうなると、弓坂の恐るべき推理を実証するのは、二死体と木島・沼田の顔写真の照合です。函館駅
から帰ってから、妻に、宣言したように、翌日、弓坂は、「
一世一代の大仕事−弓坂が自分の菩提寺
−華厳時−の自分の土地に埋葬した身元不明の二人の死体を掘り起こす
」ことを署長に願い出、弓坂
の熱心さに押し切られた形で許可、但し、四十九日の行事がある日だったので、ひっそりとやるよう
に、と。埋葬したのが弓坂であり、弓坂の墓地用土地だったため、当時の規定では法的問題はなく
(現在の規定では、捜査当局は、司法観察職員である警部または検察官が発掘請求者となり、裁判所
に対して、最高裁から支持されている所定の様式によって押収捜索令状なるものを発行することに
なっているが当時はまだその規定にはなっていませんでしたので)、一警部補の請求により裁判官は
これを受理したのでした。
都合がいいことに、この日は慰霊祭のため、市長も署長も会場へ列席しなければならず、立会人は市
長代理として弓坂の顔なじみの殿山金治総務課長が来てくれることになり、華厳時の住職も慰霊祭に
出席したので、ひっそりと発掘ができたのでした−結果、弓坂の推察通り、墓地から発掘された身元
不明の二死体は木島忠吉、沼田八郎の死体であることが確認されたのでした。ただちに苅田署長、函
館地方裁判所に報告され、函館署は前代未聞の兇悪犯罪の事実に大きくゆれ動き、早速、札幌警察、
岩幌警察、網走刑務所に緊急報告がされたのでした。そして、慰霊祭から戻った刈田署長は弓坂を称
賛するとともに、犬飼多吉への憎悪でふるえ、「
犬飼多吉が、佐々田質店殺しを演出し、金を盗んで
木島忠吉、沼田八郎をつれて函館にきた。そして、その共犯者を殺った。君の推理したとおり、三木
の舟を詐取した男は犬飼だ。犬飼が消防団員に化けたのだ
」と云うのでした。
−「二人が殺害され、犬飼一人が逃走した」という事実から、とうとう岩幌署の田島巡
査部長や網走刑務所の巣本看守部長の想定とはかけ離れて、本来、殺人事件の本部
のおかれた所轄警察ではない函館署では、犬飼は質屋強盗殺人放火事件の主犯に認
定されてしまいました。この弓坂らによる誤解は犬飼の必死の供述があるまで解け
ませんでした。
弓坂は署長に捜査本部の設置を要請、合わせてもういちど内地への出張許可の申し出をしたのでした。
行先は下北ではなく、富山(犬飼のリンカクを探ろうと、二人の両親に会って彼等が刑務所から出し
た手紙を見せてもらうため)と東京(杉戸八重が急に東京に出たのには不審があり、六尺近い大男が見
逃されたのは
誰かがかばった
ヽヽヽヽヽヽヽ
ためであり、八重はその一人であるので、八重を追いかけるため)。
十一月八日に函館署に「七重浜殺人事件捜査本部」が置かれ
、捜査本部が置かれると特別予算が出る
ため、出張要請は認められ、捜査本部が置かれた日には弓坂は、真犯人を掴むまでこの海峡をにどと
渡らないぞと自分に言い聞かせて一人勇んで出張に出かけたのでしたが・・・。
−もう既に札幌署も把握していて読者もわかっているのですが、木島・沼田は出所後は
手紙を出しておらず、当然、富山の木島・沼田の実家もうでは無駄骨でしかないわけで、
富山行きに関しては小説内では全く記載がなく、東京行きだけ述べられています。
さて、ここで杉戸八重の動向を簡単に触れておきます。
東京に出た杉戸八重は最初、新宿に来て貼り紙を見て「さいたま屋」という飲み屋に勤めていたので
すが、店にテキヤが入り込み、男に警戒心を抱いてそこをやめ、池袋に来て貼り紙を見て「富貴屋」
という半分が酒場、半分が甘味屋という店に「須磨子」の名で勤めました。主として酒場の方を担当
していた八重は店主のうたに気にられ、もう一人の先にいた店員の鮫島照子が父親の病気で国帰るこ
とになってやめた後は店の二階に住み込みになっていました。しかしながら、同じ青森県の出身とい
うこともあって、店で顔見知りになった運送店員の小川真次が起こしたうどん粉横流し事件に巻き込
まれてしまった上に、友人の、オンリーをしている葛城時子から弓坂が接触したことともう一人刑事
らしき男が八重を追っていることを聞き、その弓坂以外のもう一人の刑事らしき男−小川の金の行方
を追跡している池袋署の勝見刑事−が直接接触してきてつきまとった−八重が小川と同じ青森県の出
身ゆえに疑った−こともあり、折角気に入っていた「富貴屋」を国に帰るからと嘘を言ってやめ、折
角まともな業につくため上京したのに、弓坂の追跡から絶対に逃げなくてはと考え、花屋で働いてい
た経験から、娼婦の町へ入り込んでしまえば大丈夫、それも辺鄙なところがいいと考えて、
亀戸遊郭
に行き、「
梨花
」という遊郭に入り昔の娼婦稼業に戻ってしまった
のでした。
こうして、八重は徹底的に逃げ隠れたため、弓坂は結局、接触することが出来ずじまいに終わり、出
張期限も切れ、むなしく帰ることになり、犯人とおぼしき犬飼に辿りつけず事件は迷宮入りになって
しまったのでした。
もっとも、うまく杉戸八重に行きついて、例え八重が口を割ったとしても、せいぜい
犬飼多吉一人が大金を持って逃げ、八重がそこから大金を貰ったことを確認できる
だけで、弓坂が推察していたのと違い、八重は「花屋」で別れた切り、犬飼とは接
触していませんでしたから、決して犬飼多吉の行方を掴むことは出来なかった訳で
すが・・・。
(続く)
('20/10)
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