水上勉・作『飢餓海峡』について(2)(’20/10)


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     最初からネタバレが多々ありますので、ご留意くださいm(__)m
  よくある感想文ではありません。
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さて、時は過ぎ、事件発生から十年後−杉戸八重が梨花に入ってから九年後−のこと。ひょんなこと
から起きてしまった悲劇で、十年前の事件の幕が劇的な形で降ろされることになったのでした・・・

結核を患っていた葛城時子が昭和二十五年に死に、そらから七年の歳月が過ぎた昭和三十二年六月初
のある日、杉戸八重は、偶々その日彼女が一番早くに新聞を見、その時、新聞の

 刑余者厚生事業資金に三千万円を寄贈。舞鶴市の篤志家樽見京一郎氏が発起人で、更生
 施設の新設運動活発化−」


という記事とともに記事冒頭部にあった二段四センチ位の縦位置写真を目にしたのでした。

八重にとっては、その写真の樽見京一郎が犬飼多吉に瓜二つといえるほど酷似していたのでした。た
だ、記事によると、樽見京一郎は食品会社の社長であり、舞鶴市の教育委員もしているとのこと−だ
から、犬飼多吉だと思った八重は、一旦は、いくらなんでも、警察に追われていた人間が、十年たっ
今日になって社会的な地位にある人物となり、新聞の三面に、堂々と美談として書き立てられる人
間になっているとは思えないと、樽見京一郎=犬飼多吉を否定しようとしたのでしたが・・・。

そんな折、来年、昭和三十三年には売春防止法が実施されることになり、六月三日の朝、「梨花」の
四人の娼妓の中で一番古顔になっていた八重は、主人の本島進市夫婦から他の娼妓と一緒に、町内会
の役員会で、秋までに亀戸はその商売を自発的に閉じてしまおうということになったと告げられ、今
後について問わて、秋が来なくてもやめようかと思っている、ある人ヽヽヽに相談してからこれからのこと
を決めたい
と思っている、と答えたのでした。

 −これは後に警察の聞き込みで重要な証言として述べられました。
  ま、思わぬ大金をくれた恩人と云え、八重にとっては犬飼は行きづりの男でしかない
  のにここまで思い込むと云うのは、ちょっと異様な気がしますが・・・。「会いたい」
  というだけならわからんでもないんですが、「今後のことの相談に乗ってもらう」と
  いうのがいまいちわかりませんでした。更生事業に力を注いでいる「篤志家」と聞い
  て、相談に乗ってもらえるのではないかと考えたのでしょうか?
  いずれにしろ、その善意の行為が全国紙に掲載されてしまったゆえに、10年の間、常
  に感謝してきた八重に現在を気づかれてしまい、このことが樽見京一郎として生まれ
  変わった「犬飼多吉」の崩壊の序曲でもありました・・・


それから早くも三日後、舞鶴に向う八重。昭和三十二年六月七日午前十時、杉戸八重は、朝から小雨
が降ったりやんだりしている東舞鶴駅に降り立ちました−いちども来たことのない日本海辺の舞鶴へ
やってきた大胆さに、自分でも驚きながらも。
繰り返し、自分に言い聞かせている、自分の大胆さへの言い訳みたいな独白が並んでいます−

 あたしの命の恩人、犬飼さんに会える日になるかもしれない。もし、あの人が犬飼さん
 でなければ、その血筋の人に会える日なんだ・・・・・・どうしたって、自分はこの町へ来た
 かったんだ
・・・(東舞鶴駅に着いた時)

 例え「犬飼多吉」が自分のことを忘れていたとてかまわない−一目あってお礼がいい
 たいだけ・・・貰ったお金で戦後のドサクサを生き抜くことが出来、下北の親や弟た
 ちも助かったのだと心から礼がいいたかった。勿論相手は今や町の名士、なるべくひ
 そやかな再会が出来たら
・・・(会いに行くため街を歩きながら)

 −ただ、新聞に載った小さいと思われる写真だけで、樽見京一郎=犬飼多吉またはそ
  の血縁の人だなんて思い込み、樽見京一郎の住む見知らぬ街までやってくるという
  のは言葉は悪いですけど、一種の狂気を感じます。あとで気が付くのですが、この
  時彼女の頭の中には、ただただ恩人「犬飼多吉」に会いたいの一心しかなく、彼女
  の出現が相手にどう思われるかについて、まるで考えが及びもしなかったようです。


東舞鶴にやってきた八重は、駅前通りから三百メートルくらい入った商人宿みたいな粗末な旅館−
狭屋
で宿泊を頼みました。宿帳には、

 東京都江東区亀戸町1996番地本島方、杉戸八重、三十四歳

と正直に記入、100円のチップを貰った女中は愛想がよい−八重は調べて来た北吸きたすいの工場に行って
樽見の自宅を教えてもらうつもりでいて、女中に北吸の工場について尋ねたのですが女中は知らず、
樽見食品なら朝来あさくに大きい工場があると・・・で、八重は女中に北吸と朝来の工場に行ってくると
言って、下着だけ替えて、風呂を出てから着替えていた浴衣から、再び着て来たワンピースの一張羅
の服に着替えて外出−二時半のことでした。

北吸の住宅街にあった工場で樽見の自宅の住所−行永にあること−を聞き、地図を書いてもらって、
胸に動悸を打ちながら会いに出かけた八重でした・・・

 −北吸、朝来、行永というのは実在の地です。北吸は東舞鶴駅の西方であり、行永は東
  方ですから逆方向だったんですね。



     図11 舞鶴市

家は立派な屋敷−八重は<当たってくだけろだわ>とベルを。現れた奥さんに、新聞でご主人さまの
写真を見て、昔、お世話になったことを思い出し、お礼を申したくて参った、下北半島の大湊の『花
屋』の八重がきたとおしゃって下さいましと・・・。やがて八重の前に現れた樽見京一郎は、六尺近
い四十前後の肥満体の大男で、顔を見ると、四角い顎の張った浅黒い顔・・・八重は、たしかに懐か
しい犬飼多吉だと確信、嬉しさを隠せないままに、

 「犬飼さん、お久しぶりです

と。しかし樽見京一郎は返事をせず、冷たい眼ざしで八重をにらむようにみて、「わたし、樽見です」
と−その眼には、お前のような女は知らないぞ、という拒絶感が見て取れたのでした。
教育委員、樽見食品工業社長で、美貌の細君がいて書生までおいている男が、昔の娼婦の訪れをうけ
て、よく来てくれたと、よろこんでもてなせるものではない−やっとそれに気がついた八重は、躰の
燃えるような羞恥と、浅い考えでこんな所までやってきた後悔にうちのめされたのでした。
八重は十年あいだ、なつかしさと、尊敬と、感謝とをこめて、頭の奥にやきつけてきたあの男ヽヽヽの姿が、
いま、冷酷な樽見京一郎の眼によって瞬時にして拭い消されてしまう悲しさをおぼえた
のでした。

さすがに八重は諦めて、おじゃま申し上げました、それでは帰らせていただきます、と云うと、樽見
は呼び止めました。

 −樽見京一郎にとって、訪れた杉戸八重は彼の暗い過去で唯一、「犬飼多吉」の名前と
  顔・姿形を知っていて話もした女性。そのままにしておくわけには行きません。なぜ
  殺害したのかについては自供で述べてますけどね。


せっかく東京からおいでになったんだ、ゆっくりしていきなさい、と同情するような優しい声をかけ、
奥に向かって声をかけたのでした。で、顔を出した書生から細君は今しがた出かけ、三十分くらいで
戻ると聞くと、自らもてなしの紅茶を取りに−八重は待っていていいのかと迷い、また、本当に人違
いなのか、言葉も、顔も、物言う時に目尻がわずかにつりあがって動くのも記憶通り・・・<この人
は嘘をついている
・・・・・・>と思い切り、胸を急に吹きぬけてくるかなしい失望を味わったのでした。
で、相手の優し気な言葉に怪しみもせずその紅茶を飲んだ八重−息苦しくなり意識が遠のきました−
その紅茶には毒が入っていたのでした。

 −そう、小説では「毒殺」です。映画では、樽見は八重に、「犬飼さんだ、犬飼さんだ」
  と飛び付かれ、思わず八重の首をへし折ってしまう・・・八重は「ぎゃあ」という断
  末魔の叫びを残して死んでしまうんですけどね。映画の方がよりリアルで衝撃的でし
  た−大きい体で優しさがあった「犬飼多吉」=樽見京一郎には毒殺よりその方が合致
  している気がしました。


樽見は自分の屋敷で杉戸八重の殺人を実行した訳です。樽見は青くなっている書生の竹中を呼び、物
置に入れるんや、と命じ、震える手でハンドバッグの中身を点検、玄関を出て風呂の焚口にバッグの
中身を投げ入れ火をつけたのでした。戻って来た竹内にハンドバッグとハイヒールを渡し、燃えかす
と一緒にどんごろすの袋に入れるように命じたのでした・・・。

 −[注]「どんごろすの袋」というのは私は知りませんでしたので調べてみましたら、俗
  に南京袋とも称せられる、よくある麻袋のことでした。


雨は夕方になって大雨になり、樽見は人通りが途絶えた深夜、どしゃぶりの中、二つの大きなどんご
ろすの袋
をオート三輪の幌をかけた荷台に乗せ、北に向かっていずことなく走らせて行ったのでした
−そのオート三輪を見たものは誰も居ませんでした。

さて、すぐに事件は発覚し、「心中」に見せかけようとした犯人の思惑が外れ、すぐに警察=舞鶴東
署では「他殺」と想定、犯人の見落としもあって、舞鶴東署の綿密で適格な捜査により、なんと署長
に早くに犯人と疑念を持たれてしまった犯人=樽見京一郎は、過去まで暴き出され、大金を掴んで成
功者となり十年間逃げおおせてきましたけど、とうとう彼の人生の崩壊にまで至ります。

大雨は翌日八日まで続き、雨が上がったのは午後一時二十分でした。そのとき、漁夫の酒田市松が海
に浮かんでいる女の死体を発見、警察に急報したのでした。

その場所については、以下のように描写されています−

 東舞鶴から愛宕山下を海ぞいに北へ迂回して、平の村から山を越え、約四キロメートル
 ほどゆくと、コブシのような形をした半島が急にひらけてくる。外海に面した浜へ出る
 のだが、そこに三浜小橋とよばれる数十戸のかたまった部落があった。この村は白浜
 ぞいに弧をえがいて散在していた。小橋の漁夫で、酒田市松という四十歳になる者がこ
 の付近でアンジャ島とよばれる岬の鼻の小さな島へさざえ捕りのために舟を出していた。


平、アンジャ島、三浜、小橋は下図のように実在の地です。


     図12 アンジャ島、三浜、小橋の位置

舞鶴東署で一報を受けたのは、捜査係長の味村時雄警部補でした。

 −映画では高倉健さんが扮していますが、小説では高倉健さんとはまるで似つかわない
  人物像−三十八だというのに額のはげあがった、てかてか顔をしている、とあります。
  私的には「味村」という名前とその後の活動は映画の高倉健さんの方がマッチしてい
  る気もしますけど−ま、高倉健さんの味村警部補役は、特に逮捕した犯人を尋問する
  とき何か少し高倉健さんには似つかわしくないような気負いを感じてしまったのです
  けど、小説でもそこは同様でしたので小説に合わせたんでしょうね。
  尚、舞鶴東署は2005年に舞鶴西署と合併して舞鶴署東庁舎となっています。


味村は、ジープに三名の部下と嘱託医をのせて三浜部落へ。ジープが丸山の小学校前を通って松並木
のある浜にさしかかったと頃、あらかじめ舟を出す準備を漁業組合に命じておいたため、岬の根もと
に人だかりがしていました。味村はジープを乗り捨てて人だかりのところへ行き舟を出させ、市松の
案内で現場へ。四人がかりで死体を引き上げて筵の上にのせたのでした。丸い顔をした都会風の女で
した。死体は水を呑んでいないように見え、嘱託医の上林医師も慎重な言い回しでそれに同意しまし
た−水を呑んでいないと他殺の疑いも出て来るからです。上林医師は更に、「毒物を呑んでるような
徴候もみえます
よ」と・・・。

小橋の浜に引き上げて調べると、ワンピースのポケットにハンケチと一緒に、新聞紙の切れのような
もの
が・・・。部下の唐木刑事が金壺眼をひっつけて読んでみると−

 刑余者厚生事業資金にぽんと三千万円を寄贈。舞鶴市の篤志家の社長さん−

とあり、「けったいなもんを切り抜いとる。これは樽見さんの記事どっせ」と。
味村は、防犯委員もしている樽見とは月に二度くらいあっている顔なじみ。新聞に美談が出た時、署
内では一日中話題になったことでした。

 −ああ、ハンドバッグは点検しながらポケットの中まで調べなかったのは樽見の大きな
  ミスでしたね


自殺ならば遺留品があるはずですが、なにもなく、被害女性は、この樽見に関する新聞の切り抜きだ
けを持っていた−それで、味村は、ホトケの身元調べではまず樽見氏の家にたずねにゆかねばならな
いではいか、と思ったのでした。

午後四時半ごろ、味村警部補の一行が、身元不明の女の溺死体の所見を終り、東署がいつも変死体の
解剖を依頼する東舞鶴病院へ運搬すべく、漁業組合から借り出したオート三輪に載せようとした時、
アンシャ島の海上から磯に向かって来る和船にのった二人の若者が、男が死んどるぞぉ-、とがなり
立てたのでした。場所は、アンジャ島の東。男の死体が一つ浮いていると。
唐木君、行ってみようと行って味村は舟の方に走り出しました。発見した若者によると、場所は、磯
葛島と向き合ったアンジャ島の裏側−行ってみると、ちょうど女の死体の浮いていた反対側になる地
点でした。若い男、二十七、八と思われ、唐木は、都会の男のようだ、きっと心中でっせ、と言った
のでした。再び総がかりで死体を小橋の磯浜へ運んだのはもう暮れかけていた頃でした。
で、上林医師の見立てでは、女と同じ時間に死んだようだ、水は呑んでいない、死後入水である、と。
脇にいた漁師から、アンジャへ渡るためには、小橋からでも三浜からでも、浜の岬の洲を渡る必要が
あること、そこはきれいな浜であることを聞いた味村は、唐木ら二人の刑事に、それなら足跡がある
はず−島へ行ってそれの調査と、毒入りジュース瓶を捜すように指示し、自らはジープで二体の死体
を積んだオート三輪を東舞鶴病院まで先導したのでした。
そのとき、若い刑事が味村に、余所者ですな、夫婦か姉妹に見える、と言ったのに対し味村は、「引
揚夫婦かね、それにしても手のこんだ死に方が気に喰わない、入水自殺だぜ」「心中をたすける奴は
いない、心中にみせかけるのは、もう一人の人間が必要だ」と言ったのでした。

 −若い刑事が「余所者」=「引揚夫婦」かと言ったのは、舞鶴は戦後、満州・朝鮮から
  の引揚港であり、平の集落には多くの引揚者がいたゆえでした。
  しかしながら、「入水自殺」の様相から、さすが、早くも味村警部補は、殺しておい
  てからの偽装心中ではないかと疑念を持ちましたね。


味村にとって、被害女性が樽見の新聞記事を持っていたことが不思議でした−引揚者と刑余更生とは
直接関係がないし、樽見食品の工場とも関係ありそうには思えませんでしたから。

舞鶴東署に戻った味村は、部下をいち早く引揚擁護局に聞きに行かせたが、三十分後、該当者はいな
いという報告がなさたのでした。東舞鶴署には新聞記者が大勢詰めかけていましたが、味村警部補は
署長と相談の上、身元割出しには各新聞の協力が必要だと思い、すぐに事実をそのまま発表したので
した・・・。

 −これは正解でしたね

その夜午前零時に始められた死体解剖の結果は意外な判定で、府警本部から来た鑑識官が解剖所見に
立ち合い、深夜に次の発表がなされたのでした−

 死亡時刻は二死体とも六月七日午後五時から八時ごろと推定
 男は頸に他から圧力を加えられたと疑わせる皮下出血があり、死後入水はほぼ確実
 自殺を装わせた殺人の線が濃厚
 但し、女性による無理心中という線も同様の状況になる


これを聞いて味村は頭をかかえてしまい、樽見京一郎を訪問してみようと考えました。

 −「意外な結果」「頭をかかえた」という設定がちょっとわかりません。なぜなら、味
  村は現場で偽装心中だと見抜いていましたから、「意外な」結果ではなく、想定通り
  の結果だったのではないでしょうか?それとも、「女性による無理心中という線も同
  様の状況になる」という付帯意見のことを指しているのでしょうか?
  あと、「樽見京一郎を訪問してみようと考えました」とありますけど、女のポケット
  に入っていた切り抜きを見た時すでに「ホトケの身元調べではまず樽見氏の家にたず
  ねにゆかねばならないではいか、と思った」とあり、それは味村が描いた既定の方針
  だったはずですよね?


勿論、相手は町の名士、「俺は知らない。迷惑な話だ」と断られてしまえばそれまでだが、とにかく
勇気を出して尋ねに行くことにしたのでした。

 −味村は、現場で「ホトケの身元調べではまず樽見氏の家にたずねにゆかねばならない
  ではないか、と思った」のですけど、相手は町の名士。少し気おくれがあったみたい
  ですねぇ。ま、味村自身はその後も、樽見京一郎自体には疑念を抱いていない−とい
  うか篤志家の町の名士がまさかと思っていたようですが、先ずそれしか手立てはない
  訳で、「勇気を出して」というのは、それでも相手が相手だから事情聴取することさ
  えびびっている感じがしました。この時、署長に相談せず独自で会いに行ったのはそ
  ういう気持ちだったからですねぇ。


屋敷のベルを押すと、三十七、八の細君らしい細面の美貌の女が顔を出しました。味村が、おたずね
したいことがあるので、五分間ばかりお目にかかりたいというと、警官が来たということへの驚きか
瞬間、細君の顔つきがぴくりと動いたようなのに目を止めたのでした。奥に引っ込んだ細君が三分く
らして戻ってきて、どうぞおあがり下さいましと。やがて細君がお茶を運んで来たのと入れ替わりに
京一郎が現れました。

味村は早速、今日の新聞を読んだかと尋ねたのに対し、京一郎は、新聞を読んでいないが何か、と。
で、味村が、小橋のアンジャの島で、男と女が死んどりまして、と云うと、京一郎はギロッと眼玉を
動かし味村を睨みつけた
のでした。で、味村は、ポケットから女性のポケットに入っていた新聞の切
り抜きを出して、身元がわからないので心当たりがないかと思っておたずねにあがった、と。
これに対し、ふるえる手で切り抜きを受けた樽見は、ふりしぼるような声で、「その男はうちのタケ
ナカじゃないかな。きっとそうだ。一昨日の午後から戻ってこんのできになっとったんですよ」と。
そして、ドアの方に向かって細君に、「タケナカを訪ねて来た女は何といったかな」と。それに対し
知りません、タケナカは何も言いませんでしたと答える細君。樽見は、「たずねてきよった昔の女と
・・・・・・あいつめは死にくさったんじゃ、きっとそうじゃ、困ったことをしてくれた・・・・・・」といい、
すぐ連れてってくれ、タケナカにちがいないと思います、と云うのでした。で、味村は樽見の狼狽ぶ
りに茫然としていたのですが・・・。

 樽見は味村が出して来た女性の所持していた新聞の切れ端を目にして、内心「しまった」
 と動揺したはずですね−「ふるえる手で」とか「ふりしぼるような声で」という樽見の
 状態はそれを表していますね。いずれ男の方は書生の竹中であることはつきとめられる
 であろうと思い、先手を取ったつもりで、男はタケナカだろうとし、幸いまだ女の身元
 は割れていなさそうだったので、このように取り繕ったのでしょう。
 ま、よくある物語の場合、この時点で味村が樽見に疑惑を抱く訳ですが、まだ味村はそ
 こまでの疑惑を感じていなかったようです。


樽見はタケナカについて、書生に来てから五年。名前は竹中誠一。東京にながらくいたというだけで
詳しいことは知らない、性格に陰気なところがあり、神経質な男だった、と言い、更に、一昨日、タ
ケナカをたずねてきた女がいて、細君が応対に出ると、竹中というものが厄介になっていないかと云
うので、竹中を呼び、女が来た旨を告げると竹中は蒼ざめ、それでも玄関で立ち話をしていて東京か
ら知り合いの女が来たので、東舞鶴を案内したいと、今日一日ヒマをくれるように依頼。許可すると
三時過ぎに二人は家を出て行ったと、しゃあしゃあとでまかせを言ったのでした・・・。そして、
ジープで連れて行き、面通しさせると、樽見は、タケナカにまちがいないと証言したのでした。

と、そのとき、唐木刑事が顔を出し、味村を廊下に連れ出して、八島の若狭屋という宿から妙な報告
があったと−そこは女が休憩した宿で、

 七日の午前について、二時間ばかり休憩して荷物を置いて出ている。
 女中が宿帳をみると、東京の亀戸の住人で、名前は杉戸八重。さっそく東京へ電話で紹
 介してみたら、娼妓だった。亀戸遊郭の『梨花』という店で九年も働いていた古株の妓。
 六月六日に東京を出ている


とのこと。

 −「八島」は「八島通り」の名で現存しています。東舞鶴駅の北方です

これを聞いた味村は首をかしげたのでした−書生が遊女と恋愛していたのだろうか。樽見家で五年書
生していたので東京で娼妓と知り合うとするなら、竹中二十二歳のとき。杉戸八重は三十四歳とのこ
と・・・変なカップルであると。

味村は唐木刑事を若狭屋に向かわせたあと、何食わぬ顔で樽見に質問したのでした−竹中は兵庫県の
男と言ったことに言及し、竹中が故郷に帰ったのはいつごろか−。これに対し、樽見は待ってました
とばかり、今年の春ごろ、竹中には女がいることを口走った、詳しいことはきかなかったが、と。そ
して、竹中の欠点をあげつらい、怒って見せたのでした。で、味村は竹中について矢継ぎ早に質問−
聞きたいのは、この町に、誰か、もう一人、こんどの心中になんらかの意味で関係していた男がい
たんじゃないかということです
」と言い放って樽見の様子を伺ったのでした。で、樽見は視線をそら
し、味村は何げなく、樽見の指がせわしく動くのをみていました。

 −味村は樽見が明らかに動揺しているのを見て取っていますけど、まだ、犯人ではない
  かと云う疑惑までは抱いていなかったようです。


十二時過ぎ、味村は、朝来あさくの工場へ行くという樽見と別れ、署に戻ってきました。待っていたように
唐木刑事が報告を。現場捜査の結果は−

 小浜の浜へ出る横道に、かすかにオート三輪のタイヤの跡あり
 二、三人が歩いたような足跡はないが、浜から岩場にうつるあたりに大きな足跡のよう
 なものあり
 ジュース瓶のようなものは無し


そして、若狭屋の女中の聞き取り結果−

 部屋に案内された女−杉戸八重はにこにこして愛想がよかった
 女はハンドバックを持って出た(→現場付近には見つからなかった)
 女は、北吸はどこか、そこに樽見という食品工場がないかと聞いた
 心中するような顔ではなかった
 下着だけ変え、スーツケースを置いて、今晩は必ず戻るので泊めてくれと頼んでいる


好奇心を目に表している唐木刑事と、同僚・堀口との間で議論がなされましたが、味村警部補はぽつ
りと言ったのでした−「行永から平をすぎて小橋の浜までゆくのに、誰一人すれちがわなかったとい
うのはおかしい、新聞が騒いでいるのに二人を見たという届出がないのは気に喰わない、この謎を解
いてくれ」


徹底的な捜査の結果、カップルはバスもタクシーにも乗らず、全く目撃されなかったのでした。
<どこかに間違いはないか!>・・・味村は署長に報告−

 今のところ、杉戸八重を見たのは−若狭屋の女中、北吸の樽見食品の缶詰部の出庫係の
 男、樽見の敏子夫人の三人のみ→これらは、杉戸八重が行永へくるまでのことを立証す
 るだけで、肝心の竹中誠一と二人で歩いた証明にはならない
 もう一人の人物が小橋に待っていたとしか思えない
 大きな足跡については足型というだけで確定的ではないが、竹中や八重のものではない
 ことは明白
 疑問なのは、八重のハンドバッグと竹中の靴の行方がわからないこと


署長のところには府警本部から他殺かどうかはっきりしよと催促の電話が来ているとし、味村に、他
殺と思うか、と。これに対し味村は、そんな気がする、もう一人の男が小橋で待っていたと推定して
いる−東京の城東署への調査の問い合わせでは、

 八重は東舞鶴に男友達を持っていた形跡なし
 人づきあいのいい女で心中したり自殺したりするような女ではない
 二百万円以上の貯金(郵便貯金と銀行定期)を持っていて、その金は東京に置いたまま
 娼妓をやめたら青森の田舎へ帰ってタバコ屋でもひらくと同僚には漏らしていた


と。第三者は竹中の知り合いだろう、ただ、他殺とすると動機が全くわからない、と・・・

その翌朝−6/10ですね−署に、亀戸の「梨花」の主人の本島進市から手紙が届きました。そこには
八重について次のようなことがしたためられていたのでした−

 八重は、下北の田舎に帰るつもりだが、それについて相談しなければならない人がいる、
 その人に会って、身のふり方をきめるつもり→竹中という若い書生に相談にいったとは
 とは考えられない、八重の客は、年の若い客より、四十前後の客が多い
 樽見という人は昔八重が知っていた人ではないか。
 八重の部屋で六月一日付新聞でカギ形に切り抜かれた新聞が発見された−その新聞に刑
 事が持ってきた切り抜きをはめるとぴったり合った


署長は、手紙から「八重が誰かに身のふり方を相談するんだといっていた事実・・・・・・新聞を切り抜い
たところを見ると樽見さんの名を知っていたとみえる
」と。

 −味村が署長の眼の隅に、小さな光をやどっているのを見た、とあり、未だ半信半疑の
  味村より先にもうすでに署長は樽見への疑いを抱いたようですね


味村は、樽見京一郎の六尺近い巨体を思い浮かべ、小橋の浜で発見された二つ三つの大きな足型を考
え、恐ろしい空想が頭をよぎりましたが、心の中で打ち消したのでした・・・
しかし、署長の萩原利助は、八重がなつかしさのあまり切り抜いたという見方の方を肯定したくなっ
ていたのでした。

 −鋭い署長ですね。相手は食品会社の社長で防犯委員もしている町の名士ですから、普
  通は署長はそんな疑いなど持たずに、むしろ部下がそういう疑いを先に出してそれを
  否定するというのがミステリー小説・ドラマではよくある話ですけどね(笑)。


で、味村に樽見京一郎と会ったときの樽見の様子を尋ねられ、別に疑わしい点はなかった、ただ、書
生の死にはひどく動揺しているようだった、と答えながらも、心の中では一旦否定した大きな足跡と
いう一事にこだわっていて、「樽見さんにも十分疑惑はありますね」と。で、署長からその理由を聞
かれた味村は−二人がいっしょに出かけたというのは樽見の証言だけ、第三者の証言がない−と。で、
捜査はふり出しに戻って樽見証言をも疑ってかかる必要があるな」と署長。同様に大きな足型につ
いても疑念を持っていたのでした。ただ、署長も相手が相手だと云うことを十分認識していて、確固
たる証拠がないとことにはうかつなことはいえない、腹にしまい込んでそのつもりでやり直してくれ
るかと指示したのでした。

味村が刑事係の部屋に戻ると、唐木が待っていたように、東京の城東署からの伝言で、「梨花」の主
人の木島と八重の父親−七十二歳の杉戸長左衛門が、今晩の夜行で向こうを発ってやって来ることを
伝えたのでした。乗り換えの便が悪く、到着の電話をしてきたのは翌日−6/11ですね−の午前十一
時でした。青森の下北半島から一昼夜東北線にゆられ、さらに東京から東舞鶴まで来た老父にはかな
りの疲労と衰弱が見られました。

 −実は私は、「梨花」の主人の本島進市からの手紙が届いたこととその内容にストーリ
  の不自然さを感じてしまいました。
  日程を含めた経過は、

   6/8 ・二人の水死体が発見される。
            
   6/9 ・朝刊で女性の死亡を知った若狭屋から舞鶴東署に連絡
            
  ・舞鶴東署から東京・城東署に捜査協力依頼
            
  ・城東署員が「梨花」に聞き取りへ
            
  城東署から舞鶴東署に聞き取り結果報告
            
  ・城東署から下北の八重の父親に連絡
            
  ・八重の父親、下北を出発
            
  6/10 ・舞鶴東署に「梨花」の主人の本島進市からの手紙が届く
            
  ・「梨花」の主人の本島進市と下北の父親が合流して東京を出発
   城東署から舞鶴東署にその旨連絡
            
  6/11 ・二人が東舞鶴駅到着

  でしょう。ですから、舞鶴東署が本島から手紙を受け取ったのが6/10ですから、本島
  は前日6/9城東署捜査官聞き取り調査を受けたのちに手紙を書いて出した筈です。
  しかしながら、本島は翌6/10、下北からやってきた八重の父親と舞鶴に向けて東京を
  旅発っています。なぜ、そうならわざわざ手紙を舞鶴東署宛に出したのでしょうか?
  ま、それはそれとして、その手紙の内容でおかしいところがあります−
  「刑事が持ってきた切り抜き」とありますけど、これはなんでしょうか?新聞の切り
  抜きは、6/8発見時に死体のポケットから唐木刑事が発見したものであり、その切り
  抜きは6/9に味村が樽見に見せています。「刑事が持ってきた」の「刑事」は東京の
  城東署の刑事の筈ですけど、そんな状況中で鶴東署にある証拠品の「新聞の切り抜
  き」が同日、遠い東京の城東署員が持っている筈はありえません!。勿論城東署か
  らの電話連絡にはそんな話は当然出て来ていません。
  自然なストーリなら、本島が舞鶴東署に切り抜かれた新聞を持参して、舞鶴東署で
  証拠の切り抜きと合わせてみて「一致した」と判断するというものでしょう。
  それから署長の云ったことが続くのではないでしょうか?


やってきた二人からの聞き取り−まず尋ねた「梨花」の主人の本島進市の話では−

 八重のところに来る手紙は、青森からのものくらい
 明るい性格の割には交友している女友達も男友達もいない
 客には一見さんが多く、樽見が「梨花」の八重の客になったという記憶はない
 八重は軽率なところはなく、一夜だけの客とねんごろになるという人ではない


と。次にやっと少し元気を取り戻した父親から聞き取りを−

 東京に出るまでどこにいたか?−大湊の喜楽町の『花屋』
 花屋の商売は?−女郎屋
 樽見とか竹中という名は知らない


その後に、犬飼多吉=樽見京一郎に繋がる情報がなく、失望のいろが濃くなっていた萩原署長がぴく
りと反応した証言が父親の口から出てきました−十年前、警察が八重を捜していて、畑の家にも二ど
ばかり来た
。更に詳しく聞くと、

 ・弓坂という名の函館の刑事が熱心でさいさい足をはこんできたこと
 ・八重のところへ六尺近い大きな男が来なかったかと聞いて来たが、畑の家には来な
  かったし、八重も知らないと云っていたので、「知らん」というと、弓坂は東京ま
  で八重をさがしに行った


と。これには、署長と相村は顔を見あわせた。

二人を部屋に残し、萩村署長、味村警部補、唐木刑事は廊下に出て−

 十年前に八重の里をたずねた函館署の刑事がいた・・・・・・その時の大男は、樽見京一郎だ、
 六尺ちかい大男はそうざらにいるもんじゃない


と。

 −以後、ますます意を強くした署長の陣頭指揮の元、樽見京一郎にターゲットを絞り、
 未だ半信半疑の味村の尻を叩く感じで−


署長は味村に、弓坂に会うため函館に行くよう指示したのでした。

味村はその日の夕方東舞鶴駅を出発。敦賀発京都行き列車に乗り、東海道線に乗り換え、東京から、
上野発で青森まで直行するつもりで出発したのでした。二昼夜にわたる長距離の車中の中で味村の胸
ははりさけんばかりだった・・・。味村には、未だ、樽見京一郎があの犯罪を起こしたことが信じら
れないでいたのでした。しかし、署長は、

 「十年前の事件やまというのは、樽見京一郎の今日の位置を天から引きずり落すくらいの大
 事件かもしれない、十年前といえば終戦の翌々年だ、まだ日本全土が、焼野になってい
 たころ、そのころに樽見京一郎は何か大きな犯罪を仕出かして、逃亡し、そのときに知
 り合ったのが八重で、その八重の出現により、樽見は今日の護身をはかるため八重を殺
 害し、処置に困って竹中をまきぞえにしたに決まっている−現場が何よりも符合してい
 る」


と断言したのでした・・・。

 −よくあるミステリーとは違い、舞鶴東署のトップである警察署長が、篤志家である町
  の名士である樽見京一郎を犯人だと断定し、捜査をその線に集中させてるのは犯人=
  樽見にとっては厄介なことでしたし、署員にとっては署長に引っ張られる形でしたが
  遅かれ早かれその線が正解となりましたから、ある意味、動きやすかったですね。


汽車に乗る前、味村は京都府警本部を通じて函館署に連絡を取った結果、弓坂はもう現職の警官では
なく、剣道関係の嘱託として働いている
とのこと−楽観はできないぞと気を引き締めたのでした。
六月十三日の朝、津軽海峡を連絡船で渡りました。函館署に行き、刑事捜査係長の小田警部補のとこ
ろへ。しかし小田は、事件簿を見ても何もわからない、当時の署長−刈谷治助警視正−は既に死亡し
ており、今の署長はそれから五代目。詳しいことは弓坂さんに聞いてもらえないか、と言うのでした。
弓坂は六十近いがかくしゃくとしており、道内で剣道七段は彼だけ−札幌と函館の両方の養成所の剣
道指南を兼ねていて、今日は在宅と−味村は地図を弓坂家の地図を教えてもらい、たずねていきまし
た。

味村が、すぐに、大湊の方で娼妓をしていた、下北の山の中にある畑という部落の杉戸八重のことを
切り出しますと弓坂は思い出したのでした−「あれは、層雲丸の事件だった」勝手に喰い下がって下
北まで行き、どうどう東京までその女を捜しに行ったが、結局、わからずじまいで、帰ってから署長
にこっぴどく叱られたと。そして、あれはまだ未解決なはずです、と。そして、事件と弓坂の捜査に
ついて詳しく話をしたのでした・・・。

弓坂の話を聞き終わった味村は−この男は、おそろしい話をしていると。たしかにその大男ヽヽ犬飼多吉
と杉戸八重はつながっていた、犬飼多吉こそ樽見京一郎だ、と。
で、味村は、杉戸八重は死んだ、市内の樽見という男の家をたずねて、そこの書生といっしょに死体
になってあがった、と。そして、わたしがたずねにあがったのは、じつはその樽見京一郎という人に
ついて知りたかったため
であり、今の話で、その人物の素性がはっきりした、と言い、書生の竹中は
若い男で八重とは全く無関係、今の話を聞くと、八重と懇親な関係にあったのは樽見京一郎−樽見京
一郎こそあんたの捜しておられた犬飼多吉にちがいない、−犬飼多吉が偽名、樽見京一郎が本名−と
言ったのでした。で、弓坂は、味村から、樽見京一郎が篤志家で、法務省の刑余者厚生事業資金とし
て三千万円の私財を寄贈したと聞き、「その寄付した奴の根性がわかります」と。事件当時、問題に
なった保護観察の不備のことを言ったのでした。そして、樽見の寄付について、刑余者更生事業を何
とかしたいと心から思ったものか、篤志家になりたいという名誉心が働いてそんな思いつきをしたか
どっちにしろ、十年前の犯罪が、迷宮に入ったという喜びと名誉心が働いて、世間を甘くみた結果だ
ろうと・・・。味村はこれに同意し、その奇特な行為が、全国版の新聞に載ったために、杉戸八重と
いうこの世にいきていてくれては困るたった一人の犬飼多吉の目撃者が出現した
のです、と。

 −これこそ、私が「タラ・ネバ」と思うことです。全国紙に載るような多額の寄付など
  しなければ、杉戸八重の眼にとまることもなく、また、八重はそんな記事の写真だけ
  でわざわざ樽見に会いに行かなければ、起こることはなかった殺人でした


六月十四日早朝、味村警部補は、同行すると申し出た弓坂老剣道家と一緒に津軽海峡を渡って舞鶴へ
向かったのでした。前日、弓坂の案内で函館署に向かった味村は、ようやくのことで、「層雲丸事件
目録」「華厳寺二死体始末書」「沼田八郎、木島忠吉死亡確認書ならびに引取り人通知書写」「矢不
来和船盗難書」「岩幌大火関係書類綴」「田島清之助氏書信」「巣本虎次郎氏書信」「犬飼多吉捜査
経過報告一部二部」が一括されてある古ぼけた和紙綴じの束を見つけ出したのでした。

二人は六月十六日、東舞鶴駅に戻ってきました。
味村の出張の成否如何によって、樽見京一郎の追及がかけられていた東舞鶴署では首を長くして味村
の帰任を持っていました。その間、樽見の細君の敏子を呼んで事情聴取しましたが、署長は、この女
は嘘をついているとは思いながらもうまくかわされてしまっていました。刑事たちの捜査により七日
には敏子の買い物で外出して家には不在だったことを確認し、敏子の不在時の樽見京一郎の犯行とい
う心証を得たくらいでした・・・。

東舞鶴署では、味村警部補と弓坂を迎え、全刑事を二階に集めて十六日深夜二時まで緊急会議を実施
いました。席上、味村警部補は、

 八重に見つかってはならなかった樽見京一郎は、十年目に無心な八重の来訪に驚き、十
 年前の兇悪が露見するのではないかと思って、突発的に、八重殺人を思いついた。
 樽見京一郎は十年前の恐るべき犯罪隠蔽のための第三の殺人を遂行、その犠牲者は竹中
 誠一に相違ない


と言い、皆うなずいたのでしたが、空虚な色が漂っていた−犬飼多吉が、舞鶴市に住む樽見京一郎で
あるという確証ヽヽはない
のでした。

相手は社会的地位のある人物。署長は考えた末、家におしかけるのではなく、府警本部に連絡して
「アンジャ島殺人事件本部」を設置し、第一の証人尋問として書生竹中誠一の雇い主の出頭要請す
る−樽見追及は、あくまでアンジャ殺人の線から押していく、と。

尋問は竹中のことから開始。味村はそのときの樽見の様子を見ていました。やがて、尋問は北海道
のことに・・・。そして核心に迫る尋問をすると−とうとう樽見は怒りだし、もう帰ると。で、弓
坂が「犬飼多吉」の名を出し、似ていると疑念をぶつけたのですが−弓坂が云っていたほど簡単に
崩れる男ではありませんでした・・・。

樽見が怒って帰ってしまった後、署長は味村に言ったのでした−、とうとう怒らせてしまったね、し
かし、これでいいいんだ、こうなる日が来ると思っていた、われわれは奴に挑戦状をたたきつけたこ
とになる
・・しかし、狼狽していたことは事実、異常な狼狽だった、と。そして、(当時犬飼を追及
していた)弓坂が同席していたことに内心どうてんしたことは顔に出ていた、と。

府警本部から来ていた師星巡査部長が、あの男はあやしい、しかし、鉄壁のアリバイを持っている、
樽見京一郎が犬飼多吉だという確固たる証拠をつきつけない限り、アリバイは崩れそうにない−二つ
の線からつきとめてゆくしかない・・・層雲丸事件から犬飼多吉の足取りを追って樽見京一郎までた
どりつくこととアンジャ殺人の究明、だと。

一方、味村は、どうして樽見が八重を殺す必要があったのか、層雲丸事件以外にも理由があったので
はないかと疑問を口にしたのでした。

このとき、竹中の父親がほとけの顔が見たいと来署。署長は、樽見が知らせたのだろう、樽見の証言
に嘘が無かったか聞いてみようと−いいところに来た、一つ一つ石垣を潰してゆかないことには樽見
の足もとはくずれない、と。

そんなある日、舞鶴署に置かれた捜査本部に差出人のない一通の投書が−内容は、新聞ではアンジャ
島の死体がどこからか流れて来たのではないか、と書かれていたことに関して、参考までとして漁師
である経験からの推測がしためられていました−男女はアンジャの近くで死んだのではなく、栗田湾
に出た由良の東神崎あたりのはなから流れたのではないかと−かつてうどん粉を積んだ舟が、東神崎
の沖合で転覆し、海上に散った白い粉が舞鶴湾へは入らず東へ帯状に流れ、博奕岬をヘテ、この事件
の現場であるアンジャをつつむようにして分流したのを記憶している、と。


     図13 栗田湾からアンジャ島

署長が一考に値するようなことを言ったのですが、既に漁師からアンジャ島にはいろいろ流れ着くこ
とを聞いていて唐木刑事の報告書にもそれが書かれていることを知っている味村は、それより藁をも
掴む思いで、そのうどん粉を運んでいた舟はどこへ運ぶものだったのか−でんぷんとうどん粉は異な
るがその舟のことが気になっている−この事実から東神崎の沖へ流せばアンジャ島に流れることを事
前に知っていてトリックに使うことも可能になると・・・こじつけかもしれないが、と言ったのでし
けれど、これには苦笑する署長でした。

署長指示で捜査班は三班に分けることに−

一班:東舞鶴署で樽見の身辺調査。
二班(唐木刑事ら):樽見の故郷−北桑田郡奥神林村字熊袋−と竹中誠一の在所−兵庫県加東郡東条村
         新定−の調査(樽見と竹中の結びつき、竹中と八重の接点の調査)
味村警部補   :東京に行って、八重の東京に出て来てから「梨花」まで東京での足取り−東京で
         の樽見と八重と接触有無についての調査

味村は、場合によっては青森まで行きたいと申し出て署長の了承を得、味村が気にしていたうどんこ
舟にこだわる唐木には、保安庁によって、海流のデータを正確に教えてもらうことも必要−東神崎あ
たりから流れたなら、由良半島の栗田湾側もよく調査してみる必要がある、三時過ぎに行永を出れば
夜までには由良にだってつくことができるのだ、と。

味村は若狭屋に宿泊している弓坂をたずね、署長の命令で東京に行くことになったと告げ、結局、翌
六月十九日朝、味村は弓坂吉太郎と連れ立って東舞鶴駅から山陰線で京都に出て、東海道線に乗り換
えて東京へ向かいました。

 −このとき、二人共、杉戸八重が大湊を出てから十年間、犬飼に会わなかったはずはな
  い、五年前または少なくとも三年前に犬飼は八重から遠ざかり、例の記事で八重に嗅
  ぎつけられたのだと思っていたのでしたが、事実はそうではなかったんですけどね。
  ま、犬飼が花屋でいわば無造作に大金を八重にやって、八重がそれを一生恩に着続け
  ていたなんてのはなかなか思いつけることじゃなかったのでしょう。


一方、唐木刑事は同僚の倉橋刑事と、味村より一時間遅い列車で発ち、まずは西舞鶴で下車し、海上
保安庁をたずねました−栗田湾のうどん粉をつんだ舟の転覆の件と署長から指示されたように、潮流
の習性をたずねるためでした。−うどん粉満載の舟の転覆事故は五年前のこと、舞鶴市の食糧営団に
入る途中のことでした。で、潮流については、栗田湾の沖の潮は、投書の通り、舞鶴湾には入らず、
博奕岬の方へ瀬戸を渡ってアンジャ、沖葛島の方へ北流する、栗田湾から同時にふたつの死体を流し
たとすると充分事件の現場は現出するだろうと。早速署長に報告し、次は、樽見の本籍地へ。西舞鶴
駅前から和知行きの急行バスに乗ったのでした。行程について次のような説明があります。

 北桑田郡は京都府でも最も北端にある郡部である。いわゆる丹波山地といわれるいくつ
 もの山塊の奥地に位置していた。舞鶴を出たバスは、南下する山陰線の列車に沿うて、
 綾部盆地との中間を遮断している山塊をくぐりぬけるが、ふたたび、上林川に沿うて北
 へ入り、迂回して山家に下る。鶴ケ岡へ入る道は、この上林川の分岐点にあった。
 唐木刑事たちはバスの車掌にきいて、念道の村から、山家を出発したバスに鶴ヶ岡ゆき
 の便があるときいたので、ここで降りたのだ。


地図好きな私ですので、どこまでが仮想的なものでどこが実際存在する(した)ものか興味があり、現
在の国土地理院地図とgoogle mapを眺めてみたのですが・・・。
北桑田郡と云うのは昔は実在しましたが現在はその名はなくて南丹市となってはいます。で、奥神林
村という地名は昔も今もなく、上林川沿いには昔存在した奥上林村をもじったものかもしれません。
但し、北桑田郡ではなく何鹿郡(現在は綾部市)ですから、名前も場所も仮想的なもののようです。
「舞鶴を出たバスは、南下する山陰線の列車に沿うて」とありますが、舞鶴から南下する鉄道線は山
陰線ではなく舞鶴線です。綾部までは舞鶴線、綾部で西北から南東への山陰線に合流しています。
「西舞鶴駅から和知行の急行バスに乗った」とあるのですが、南下する鉄道に沿うた道路は現在は国
道27号線です。現在、この国道27号は図12のように山家付近を通って和知まで続いていますので、
「急行バス」ならそのまま進んで行くはずだと思う訳ですが、「ふたたび、上林川に沿うて北へ入り、
迂回して山家に入る」という記述とは現在の国道27号線とは合致していない感がします。国道27号
線と上林川の接点は、現・綾部市山家にしかないのです(図13)。由良川の間違いかもしれません。
図13に示すように、山家付近で由良川と上林川の合流があり、国道27号線と県道1号線の合流があり
県道1号線は山陰線山家駅に繋がっています。尚、「北上して・・・迂回して山家に下る」という記
述のみ着目すると、*1の道路で*2から県道1号に入るというのも考えられますが、*1が昔からある
道かどうか不明であることと、上林川に沿って北上という記述から違う気がします。


 図14 現在の西舞鶴駅、山家駅、和知駅辺り(舞鶴線、山陰本線、国道27号)


 図15 現在の山家駅付近

「鶴ケ岡行きバス」に乗り換えていますが、鶴ヶ岡は旧鶴ケ岡村−現在は南方市美山町鶴ヶ岡があり
ます。但し、現在の地図で見ると県道1号から鶴ケ岡に直接繋がる道はないようです。それらしい道
は途中山地で途切れているみたいです。


 図16 現在の山家、上林川、鶴ケ岡付近

二人は鶴ヶ岡で下車。ウドンと看板のあった店でかけうどんを二杯づつ食べ、熊袋までどれだけかか
るかと聞くと、これから五里半もある、とのことで

 盛郷を通って、そこから福居へまわって、大汲へ出て、大汲の権現様から、まだ一里も
 奥


と。盛郷、はそれぞれ南方市美山町盛郷、南方市美山町福居として実在しましたが、明らかに仮想的
な地と思われる熊袋は勿論のこと、もっともらしくルビがつけられている大汲おおくみも実在か否かわかりま
せんでした。下図の地方道の先はgoogle mapにも国土地理院地図にも道はなく山地です。


     図17 鶴ヶ岡、盛郷、福居

二人は駐在所で自転車を借りて熊袋を目指しました。大汲の部落を二時過ぎに通り、熊袋に着いたの
時は三時過ぎでした。多くは粗末な藁ぶきの家が十二、三戸、傾斜面にへばりつくようにたっていま
した。樽見の家を聞くと、一人住んでいた母親が五年前に亡くなって今はもうないとのこと。
本屋であるいとこによると、京一郎の父親は小学校に入るか入らないかくらいの時に死亡。その後は
母親たねが一人で育て、京一郎は小学校を出てから大阪の酒問屋に丁稚方向に行ったが、それを嫌っ
て十七、八の頃、北海道へ。どこで働いていたかは知らない、と。京一郎は大男なのに「甲種のくじ
のがれ」で召集されなかった・・・。今は小屋になっている生家を見たがひどい家でした・・・。

次に役場−役場の出張所になっている区長の家に行き、区長の常磐参左衛門からもう少し樽見につい
て話を聞きました−区長は樽見のことを立身出世の人とべたほめ。樽見は一年生の時から体が大きく、
上級生もちりちりすろような統率力があり、「熊袋の京」の名は子供の間に轟いていた。勉強もでき、
運動会ではあらゆる種目でほうびをどっさりとった・・・彼の家の田は分家田圃−長男以外は一番苦
労が多いところ。それに汁田−川底に出来た沼のような田。父親が早くに病死し、母親一人でそんな
田で作業をして苦労して京一郎を育てたなど・・・。
京一郎は小学校を卒業すると大阪の酒問屋に出たが、気に入らず転々とし十七、八のころ北海道へ
倶知安農場の使役に−樽見は、倶知安にいたことだけは告白していましたけど詳しいことは話しま
せんでした。母親にはきちんと送金してきていた、戦前はよく帰って来ていたが終戦後はあまり帰ら
なかった・・・母親は五年前に死亡。過労?
この聞き込みで唐木刑事は、椅子を蹴って出て行った樽見京一郎の、あの人生に対する不遜なる自信
と反骨の精神の根底にあるものは、段々畑と汁田圃の過労で死んだ父と母の血から出ているものかも
しれない
と思ったのでした。

唐木刑事と倉橋刑事の二人は、鶴ヶ岡村の捜査を済ませたあと、強行軍で、バスで山家に戻り、そこ
から綾部経由で福知山市へ行って一泊し、萩原署長に電話で報告。翌朝、竹中の在所に寄るため兵庫
県へ。

 二人は翌朝、駅前旅館を出て、始発の大阪行きに乗った。汽車は、丹南町を経て岩倉に
 つく。岩倉から、バスで、三木市に向かう途中に東条村があると教えられてきていた。


とあります。

福知山から大阪に向かう線は当時は国鉄福知山線(現JR西日本宝塚線)ですが、岩倉という駅は見当た
りませんでした(昔も今も)。丹南町は過去にあり、現在は丹波篠山市。三木市は現存しています。東
条村というのは過去にも現在にもない仮想的な村です−、過去にあったのは、現在は小野市である下
東条村と現在は加 東市である上東条村です。
仮想的駅と思われる岩倉駅はバスのターミナルになっている駅ですから、実在する三木市と福知山線
の位置関係からすると、三田駅あたりに仮想的な駅「岩倉駅」を置き、そこから三木市までの仮想的
なバス路線を設定し、その途中に仮想的な「東条村」を設定したと思われます。

東条村の巡査部長派出所で話を聞いたところ、竹中は樽見の言った性格と正反対−大変愉快な子。
心中説は村の誰もが信用しない。駐在巡査は竹中の実家まで車で二人を案内。家は中流程度の農家で
した。父親に唐木刑事は、そういう女とかかわりのあったことはないことを証明するものがないか、
出張目的はそれが欲しくて伺った
、ハガキが残っていて、六月のはじめに、そのような女がたずねて
くるようなことは絶対ないような証拠物がないか、と。
奥に入った父親は、すぐに三、四通のハガキと手紙を持ってきました−唐木は特に六月三日に届いた
ハガキに注目しました。ともにユーモア溢れる文面から、とても四日後に心中するような暗い影もな
く、樽見が云ったような性格とは正反対である
ことが十分伺える重要な証拠物件でした。父親の許可
を得て二通を持ち帰ることにしたのでした・・・。

一方、味村警部補です。
東京で弓坂も一日だけ同宿することになり、二人は、味村の知人の紹介による、神田駅に近い旭町の
菊屋旅館に。もう現役ではない弓坂は私費で来ているのに、舞鶴は三日間の予定が四日間になったの
にもう一日味村とすごして、十年前の自分の捜査のあとをふりかえってみたいと言って、その熱心さ
は味村を感動させたのでした。

朝食後、すぐに、弓坂の勧めがあって渋谷ゆきの国電に。弓坂の剣道の知人−もう故人だが−の息子
の警視庁保安係の警部・小泉竜男に会うことに。弓坂が、杉戸八重が死んだというと驚きが。で、弓
坂は、「行ったこともない見もしぬ男と心中した」−全て犬飼多吉の仕業だと。小泉が本人に聞いた
かと云ったに対し味村が、樽見京一郎を尋問したが一切知らぬと白を切った、確実な証拠がない限り
不在証明をくずせない、我々も追い詰められている、と・・・。

ここで小泉から、10年前弓坂がどうしてもつかめなかった杉戸八重の東京での行動のかなりが示さ
れました−九年前にうどん粉を横流しした運送屋の小川が逮捕されたときに八重らしき女性が登場。
「須磨子」の名で「富貴屋」に勤めていてた・・・横領ほう助罪で池袋署員が探っていたが、故郷に
帰るといって富貴屋をやめてどこかに行ってしまった、という話が。杉戸八重は九年間「梨花」にい
ましたから、富貴屋に六か月勤めた後、亀戸の梨家に移ったということが判ったのでした。あと小泉
は葛城時子の消息も−末広の交番からの連絡で、昭和二十五年、肺結核で死亡した・・・
この小泉の話を聞いた味村と弓坂は、富貴屋と小川に会いに行くことに。
小川は現在、新井薬師の方で運送屋をしているときき、先に小川に会いに。小川の話は−刑務所を出
てから池袋西口(富貴屋がある)に行ってないし、須磨子(杉戸八重)とも会っていないこと、八重とは
同じ青森の出身だから親しくなったこと−但し、下北出身であると云ったが、下北のことを話すのは
は嫌がった−などを走ましたが、犬飼多吉のことについては何も知りませんでした。

次に二人は、富貴屋について聞くために池袋署へ。崎本警部補が迎えました。崎本によれば、富貴屋
はもとのままの店で商売をやっている、ただ、そんな大男は富貴屋には訪れていないと言っていると
のこと。二人はその富貴屋に行ってみることにしたのでした。お上に、須磨子=八重が死んだことを
伝え須磨子の客で六尺近い男が来なかったか尋ねたのですが、お上にはその記憶がありませんでした。
おかみによれば、八重は貼り紙を見てやってきた、最初二か月は花園町から通っていた、と。これを
聞いて味村は、<犬飼が八重のところにきたのは、おそらく花園町時代ではないか>−小川が事件を
起こし、八重は自分の周りに刑事がまとわりつくのを嫌い、それを察した犬飼は八重の身辺には現れ
なくなったのではないか、と思ったのでした。結局富貴屋でも犬飼の消息は掴むことはできませんで
した・・・

 −味村ら警察側は、犬飼が八重に大金を与えたのは口止めのためだと思い込んでいます
  ので(到底、自分と同様の極貧の家の出身であることから、棚からぼたもちみたく手
  に入った金でもあり、同情して八重にくれてやっただけなんて想像もできなかった
  のでしょう)必ず東京に追いかけて二人はこっそりあっている筈だと思い込んでいた
  のでしょうね。


残るのは亀戸の梨花しかないが、既に六尺近い大男は来てことがないと言っていましたから望みはう
すかったですが、とにかく二人は行くことにしました。大男のことはやはりわからなかったのですが、
一つの新たな証言を得ました−

 八重の行李の底の方に貯金通帳があった
 貯金通帳は梨家に来てから作ったらしい−天神通りの亀戸二丁目のハンコが押されていた
 最初の貯金額だけ多く二万円。後は月々三千円、四千円とこちこち貯めていた


これを聞いて味村の眼が光る。小川から預かった金も二万円程度だが、八重は一文も礼金を貰ってい
ない、この二万円の中には下北からもってきた金が入っていたのだろうと考えたのでした。で、味村
が通帳は何に入っていたかと聞くと新聞紙に包まれていたと。柳行李の中には、安全剃刀の刃とか、
さびついた男物の剃刀などゴミとしか思えないものが大切にしまわれていた、で、その柳行李は父親
が持って帰ったと・・・。

宿に帰った味村は、舞鶴東署署長に報告するとともに、青森県警へ緊急依頼して、持ち帰られた八重
の柳行李をそのまま保管しておくことを指令してもらったのでした。で、弓坂はこのまま青森に直行
したいと−署長から、金はあるかと聞かれた味村は、きりつめていけば一泊するくらいの金はあると
答え、了承を得たのでした。そして、弓坂と連れ立って今日の最終便で発つと。

味村は、食事だけ済ませ風呂も入らず女中にあきれて見送られながら宿を出て、六月二十日の夜0時
の急行青森行きに乗ったのでした。

午前十一時、二人は森林軌道で畑に向かいました。そして八重の実家へ。父親に迎えられました。
父親に保管を頼んだ八重の柳行李をあけさせ中を調べました。そして貯金通帳を包んであった新聞紙
を丁寧に開くと−「北海道新聞」で、昭和二十二年九月十九日(金曜日)のものでした。更に黒い斑点
が・・・。これを見て弓坂は、九月十九日−岩幌が焼けた前日、この新聞は犬飼が八重にゼニをくれ
た新聞紙だ、大事な大事なゼニを包んだこの新聞は、生涯、八重さんが放してはならない思い出の新
聞紙だったんだ
・・・と。
父親の長左衛門の借用の了承を得ての押収物は−

 古新聞一通、安全剃刀、同替刃、古刃二枚、手帳、包装紙、古手拭、男物ハンケチ、木
 彫細工品(筆立て)、万年筆(一本)、エンピツ(一本)


二人はそのあと大湊へ。大衆食堂とトリスバーに分離されていた、元「花屋」−表札に来間佐吉とあ
り間違いなことを弓坂が確認。大した新情報は得られませんでしたが、借用してきた物は八重が花屋
時代に使っていたものであることだけは確認出来ました。

味村は函館に帰る弓坂と別れ舞鶴に戻りました。

舞鶴東署では、六月二十五日朝九時から異様な雰囲気の中で捜査会議が開かれました。味村警部補と
唐木らの報告がなされたからでした。
出席者は、舞鶴地検・飯山守検事、京都府警からの応援の師星巡査部長、嵯峨刑事、白井鑑識係官、
舞鶴西署の寺前刑事、三木巡査部長、東署は萩村署長以下捜査班全員十二人。
まず、署長から捜査経過報告が。ここで署長からの報告で初参のことは・・・二人の死体が樽見家と
アンジャ島の死体発見現場間の移動方法の捜査結果からの考察でした−

 ・当時、樽見家にオート三輪の新車があり、樽見京一郎は樽見家で二人を殺害し、その
  オート三輪で現場まで運んだと思われる−オート三輪の車輪を調べてみる必要あり、
  この会議の結果によっては同車の強制押収も考えている、
 ・そのオート三輪は全く目撃されていないことの考察−運搬実行は深夜と思われる。
  樽見証言では、車は幌をかぶせて六時ころまで表に置いていて、六時過ぎに門内に
  入れたとのことだが、その後に使用したか否か不明。過去に起きたうどんこ運搬船
  転覆・うどんこ漂流事件から樽見は潮流の流れを知っていた筈でそれを利用した疑
  いもあり。運搬先は由良の可能性もあり慎重に追及する必要あり


 −今一つわからないのですが、由良説の場合、唐木刑事らが見つけたアンジャ島の浜の
  「大きな足型」とか「タイヤ跡」はどうなるのでしょうか?


続いて、まず味村の報告、続いて唐木の報告がなされたのでした。そのあと、会議にはじめて顔を見
せる岩田巡査部長−警部補に昇格が内定していて近日中に宮津警察に赴任することが決まっている−
が、樽見京一郎邸の内偵、工場関係・市内の知人等の聞き込みをした結果の報告を−

 ・細君の敏子が取次いだのは竹中ではなく京一郎(敏子は偽証している)で、兇行は敏子
  が出かけて不在となった3時間の間になされたと思われる
 ・樽見京一郎は、昭和二十三年三月、引揚げの最中の大勢の居所不明の人々が集まっ
  ていた動乱の東舞鶴−北吸の今は(樽見食品工業の)缶詰工場脇の二軒屋−に独身で
  居住。
 ・前任地は、北桑田郡の実家になっているが、前任地詐称の疑いあり(唐木刑事の調
  べで戦後ほとんど実家に帰っていなかったことから)
 ・樽見は東舞鶴に来て半年くらいして、製粉機を購入し、自宅裏に作業所を付けたし
  配給品を粉にする仕事を始めた−時機を得た商売で事業が発展し、「日の丸缶詰」
  と「澱粉工場」の経営に成功した
 ・北吸に残る古い職人からの聞き取りで、樽見は、時々出所不明の大金で、原料を
  買ったり、新設の資材を買い込んでいた、事業が思わしくなくなると。どこから
  か持ってきた金をそそぎこんでいたとのこと
  −樽見京一郎は九年の歳月の間に、製粉工場から澱粉工場へと事業を進展させ、
   あわせて缶詰部も経営しながら、十年前にぬすんだ大金と、汚れた前身とを
   巧妙にぬりつぶすことに成功している、と・・・



それぞれの報告から署長は、杉戸八重、竹中誠一殺人の犯人は、樽見京一郎であることが九分通り明
白になった、あと、(味村が下北から持ち帰った)古新聞に付着している斑点が血痕であるかどうかの
慎重な分析を鑑識でお願いしたいと述べたのですが、ここで、府警の師星部長刑事が一つだけ腑に落
ちない点がある−岩幌町強殺放火の際に、どうして、いつ、どこで、木島忠吉、沼田八郎と知り合っ
たか、北海道開拓農民をめざした以後、それから約十年間の岩幌放火まで何をしていたかが空白であ
−これを究明しないと、自供を取る時にまた難航するのではないかと発言。
これに対して味村警部補は、自分もそれが不満と、それを認めながら、その空白は、もう一と足の努
力で埋めることができると思うと。それは−

 ・岩幌大火の前日の北海道新聞を八重が持っていた事実−犬飼多吉を通じないと絶対に入
  手不可能。
 ・唐木刑事の調べで、大阪から倶知安開拓農場へ入園したという事実から、当時の模様を
  聞くことで−六尺近い大男ゆえ記憶している人もいるのではないか−判明するのではな
  いか


で、署長に、もう一度の北海道出張を願い出て了承を得たのでした。

味村はその夜、帰宅して30分後には出張に出発しました。

六月二十八日、函館着。弓坂を訪ねたのでしたが、弓坂は道内剣道大会の審判に選ばれて出張中との
ことで不在。細君に、帰りには必ず立ち寄ると告げ、十分ほどで去り、函館警察署へ。弓坂から報告
を受けて倶知安警察に連絡しておいた、と−開拓農場はまだ残っているが、当時の古い人々は農場を
去っていて、昔のことを知っている人がいない、とのこと。それで、樽見京一郎の名で本腰を入れて
調査してくれるよう、昨日署長名義の照会状を道内各署に配布したところだと・・・。
そして、倶知安の羊蹄山麓にあった開拓村は十五年ほど前に尻別川の氾濫で田畑が埋められてしまい
村人はよそに散ってしまった、樽見京一郎が二十年ほど前に来たのは反乱に会う前の農場じゃないか
と倶知安警察は報告してきた、と。

味村は函館警察署のなまぬるい調査ぶりに失望を感じながらも警部補に紹介状を書いてもらい、倶知
安に向かいました。倶知安に着いたのは夜中だったが、倶知安警察に連絡してあったのでそのまま倶
知安警察へ。開拓農場を調べてくれた小川巡査部長が待っていてくれました。巡査部長は、大きな農
場は大和、末広、共和村の方でその三か所は既に調査済−樽見という大男は知らないとのこと。そこ
寒別じゃないかと明日行く準備をしていた、おいでになるならご一緒しようと・・・。
小説では寒別について、「国道六号線にそうて、洞爺湖の方へ出る胆振線の途中です」とあります。

大和、末広、寒別は実在の地で、現在は倶知安町に属しています。共和は今は共和町で、岩内町の東
隣です。尚、胆振線は既に1986年に廃線になっています。国道六号線とありますが、現在は276号
線です。


     図18 倶知安付近

味村はその夜は警察署から百メートルくらい離れた町中の旅館「菊屋」に宿泊。翌朝、倶知安警察に
行くと小川巡査部長がジープで待っていました。寒別に行き、区長の家を聞いてそこを訪ねました。
区長は三十七、八でしたが、昔のことは親父の方が詳しいと・・・。で、70歳くらいのその父親に
話を。小川巡査部長が入植の頃倶知安から来た樽見京一郎って男を知らないかと聞いたが、首をかし
げ思い出せない様子だったので、味村が「六尺近い大男、大阪からきた男」と言うと、少し思い出し
て以下を述べました−

 大阪人の森村のところに一年後、六尺近い大男の若者が大阪からやってきた
 森村は投機的なことが好きで、結局、この村を売り払って堀株ほりかぶの方へ行った
 若い子がどうしたかは記憶がないが、一緒に堀株に行ったかもしれない
 堀株は岩幌−海続きで北にある。そこに鉱山があり、森村はそこの鉱山夫となった


味村の胸はいま、はりさけんばかりに鳴動したのでした。来た甲斐があったのでした。−

 <樽見京一郎と岩幌が結び付いた・・・・・・>

堀株は実在の地で、現在は泊村大字堀株村となっていて、泊には泊原発があります。
岩幌のモデルである岩内町との位置関係は下記。


     図19 堀株と岩内

倶知安警察署に戻った味村と小川は署長の前で地図を眺めていました。その地図には堀株の北部に鉱
山マークが確かに標されていたのでした。

味村は堀株に行くことにしました。小沢駅で函館本線から岩幌線に乗り換えて岩幌へ。岩幌署にいた
田島巡査部長に会いたかったが、先に堀株に行くことに。派出所に行くと所長は消防会議に出席して
いて不在で若い巡査が二人いるだけ・・・味村は失望したが、ひとりで行った方が調査もはかどると
思いなおして堀株への交通について聞いたのでした−泊行きバスの途中で、四十分くらい、近くにあ
る鉱山は、マンガンと銅の出る堀株鉱山−但し、もう石を出していないとのこと。
バスの中で、列車で見た男がいたので味村は話しかけたのでした。彼の話によると−

 鉱山はとうに閉山になったが、カネケのある土地は芋によいのか芋が取れる。鉱山にい
 た者は皆、開墾事業に転業。その開拓村は評判の芋をとっている。


堀株のバス停で下車した味村は、床屋とタバコ屋を兼ねた店で、鉱山への道を聞いて歩く。やがて現
れたかかり口の一軒家で森村一家のことを尋ねると、倶知安で会った老爺より五歳くらい年下にあた
りそうな風貌の男が憶えていました−

 森村は、戦争中にトロッコに敷かれて死亡。妻は、戦後昭和二十一年に病没。
 ひとり娘がいたが内地に行って戻らず。
 妻の面倒を見ていた作男がいた−「京さん」と呼ばれた大男
 「京さん」は十年前に村を出た−老爺は「京さん」の居所を皆が知っていると
 −舞鶴で大きな澱粉工場を開いている
 「京さん」は、鉱山の閉山で皆困っているとき助け船を出した−芋つくりを教
 え、芋つくりとその加工販売することを鼓舞し、泊で船を購入し内地へ運搬。
 「京さん」は、閉山のとき田畑を分けて貰っていた・・・


とうとう樽見京一郎の北海道における足跡がわかったのでした。更に−

 一人娘は当時二十六、七。色の白いぽっちゃりした娘さんだった

という証言で、味村は、樽見が舞鶴に工場を開いた後、どこからか現れた謎の女性−樽見の細君−の
判らなかった素性まで掴んだのでした・・・

 <あの細君は森村敏子なのだ・・・・・・>

更に味村は、岩幌の大火の頃、樽見がどこにいたのかとつっこむと、知らない、開拓事業に助成金を
貰うために奔走してくれていた、と。更にしつこくつっこむともうひとつ思い出したとして−

 樽見は村に母親がいて、村の法事にお布施を送る習慣があったが、鉱山は潰れ遅配の月
 給を貰えず泊の町で泥棒をして逮捕され長い間ブタ箱に入っていたが執行猶予で戻って
 きた−昭和二十二年の頃・・・


あと少し−で、味村はそのあと、四軒の堀株の農家、続いて泊に行き、樽見の過去を洗いざらい調べ
上げることに成功したのでした!−十年前に樽見が働いた些細な犯罪まであぶり出したのでした。

ここまでに味村が洗い出した樽見の過去は−

 ・樽見は寒別開拓農家の森村治吉を頼って大阪から来道し作男として働いた
 ・森村一家と共に堀株鉱山−北海鉱業−に来てトロッコ押しや採炭夫として働いた
 ・北海鉱山は終戦時に閉山。全山はげ山と化した土地を労務者三百人に無償供与。
  鉱夫は開拓農民に転身。もともと開拓農夫だった樽見の活躍があった
 ・樽見は森村治吉死亡の後、恩義を感じていた森村一家の後見人に。
 ・森村の妻の死亡後、森村に代わる農業指導者になり、開拓村を「芋どころ」に。
 ・澱粉加工事業を思い立った樽見は、郷里へ帰り、舞鶴に工場を開設、堀株開拓地の
  馬鈴薯販路の橋頭保に−樽見食品工業の設立は開拓した北海道農村の生命と結び合っ
  ていた。
 ・三〇〇トンの運送船「北海丸」を泊⇔舞鶴を定期運航させその経営に関与した


老爺が言った樽見の些細な犯罪の実態の詳細は−泊の巡査派出所では詳細が判らなかった・・・
岩幌警察署が掴めなかったのは、犬飼多吉という偽名を名乗っていたのと、堀株の開拓地が排他的
な所ゆえだったゆえだろう
と巡査は言ったのでした。

味村は、その樽見の事前に働いていた些細な犯罪を調べるため札幌へ。札幌到着が夜遅くだったため
市内の宿に宿泊し、翌朝早く、札幌地方裁判所に行って十年前の泊で発生した窃盗事件について調べ
て貰いましたが見つからず−若い事務官は、ひょっとしたら小樽の方に残っているのではないかと。
味村は札幌発十時の汽車で小樽へ。そして小樽裁判所で調べてもらうと−ありました!小樽警察署の
小早川警部補作製の報告書でした−

 ・昭和二十一年七月六日、泊村字長橋のの漁師の網元・秋元喜太郎宅で窃盗被害発生−
  置いてあった漁業組合に収めるための集金した公金を盗まれた
 ・窃盗犯人は泊村大字堀株第九号一〇二番地に住む樽見京一郎と判明・自供。
  −堀株鉱山の閉山で失職した樽見は泊に来て回漕業手伝いをしているとき被害者宅と
  懇ろになり、五日朝に本年前期の集金された組合費が保管されていることを耳にし
  て、六日に窓口から忍びこんで現金三十円を盗んだ。家人に気づかれ逃走。
  −被害者宅の妻から派出所への申し出で派出所の松井巡査が内偵したところ、被害者
  宅の裏口と畑の中から大男の地下足袋足跡を発見。目撃された逃走犯人は六尺近い大
  男だった・・・。で樽見の挙動を見張っていたところ、七月十日に郵便局から京都府
  北桑田郡熊袋のたね宛に三十円を為替送付していることが判明。拘束して追及した結
  果、犯行を自供。


これで、樽見は昭和二十一年七月までは堀株村にいたことは判明しましたが、残る問題は、肝心の木
島と沼田とどこで交叉したかでした。

味村は小樽裁判所を辞して函館に向かい、弓坂を訪ねました。そして弓坂に、北海道に渡ってから三
日間の強行軍の捜査で判明したことを話したのでした。弓坂は、この若い警部補の足の成果に驚くと
共に、その執念に敬服するばかりでした。

味村は、これまでの調査結果から下記のような推測を述べました−

 樽見が窃盗事件を起こしていたという事実は、こんどの事件にも大きな心理的要因と
 なっていた−まだ木島、沼田とどこで会ったか判明していないが、犯罪経験を持つ樽見
 が、網走刑務所を釈放されて飢え寸前にいた二人に同情心を持って接近。木島も沼田も
 窃盗犯の前科者。三人が会えば何を企んだか一目瞭然


−味村の推定通り、恐らく樽見は窃盗の前科持ち同士ということで二人と交叉したものと
 思われますが、津軽海峡での二人の死亡から未だ主犯は樽見だと弓坂ともども思い込ん
 でいますね。岩幌に行ったとき、事件当時中心になって追跡捜査をしていた田島巡査部
 長に会いたいと思っていましたが、後回しにし、結局樽見の窃盗事件の話を聞いて、田
 島とは会わないまま札幌に行ってしまった訳です。
 もし田島の話を聞いていたら考えが変わっていたかもしれませんねぇ・・・。


ですから、続いて次のような推測をしています−

 ・京一郎が犯した窃盗事件の理由である親許に送る金がなかったためというのは彼の人
  となりと、親許との関係をよく物語っている
 ・やがて、岩幌大火、層雲丸事故死者偽装殺人という大犯罪を犯す動機もこれと通じる
  ものがある−これまでの捜査では十分動機を証明できてはいないが「犬飼多吉」の犯
  罪は、大金を握ることによって、故郷の村を見返すような実力者として更生したい一
  念があり、それが成功すれば、鉱害地を開拓して馬鈴薯生産に進発した堀株村の同士
  の窮状を救うためにもなる・・・疲弊した村に幸福をもたらせて、昔の窃盗犯の汚名
  をそそぎたいという執念があの大犯罪に繋がったのだろう
 ・十年たって金も出来、樽見はその利益金の中から、木島・沼田の霊魂をなぐさめる意
  味もあって、受刑者更生に三千万円もの寄付金を申し出たのだろう
 ・ところが、これが仇になって、罪を犯した直後の彼を知るたった一人の証言者・杉戸
  八重が彼の前に出現して樽見は仰天−八重が喋れば、今までの苦労は水の泡、積丹半
  島堀株村の馬鈴薯開拓増産事業が頓挫してしまう・・・苦悩の末、自分と開拓村の生
  命を守るために八重を殺害したのであろう


話を聞いて大きくなずいた弓坂が、何よりも味村の収穫の、現在の京一郎の妻、敏子が、倶知安時代
から京一郎が恩恵を蒙っていた森村家の一人娘であるという事実は、問題となっていた敏子共犯説を
大きく裏付けるものだ、と言ったのに対し味村は、森村の娘が細君の敏子というのは百パーセント確
定したわけではないけれども、既に舞鶴東署には連絡しており、舞鶴東署で本籍や略歴を当たってい
るだろうと言ったのでした。

これに対して弓坂は、新しい資料−大きな証拠品ともいえるものを既に舞鶴東署宛に提供したと−

 調書の中に欠落したものがなかったか、いろいろ反省した結果思い出した−札幌の宮越
 警部補のところに鑑定に出ていた、犬飼多吉が朝日館で書いた宿帳の筆跡が保存されて
 いて、それが入手できたので札幌から舞鶴東署長宛に送付した


と。そして、弓坂は、

 「われわれは最後の仕上げに、また海をわたらねばならない。失礼かもしれないが、あ
 なた一人ではあの大男相手にとって大きすぎる。私がおれば何らかの力になるかもしれ
 ないもう一ど、東舞鶴に連れて行って下さい。私は、あの男の口から、ひとこと悪かっ
 たという人間の声がききたいのです


と言ったのでした。これに対して、味村は、あなたが何といっても、この捜査の大きな原動力だった、
あなたに来ていただかないと・・・・・・本当の大詰めの幕はあきませんよ、と応えたのでした。

翌朝−昭和三十二年七月一日−二人は連れ立って二度目の海峡を渡ったのでした。


さあ、大詰めです。

木島・沼田とのなれそめだけはつかめきれませんでしたが、数々の証言と状況証拠そして決定的物証
の筆跡鑑定まで入手できました。あとは自供で埋めるだけです。

新聞に、樽見食品工業株式会社社長・樽見京一郎と妻・敏子を舞鶴東署が殺人容疑で逮捕したという
記事が出て、舞鶴市民はびっくりしました。市民の間では竹中と八重の死は心中だろうと信じられて
いたからでした。

七月四日、萩原署長を先頭に、味村警部補、杉田警部補、唐木刑事、西出刑事その他四名の応援刑事
が加わって行永の樽見家を急襲したのでした。そして横柄に構えた樽見には、「殺人容疑での逮捕状」
を示して連行して行きました。その後で青木刑事など別動隊がすぐに敏子を逮捕し、樽見家を家宅捜
査しました。残念乍ら殺人に繋がる証拠品は一切発見できませんでしたが、敏子の居室を調べていた
一人の刑事がタンスの違い棚から古い貯金通帳を発見−埼玉県浦和市白幡郵便局印があり、通帳の名
義人として「森村敏子」とペン書きされ、本人印が「森村」という簡略印判でした。大手柄です。味
村の北海道の調査結果が完全に裏付けられたのでした。住所が「浦和市白幡町一四八番地内山茂方」
となっていましたので、その家が現存するか、していたら、森村敏子が北海道から出て止宿していた
かどうかについての調査を埼玉県警本部に緊急要請したのでした。その回答は−

 ・確かに森村敏子は、内村宅に、昭和二十二年春から三十年秋まで間借りしていた
 ・森村敏子は、二十七、八で北海道生まれと言っていて、当時、東京の日本橋にある商
  店に勤めていて、住宅難のため浦和市に間借りして国電で通勤していた
 ・敏子が内山家に来て一年目ころから、六尺あまりもある大男で親戚と称する者が出
  入りしていた−敏子は男を泊めたりはしなかったが、日曜日などは一緒に外出して
  夜遅くに帰って来ることもあった
 ・まだ生存されている七十五歳の母堂によると、大男はタルノとかタルミとかいって
  いた。
 ・敏子は、最初は嫌がっていたが、次第に呼び寄せるようになりつきあいも長かった
 ・引っ越し時はその大男が手伝いに来て、すべて菰包みにして遠くへの汽車便で送る
  ようだったが、いくらたずねても関西の方に仕事に行くと言った以外詳しいことは
  隠しているようだった


さあ、取り調べです。二人の殺人の物的証拠はないと高を括っていて知らぬ存ぜぬで通すつもりの樽
見は横柄で鷹揚な態度を。
味村は、単刀直入に切り出しました−犬飼多吉さん、と呼び掛け、岩幌町の火事の件から切り込みま
した。そして、知っていてもらわぬと困る、あなたが火をつけた大火だから、と。失敬な、証拠もな
くと反論する樽見に、朝日温泉朝日館に残した筆跡鑑定結果をつきつけました。
これに対し、筆跡が似ていても、自分の筆跡であっても、自分が岩幌の町に火をつけなければならな
い根拠はあるのかと樽見は反論。で、味村は調べて来た結果による推定−金が欲しかったからだ、と
・・・そして、調査結果を元に第二の犯行−木島、沼田殺し−に追及を進めたのでした。樽見の顔は
歪みを見せ、蒼みが増し、第二の犯行に言及しだした時、血走った眼を味村に釘づけしたまま蒼白に
変わっていく顔を静止させていました。次第に樽見の顔の額から幾指筋もの汗が・・・。

 −自分の過去が暴きたてられてしまっていることに驚いたのでしょう

そして、味村は、

 この完全犯罪はみごとに成功しました。あなたには、たしかに成功したかにみえた

といい、夜のうちに舟をくだき、断崖の上の原始林にはこんで焼いた−このことを立証するのは、こ
こに来ておられる元函館警察署警部補弓坂吉太郎さんだけしかいない、後を追い、釘一本残さなかっ
た焚火の後の一握りの灰を持ち帰った人だ、と・・・。味村は弓坂に話を振ったのでした。

話を促された弓坂は八重のことを持ち出して静かに語りだしました。

 ・八重に会ったが、八重は嘘をついてあなたをかばった−あなたからもらった金で「花
  屋」に借金を返し、東京に出たかったから−うかつにも、その時はその嘘を見抜くこ
  とができなかった・・・
 ・しかし、犬飼多吉という男の足取りだけは掴むことができ、あなたが残した灰を見つ
  けることができた。その灰こそは、あなたが、今日、ここに堂々と社会人として生き
  てこられた陰で、大犯罪を湮滅し得たと自惚れておられる心の象徴かもしれない・・・


と言い、続いて、

  あなたは自ら、その灰をかぶったことになる。そうしてとうとう馬脚を現したんだ。
  あなたの十年後の成功と世間の注視を浴びた刑余者更生事業への寄付金の新聞記事
  を見て、なつかしく思った八重さんが、はるばるたずねてきたからだ
  その瞬間、あなたは奈落に突き落とされる気がしたはず−この女を生かしてはおけ
  ないと思い、自ら灰をかぶって道を踏み迷ってしまった、第三の殺人を犯してし
  まった


と弾劾。そして・・・警察の目はフシ穴ではない、自分は停年が来て退職したが、あとを受け継いだ
この味村さんの努力によってあなたの犯した罪は明るみに出たのだ、と。そして更に、

 あなたは否定なさるだろう。ここまで世間をあざむき通したことが、今日になってく
 つがえされははずはないと思われても当然だ。しかし、世間というのは甘くない。ど
 こかに真実の眼が光っているということを忘れてはならないのです


と。最後にとどめを−あなたに見せるものがある、それはかわいそうな八重さんの持物のなかから出
てきた古新聞安全剃刀ですよ、と。それぞれの説明をし、八重が十年間、行李の底にあたためて残
したもの
であること、娼妓をしていたが誰にも好かれる明るい人であったこと、貧乏に生まれたから
古新聞一枚でも大切にする人。八重にとって犬飼多吉に貰った大金は大湊の借金を返し東京に出て行
くことが出来た−生命の恩人、樽見の成功を新聞で見て、一目会いたいと思ったのは当然。その美し
い一人の女の心を、自分が生きるために踏みにじった−恐ろしい人殺しという報酬によって、その女
性をこの世から奪った恐ろしい罪を犯している、と。

この言葉が樽見の牙城をとうとう崩壊させたのでした。ただし、「本当のことは、あなたたちにはわ
からない」と・・・。そして、犬飼多吉=樽見京一郎が十年前の事件の主犯だと思い込んでいる弓坂
や味村警部補ら警察には「死人に口なし」ととても俄には信じられないことを語り始めたのでした−
私は木島も沼田も殺していない」「私は、佐々田質店の主人夫婦を殺してなんかいない。火もつけ
ていない
。めいわくないいがかりだ。何の証拠があってそんなことをいうのか」と。

 −警察の怒りを誘うだけのような物言いで、未だ虚勢を崩していませんね。

樽見はまず、味村が調べきれなかった犬飼多吉=樽見京一郎と木島・沼田との出会いについて供述し
たのでした−

 小樽裁判所で執行猶予になった八か月くらい後、札幌の闇市場で知り合った。
 金が欲しかったので、三人で組んで、南十条の工場跡にあった古銅の山を運搬する手間
 賃稼ぎをしたのが縁。うれしくなって三人でニセコへ。


 −私が疑問に思っていた文無しのはずの木島・沼田が犬飼と一緒にどうして朝日温泉そ
 れも一番立派な宿に宿泊できたのかの謎が解けました(^^♪


 ・そのとき、二人が網走から出て来たこと、故郷で前科者扱いされるなら道内で働き口
  を見つけたいという希望を聞き相談に乗っていた−新しい人生を目論んでいた時で
  あったため、堀株の開拓村の話をして誘った
 ・朝日館で、函館へ行こうという話が出た−犬飼は知らなかったが、朝日館で、木島・
  沼田は温泉の中で佐々田質店店主と邂逅していた。朝日館を出た後、木島が沼田に、
  店主が函館に知人がいると云っていたと。そして、店主に就職口を頼んでおいたが
  函館に出る前に佐々田質店に頼みに行ってくると言い、犬飼は駅で待つことに。
 ・犬飼は駅で寝て朝まで待った。火事騒ぎになったが怪しみはしなかった。
 ・二人が一家皆殺しの殺人放火事件を起こしたことを知ったのは汽車の中。奪った金
  は五十万近い金。
 ・函館に着くと層雲丸沈没事故で大騒ぎ。木島と沼田が分け前をやるから舟を借りて
  こい、自分達は顔を憶えられると後でやっかいなことになるからと。金に目がくれ
  て了承して三木の村に行って消防団員になりすまし舟を工面した。


 −ええっ?!三人は弓坂が推定した通り岩幌線→函館本線で来たのか。じゃあ、どうし
 てあんなところを西から函館方面の東に向かって歩いていたのでしょうか?どうして矢
 不来の「きぬた」で聞くまで、層雲丸転覆のことを知らなかったのでしょうか?
 ここではしらっと層雲丸事故については「函館に来て知った」とあります。
 そして、岩幌署が徹底調査したのに、どうして誰一人彼等の目撃者がいなかったので
 しょうか?大男の犬飼が駅で寝て待っていたのさえ目撃されていなかったというのはな
 にか不自然な気がしてならないのですが・・・。
 第0章で何かもったいぶったように三人の足取りが示されているのは、私のような読者
 をミスリードするためのものだったのでしょうか?その点の整合性が示されていません。
 函館駅から西の方の三木まで行ったことになっていますけど、土地勘があったとはとて
 も思えません。そこは第0章での三人組のきぬたを慌てて出て行くという描写の方が自然
 な気がしたのですが・・・


そして、樽見は、自分が佐々田質店に入り込んだという勝手な判断だけ違っているだけで味村の調査
結果は大体あっている、と。−警察側は当然ながら信用しない・・・

 <この男は、あくまで証拠がないということに自信を持っている。主犯であることを白
 状しないつもりだろう。死人に口なしである

と思ったのでした。だから、再び樽見が、あの男たちは勝手に死んだんだ、と言うのに対し、味村は
「そんな証拠はどこにあるッ」と怒号して膝をすすめたのでした。
これに対し樽見−証拠はある、といい続けたのでした・・・。

 ・木島が突然沼田に襲い掛かり、櫓をこいでいた自分が振り返ると、沼田の躰がもんど
  りうって海に落ちるのが見え、木島が血相かえて突っ立っていた。で、木島が次に自
  分をねらってくるのを察知。木島は持っていたかいだし桶を犬飼の顔に投げつけ、棒
  きれで左腕殴られてザクロのように腕の肉が血を吹いた。身を守るべく、渾身の力で
  櫓を大振りした・・・木島の躰は空中を切って海の中に。木島は、助けてくれと言っ
  たが犬飼は放心して一人茫然と舟の上に立っていた・・・


 −映画のシーンと同じですね。沼田は木島に殺され、犬飼は正当防衛?過剰防衛?で思
  わず木島を海に殴り落した訳で、事情はどうれあれ、あくまで結果的に犬飼は木島を
  殺した訳で、「殺していない」というのはおかしい主張ですね。


当然ながら信用していない味村は、「嘘つけ」、「なぜ、殺す気持ちがなかったなら、青森警察へで
も自首しなかったんだ」と叫ぶように言ったのでした。

 −映画で若き時代の高倉健さん扮する味村警部補が寡黙な高倉健さんイメージと違っ
  て樽見を糾弾するシーンがあったのですが、原作でもそうだったんですね。


結局、樽見は生涯二度と手にすることがない大金が思わず手元に残ったために、
「ひょっとしたら天から授かった金かもしれない」

 この金を大切に使って、真人間になり、一切の過去を抹消して、新しい人間にうまれ変
 われないだろうか


と思った、確かに証拠はないが、「嘘なぞいってどうなるんだ。おれは、あなたに本当のことを教え
たいために、本当のことを自白しているんだ、おれがなぜ、杉戸八重さんを・・・・・・殺さねばならな
かったのか・・・・・・そのことを説明するために、おれはいま、真人間になって本当のことをいおうとし
ているんだ。おれの心の声をききたいといったのはあんたじゃないか。疑わないでくれ。真実はそう
だったんだ
」と眼に涙をにじませ、それは汗と一緒に頬をつたった。

そして、その後について自供したのでした−

 ・必死で舟を漕いで下北の仏ヶ浦に漕ぎつけ、岩の上で疲れた体を休め寝てしまっていた
 ・起きてから、「自首しよう」という心と「この金があれば」という心の葛藤が・・・
 ・で、人間はわるいことをしても、それが結局誰にも知られなかったら・・・自分は二ど
  とわるいことをしない、人を殺しても、世の中のために生きることが出来るという
  ことをためしてみようと決心し、世間をあざむき通して生きようと・・・物証を一
  つでも残したら生まれ変われないと考え、釘一本残さなかった。
 ・八重に会ったとき、握り飯をくれた−あのころ、誰が無償でひとにぎりの飯をくれ
  ただろう・・・


そして、大湊の「花屋」で八重と再会し、八重のやさしさに触れたんでしたね。

 ・その後、警察の眼をのがれ、東京へはいりこむことができた!

 −東京に行ったんですねぇ。

そして、金があったから事業はうまくいき、堀株開拓村の救済を思い立ったのでした−

十年目になって、木島・沼田のことを思い出し、刑余者対策の不備が彼らの悪事に繋がったと考え、
献金をすることにした、売名行為ではない、「木島、沼田の断末魔の形相を忘れるためには永遠にこ
のような善行を、石を積むように重ねていかねばならない」と心に決め、その第一歩として「刑余者
更事業の礎石に一役買おうとした」、まさか、新聞を読んで八重が来るとは思っても居なかったので
した。
ところが八重が来てしまい、樽見は仰天したのでした−で、犬飼ではない、そんな男は知らないと嘘
を言ったのですが、八重は、生涯の恩人だから忘れない・・・「あなたの顔を見ていると私の躰があ
なたを知っているという・・・・・・あなたが犬飼多吉だと知っている・・・・・・私の躰があなたを知っている」
と睨みつけて言った−この言葉に樽見は恐怖に打ちのめされた−このまま帰してしまったら警察へ
行って何しゃべるかもしれない−昔だいそれた悪事をやった犬飼多吉だといいふらされれば、今日の
地位が奈落に突き落とされ、せっかく軌道に乗りかけた堀株開拓村はどうなるか・・・おれはまだ仮
面をかぶって生き続けねばならない、と思った途端八重を殺すことにした、と・・・

 −樽見は「この第二の新しい魔の時間が、私を新しくさいなみはじめた」と言っている
  のですけど、「八重さんを殺そうという恐ろしい計画が生まれて、自分で紅茶を入れ、
  従順な召使だった竹中をまきぞいにすることによって・・・・・・偽装心中をたくらんだ」
  と言っているんですが、それだと「罪にさいなまされる」というのと整合性が薄い気
  がします−前述でも触れたように、むしろ、映画のシーンのように、思わず絞め殺し
  てしまい、犯罪を隠すためにあとから偽装心中をたくらんで自分の犯罪隠しをしたと
  いう方がマッチしているような気がしますが・・・


ただ、樽見は最後まで警察に対しては虚勢を張るかのように、

 私はあなた方に屈服したわけではない。わたしは、八重さんの真情に打たれて真人間に
 なり得た・・・・・・そのために・・・・・・自白の勇気が出たんだ・・・・・・


と云ってから机の上に面を伏せて頭髪をかきむしってうなだれたのでした。


この話題は全国紙に掲載されて、世人の注目を浴びたのでした。
世人は、今じゃ老剣道家として警察官の武道錬成に余生をおくる元警部補弓坂吉太郎と、味村時雄
警部補の生涯を掛けたこの事件解明への努力に眼を瞠るとともに、犯人である樽見京一郎の数奇な
運命と、その半生の苦闘にみちたであろう事業の内容と成果に思いやって、罪を憎みながらも人間
にふりそそぐ愛の問題については、考えさせると、新聞は数日間にわたって特集報道したのでした。
当事者である味村も弓坂もその感情はあり、おそらく樽見京一郎の自供内容には微塵の嘘もまじっ
ていないだろうと思ったのでした・・・

樽見京一郎の側面については、京一郎の八重殺しは本当に知らなかった、と云う妻・敏子の自供が裏
付けました−昭和三十年に京一郎と結婚して(この事件の二年前に結婚したばかりだったんですねぇ)
以来、この男の凍え切った魂の底を、妻として温め得た一日もなかった、と。

この後、樽見は素直に取り調べに応じていたのですが、物語はこれで終わらない、悲しき衝撃的な最
後が待っていました−。

犯人=樽見京一郎を連行しての北海道現地調査に出かけることになり、樽見のたっての願い−樽見の
船の北海丸で行くこと−が認められて出発しました。船が津軽海峡にさしかかり、味村が検事正に、
「この海をあの男は十年前に漕ぎ渡ったのです」と云い、静かに首を垂れて口を噤んだのでした−飢
えた一人の大男が、自己防衛のために櫓を振りはらった刹那、二つの影がもんどり打った魔の時間の
光景が、いま画面をみるように、灰色の海上にうかぶのでした。同じように考えていたであろう検事
正が煙草にゆっくり火をつけたその時−手錠をかけられた樽見をはさんでいた警官から「あっ」とい
う声が。なんと、樽見京一郎の躰が空中に飛び、空に向かって一回転し、落下時に、勢いよく足で甲
板の手すりを蹴って船腹に向かって落下して行ったのでした。警官たちは蒼ざめ、味村と検事正はか
けよりました。浮かぶ人影は見られず−手錠をはめられていたから泳ぎ切ることは困難、スクリュー
に巻き込まれて粉微塵になったであろうこと予測されました。蒼白になった味村は検事正を押しのけ
るようにして船尾に走り寄り、部下の手落ちに憤激がむらむらと涌いたのですが・・・。やがて、彼
の胸を領していた得体のしれない空虚な思いが−

 <京一郎は死んだ・・・・・・この海で死にたかったのか・・・・・・

味村は、重大な世紀の犯罪人が消えた海をただ呆然とみつめるしかなかったのでした・・・


以上、この物語は、貧困の中で一生懸命生きていた一人の男と一人の女が、思わぬ大金を手にしたこ
とから、新しいその後の人生を送って来たものの、大金をくれた男への強い感謝の気持ちの中で生き
てきた女が、ひょうんなことで今の男の状況を知り、ただただ懐かしさと感謝の気持ちで会いに行き
一方、成功して町の名士で篤志家になった男が、その存在を知られたくない唯一の存在である女の出
現にどうてんしはからずしも殺めてしまい、自ら命をたったという悲しい物語がメインテーマとなっ
ているためか、広げた風呂敷を完全には畳んでいません−特に、殺害後オート三輪に乗せてでかけて
からの行動の告白はなされたはずですが、本筋に関係ないと思われたのか記述されていません。

また、それを見つけたためにこのarticleを起こすことにした、いちゃもんをつけました二点−

 ・序章に思わせぶりに挿入された三人の若者(後から、岩幌で発生した強盗殺人放火事
  件の犯人とわかる)の逃避行の断片が、犬飼の自供と整合性がないこと
 ・若狭屋の証言を得た舞鶴東署が、被害者杉戸八重について城北署に捜査協力依頼を
  出した後、八重が居た「梨花」主人から舞鶴東署に届いた手紙の内容に物理時間的
  には不自然でありえないことが記されていたこと(八重の服のポケットに入っていた
  新聞の切り抜きを味村警部補が樽見に見せたのと同じ日に、遠い東京の城東署刑事
  が「梨花」に持参して、八重の部屋に残されていた新聞の切り抜かれた部分と一致
  したというくだり)


はありましたものの、物語としては十分楽しめました。

 (終わり)

                               ('20/10)

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