『物理』と『物理学』
多分に、大半の理系の方達は考えもしてないでしょうし、かく言う私自身、60歳になる迄
抱いたこともなかった、『物理学』への違和感がここ数年、私の中で拡大し、こんな言いた
い放題のコーナーでそれをぶつけてきましたが、今一つ、「なぜ、すれ違うのか?」につい
てわからないままでいました。で、どうやら、ようやく、その背景的なものがやっと、わかり
かけてきました。
前に、ネット記事で知った寺田寅彦さんについてしたためました(⇒ここ)が、最近、寺田
さんについて詳しく紹介されたサイトを発見しました(⇒寺田物理学の形成と展開の過程)
ここに、
「高等学校における田丸先生の物理も実に理想的の名講義であったと思う。後に
理科大学物理学科の課目として教わったものが『物理学』だとすると、その基礎
になるべき『物理そのもの』 とでもいったようなものを、高等学校在学中に田丸
先生からみっしり教わったというような気がす る。この時に教わったものが、今日
に至るまで実に頭にしみ込み実によく役立ち、そうしていつも自分の中で生きて
はたらいているのを感ずる。」
(「田丸先生の追憶」)(太字は私が勝手にしたものですm(__)m)
という寺田さんの言葉の引用がありました。
前にも触れましたが、寺田寅彦さんと言えば、一般には「科学随筆家」として有名で、また
私自身、「金平糖の研究」というようなユニークな論文を出された方くらいとしかよく知らな
かった(多分に多くの方もそうではないでしょうか?大変失礼ながらその名前も知らない
方も多くおられるのではないでしょうか?)んですが、前述のサイト記事を読んで、初めて
この方の科学における功績とそのユニークな発想の根源的なことについて知りました。
そして、前述のように、私が最近抱いてきた「違和感」の正体みたいなものがわかった気が
したわけです。
結局、前述の引用で太字で示しましたが、話がすれ違うのは、
『物理そのもの』と『物理学』が混同されている
からではないかと・・・。
これは、
最初に『物理そのもの』があって、その下に『物理学』がある
というのを、学校教育により、大半の理系の方々は(私もそうでしたけど)
『物理そのもの』=『物理学』
と勘違いして思い込んでいるのではないでしょうか?
再三引用していますが(例えばここ)、テスラが、
"Today's scientists have substituted mathematics for experiments,
and they wander off through equation after equation, and eventually
build a structure which has no relation to reality."
と慨嘆した、"structure which has no relation to reality"というのはまさに、
『物理学』が本来の『物理そのもの』からはずれてしまった
ことを表しているのではないでしょうか?
これも前に紹介しましたが、文化勲章受章者の数学者であった故・岡潔博士が
今の『物理学』は『自然科学』ではない
とおっしゃったという言はまさにそういう風潮を批判されていたことでしょうね。
私は最近は、『物理そのもの』を考えていたわけです。本コーナーでRelativityやBigbang
に反対の海外科学者の言をネットから拾って紹介してきましたが、なぜ、私にとって、そ
れらの言に説得力を感じているかは、まさに、それらの言の源に『物理そのもの』を感じ
たためということが今更わかった気がします。
大変失礼ながら、私にとっては、
その実は『物理そのもの』をないがしろにしているとしか思えない
『現代物理学』って一体全体なんなの?
『自然科学』と偽る単なる『代数数学』応用学でしかないのでは?
としか思えてなりません。
繰り返しますけど、話が平行線になっているのは、
『物理そのもの』を考えているか、『物理学を物理そのものと勘違い
している』か
ではないかと思うわけです。そして、繰り返しますが、大半の現代の理系の方達(かくいう
私自身そうでしたけど)は、
『物理学』を『物理そのもの』と勘違いしている
というか、つらつら考えるに、
『現代物理学』を『古典物理学』と同じ線上の『物理学』と思い違い
している
のではないでしょうか?
私は、少なくとも、小中高で学び、現実に「技術応用」されている『古典物理学』は、まだ、
『物理そのもの』の"reality"を観察したものを忠実に学問に昇華させようというスタンスが
感じられますが、非相対的量子力学を除く『現代物理学』(基礎物理学)には最早そういう
スタンスは全然感じられないのです。
私は、それがたとえ泥臭く、困難であろうと、
真の『物理学』というのは『物理そのもの』を愚直に常に見つめて
所謂bottom-upで構築されるべき
と考えます。メディア受けする「華やかさ・かっこよさ・名声」などを追及するのは、真の
『学問』とは程遠い『学問もどきの知的遊戯』でしかないと思うのです。
(’14/12)
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