科学における無限について@
『無限』というのは興味深い概念です。
しかしながら、我々はぼんやりと「無限」というのを頭の中に思い浮
かべることはできても、それを言葉できちんと表す事がなかなかでき
ないのではないかと思うのです。
Wikipediaにも、(ここ )
直感的には「限界を持たない」というだけの単純に理解できそう
な概念である一方で、直感的には有限な世界しか知りえないと
思われる人間にとって、無限というものが一体どういうことであ
るのかを厳密に理解することは非常に難しい問題を含んでいる。
とあります。
こういうテーマは当然ながら、「哲学的な何か」の議論がなされたも
のと思いますが、勿論、『原理・原則』を追求する『科学』の世界で
も一大テーマとして、古くから論議され、定義されてきています。
Wikipediaによれば、既に、紀元前400年から西暦200年頃にかけて
のインド数学において、「無限には、1方向の無限、2方向の無限、
平面の無限、あらゆる方向の無限、永遠に無限の5種類がある」と
されていたそうです。
現在の『数学』における『無限』については、まず、基本的には「∞」
(無限大)というのが一つのシンボル(記号)となっています。
ともすると誤解されやすい気がするのですが、この∞というのは
「無限に大きい」という言わば「曖昧なもの」を表す単なる記号であ
り、1とか2というような具体的な数値ではないということは留意すべ
きポイントだと思います。
ところで、数学の世界では、無限は『実無限』と『可能無限』という
区分がなされていて、『無限集合』というのは『実無限』の概念を用
いて定義されたものです。
『可能無限』というのは、『数え続ける』という言わば、「_ing」の概
念であり、普通に自然に素朴に考える無限はこれでしょう。
一方、『実無限』というのは『数え終えた』という、言わば「神の視点」
の概念です。『集合』というのは要素が確定している必要があるこ
とから、『無限集合』は必然的に『実無限』を採用せざるを得ないわ
けです。
しかしながら、実際のところ、どうなっているかを認知できないのに、
「神の視点」にたって、『数え終えた』としているため、カントールが
言い出した時、すぐに多くのパラドックスが指摘され、カントール自
身もパラドックスに気が付いてしまい、また、ポアンカレらと同様、
前期「数学的直観主義」的思考だったクロネッカーなどの当時の数
学の大家にいじめられたそうで、彼はしまいには精神に異常を来し
てしまったとか(どこの世界も人間が関与している限りこういうのが
実態なんですね。有名権威学者も人間ですなぁ)。
しかしながら、この『無限集合』を否定してしまうと、数学という学問
がたいそう窮屈なものになってしまうそうで、結局は、こういうパラ
ドックスを回避すべく、『選択公理』という、言わば恣意的な条件を
つけたした「公理的無限集合論」が標準になっているようです。
勿論、『公理』としていますので、その真偽の証明はできません。
前にも書いたのですが、調べていて色々と知ったんですけど、数学
者の多くが「自然科学では無い」と言明している『数学』という世界
は結構、恣意的にルールが決められている部分があるようです。
古くは、上でちょっと触れたのですが、ポアンカレーが先駆者で、ブ
ロワーという人がメインで主張した「数学的直観主義」というのがあ
るそうです。色々と調べてみると、どうやら、『無限集合論』に対する
批判が基本だったようで(ポアンカレーは不承知というスタンスだっ
たようです)、全ての命題への排中律の適用に反論(排中律が成立
しない命題もある)していたようです。
その主張は、私のような素人にはすごくもっともらしいと理解できる
ものなのですが、結局は多くの数学者の賛同を得られなかったよう
です。「間違っているから」ではありません。排中律適用に制約条
件を付けると、背理法が必ず成立するとは限らなくなるため、数学
の展開がかなり縛られてしまう(多くの定理が証明不可能になって
しまう)からというためだけだったようです。
ま、ブロワーと対立した当時の数学界の重鎮であるヒルベルトが目
論んだ『数学的形式主義』は、無限集合論体系で用いられた手法
によって呈示されたゲーテルの『不完全性定理』によりついえてし
まったことと合わせて考えてみれば、前述のように、多くの数学者
により「自然科学では無い」と言明されている「数学」の世界でも所
謂『神の世界』には到達できていないし、人間の自然な認知で全て
論理的に説明できている世界ではない(前述のように、人為的な
ルールを入れて矛盾回避をしている)と言えるのではないでしょう
うか?
実のところ、私は、『人為的・恣意的』というものには嫌悪感があり、
その意味では、「数学的直観主義」というのに親近感があって、わ
だかまりはあるんですけど、これは、あくまで『数学』という学問
世界での話であり、多くの数学者が言明しているように、「数学は
『自然科学』ではない」ということに厳格に徹しているならば、それ
もありか(『選択公理』による『公理的無限集合論』でのパラドック
ス解決等)なと思っています。
おっと、テーマと少しずれた話を長々と書いてしまいました。ただ、
これは私の主張において、どうしても触れておきたいことでしたの
でご容赦の程m(__)m。
前置きだけで長くなりましたので、項を分けて続けます。
(この項続く)
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