『なぜか』を考えない科学はいかがなものか

(本項は以前書いたものを抹消してタイトルも変えて書き直しました)

科学について学びますと、素朴な疑問から学んだ上で出てくる様々な疑問につい
ていかに「地球の科学」ではわかっていないことが多いかに驚きます。

『素朴な疑問』は例えば「なぜ重力があるのか」というようなもので、学んでいると
出てくるのは、例えば「なぜエネルギーは離散的なのか」とか「量子力学における
確率の波って何か?」「量子って一体全体何者か?」というようなことです。

で、ネットで調べていて、ちょっと気になる言説を目にしました・・・・

 物理学は「Why?」でなく「How?」を追求する学問
 「Why?」は科学哲学の課題である


これは現在の科学者共通の認識なのでしょうか?もしそうなら、いつから『自然科
学』というのはそういうものになったのでしょうか?最初からでしょうか?

私は絶対そんなこと(大昔からとか全ての物理学者共通認識とか)はないと信じた
いのですが・・・。私の思い違いでしょうか??
物理学って「物の理(ことわり)」を探求する学問じゃないでしょうか?
この「理(ことわり)」って「How?」のことなのでしょうか??

結局のところは、「地球の科学者の共通認識としての『科学的』な説明」ができない
ために、

 自然がそうなっているから仕方がない

えらそうに嘯いているにすぎないのではないでしょうか?こんなこと言うとネットで
見受けたんですが、条件反射的に「科学者への侮辱だ」と怒る人がいるようですが、
「いくら怒ろうが事実でしょ?違いますか?」。だからこそ、何か、言い訳的に「物理学
は『How?』を追求する学問です」という言明まで出てきているのではないでしょうか?

私が残念でならないのは、今の地球の科学特に『物理学』は高等数学をいじくり回し
ての「How?」の追求ばかりにあくせくしている感がしてならないことです。
昔の有名な科学者について調べていると、昔はそうではなかった気がします。前に書
きましたがマックウェルの方程式で有名なマックスウェルは数学にたけていたそうで
すが、同時に物理イメージを描くのにも優れていたそうです。19世紀に既にあの、
つい近年まで仮想的なものと考えられてきたベクトルポテンシャルの物理的イメージ
を描いていたそうです。

よく、科学者は「科学研究の進歩により多くの事がわかってきた」と言います。
私も、最近、暇にまかせて好きな科学関係で電磁気学や量子力学の教科書を再読
して、多くの過去の科学者の努力と才能には敬意を表しています。よくこんなこと思
いついたなぁと驚くことばかりです。
しかしながら、それはそれとして、繰り返し書いていますけど、「科学者の言う『多くの
ことがわかってきた
』」というのは、言うなれば「地球の科学知識を元にして『うまくつ
じつまがあう
』理論が構築できた」ということではないでしょうか?
もし、その理論に合致しない観測結果・現象が出て来た時は本来の科学の心髄によ
ればその理論は崩壊し、新たな理論を再構築すべきはずですけど、見る所、現代科
学はそうなっていないですね。私が唯一、未だ崩れていないと考えているのは「量子
力学」(場の量子論は除く)だけです。大半は新たにその理論で説明がつかない現象
が出てくるとき、大本はそのままにして、証明もされていない脳内から出てきた新た
な仮定
を入れて大本の基礎理論の先延ばし延命を図っています

だからこそ、私は、

 「科学者の言う『多くのことがわかってきた』」というのは、単に「地球の科学知識
 を元にして『現在までの観測結果・事象に対してうまくつじつまがあう理論が構築
 できた」


というだけものでしょ?と言っているのです。
既存理論に絶対的信を置き、数学を駆使して「How?」の追求だけ言わばの『理論至
上主義
』に偏ってしまっているからこそこうなってしまっているのではないでしょ
うか?そして、そういうやり方での最先端にある「超弦理論」は全く実証も予測もでき
ない脳内理論として行き詰っているようですね。
「数学を駆使して」出てきた結論は合理的で「真理」だという強い科学者の思い込みが
同じ科学界の重鎮からの批判があるにも係わらずありますけど、私に言わせてもらえ
『自然科学』の本質を忘れた「ひとりよがり」でしかない気がしますね。

このコーナーで繰り返し批判していますが、本職の研究では無く、まことにくだらない
「擬似科学批判」で名を成している(本人は「科学教育論」から言っているかもしれませ
んが私に言わせれば、ただ単に正統アカデミズム科学界にとっては目障りな「異端」を
排除したいだけというさもしい根性が見え隠れし、深い洞察に基づくような高級な観点
からのものなんかではない)何某が、「科学者は断定しないが擬似科学を主張する人
は断定する」と言っていますけど、有名な「相対性理論学者」は「原理だ」と断言してま
すなぁ・・・(どこに整合性が有るのでしょうか?)。

結局、「『How?』の追求ばかり」では「真理・真実」は見えてこないのではないでしょう
か?その時点で「見えた気になっているだけ」ではないでしょうか?
真の意味での「真理・真実」に到達するためには、やはり「Why?」を考えなければな
らないのではないでしょうか?

しかし、なぜ、科学者は「Why?」を考えることをやめてしまっているのでしょうか?
恐らく、西欧において、教会が力を持ち過ぎ、その結果として『科学』と『宗教』が対立
するかのような風潮になり、科学者が科学=唯物主義=合理的という思考からそう
でないものを皆、「宗教」に属する事柄としてしまったことにあるのではないでしょうか?
日本の学界というのは基本的に西欧からの輸入で成り立っており、科学と言うものの
概念もそのまま受け継いでいるようです。

しかしながら、『東洋哲学』(≒仏教)には「全知全能の『神』」という概念がありません。
しかし、当然ながら『唯物主義』でもありません。
ですから、本質的には『物』ではないものを意図的に排除するような思考があるわけ
ではなく、西欧科学の受け売りでの「科学教育」である意味、「西欧的に洗脳されてい
る」だけにすぎないわけです。だから、日本の大半の科学者は「聖書と科学との乖離」
などで悩む必然性はありません。ということは、本来なら、東洋人こそ、余計な思いで
『唯物主義』以外を『宗教』だとして排除してしまうようなことはないはずです。

勝手な時だけ「自然がそうなっているから仕方がない」と嘆くのではなく、「全知全能
の『神』」という「創造主」によるものではなくて、宇宙には法則が定まっているのだと
考えたらどうでしょうか?
「全知全能の『神』」といういかにも「人間体」をした「創造主」を思い浮かべるゆえに
抵抗感が出て来てしまうのです。

私は科学の真実を見極めるためには、科学=唯物主義=合理的、それ以外は非科
学な宗教分野
だという誤った思いこみから抜けだすのが必須ではないかと考えます。
現代物理学の基礎を築いたかつての一流物理学者の何人かが「東洋哲学」にのめり
込んだと聞き及んでいます。なぜでしょうか?

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