「量子」について(4)
せがれから借りた「量子力学」の教科書((裳華房『量子力学(T)』(基礎
物理学選書))をじっくり読んでいます。これ書いている時点では第一章「
量子論の始まり」と第二章「1粒子の波動関数」を読み終わりました。
例によって、わからないところが出てくると先に進めない私ですので、読
み終えたと言うことは、沢山出てくる「数式」の展開を自分で追って理解
できたということであり、「本当に神髄を理解できたか」ということとは別
ですけどね。
めんどくさい数式ばかりですけど、それほど高等な数学ではなく高校レ
ベルの数学知識でやれるようです。ここまででは何に使うのかまだわか
らない調和振動子が出てきて、最初の方では「なんでこう置くの?」とか
疑問だらけでしたが、途中で数学の「エルミート多項式」というのが出て
きてやっとこさ「な〜んだぁ。そこに帰着させたかったからかぁ」とわかっ
たりしましたけどね。電磁気学でも微分方程式の解などで数学の特殊
な式が出てきたりしますけど、どちらが先か不案内ですけど、うまい具
合になっているんですねぇ。
ま、いずれにしろ、『量子力学』の確立には多くの物理学者の知恵が結
集されていて(簡単には解けない偏微分方程式である波動方程式の解
を求めて現象との妥当性を確認するようなこと)、後世の、私のように特
に学者でもない市井の科学好きはそれを「ふむふむ、なるほど。こんな
のよく思いついたなぁ」とただただ感心しながら学ぶだけですけど、よく、
「量子力学を完全に理解できている科学者は一人もいない」などと言わ
れます。しかしながら、こんな数学的展開など物理学者さんならお手の
もでしょうから、結局のところは、コペンハーゲン解釈の主張のように、
根本的な解釈・科学的つじつまわせの面での話ではないかと勝手に思
ってるのですが・・・(「場の量子論」の話ではないでしょう?)。
さて、私自身は、昔、ある本の中にあったある記述が長年気になってい
ましたが、「現代物理のおかしさ」
というサイトを見付け、内容を十分理
解できたわけではなのですが、前述の気になっていたことのある私には
御主張に説得力を感じ、本質は「もの」ではなく「波」ではないかと思い
始めているところです。実は、かなり以前に、ブルーバックスの超弦理論
を読んだのもそういう意識が心の中にあったためでした。実体は私が思
っていたこととは今では乖離している気がしてますけどね。なぜなら、
やっぱり「超弦」という「もの」を想定しているようですから。
ただ、そう言いながらも、私自身、ずっとこれまで「波」については思い違
いをしてきた気がします。「物理学で云う波は『海の波のようなもの』では
ないよ」という説明は目にしてはいたのですが、私もやはり、地球人の『
常識』から離れられてはいなかったようです。
物理的な「波」は例えば電磁波と称せられているもののように、目には見
えなくても、何か「具体的な物理的な状態」の伝搬という風に捉えていま
した。ですから、「確率の波」とか「可能性の波」という極めて「抽象的」な
説明にはどうしても違和感を感じてしまっていたんですね。
どうも、地球人類はその概念を表現する最適の「言葉」を持っていないよ
うです。地球で定義された「抽象的」という言葉はどうしても「思考」の世界
のものになってしまいます。ですが、シュレディンガー方程式のΨはそん
なものではないのですよね。『状態変数』という名称も使われていますが
「変数」というのが私には何か「数学」の世界の説明に見られてあまり納
得できません。ボームらの『隠れた変数』などという主張も私は賛同でき
ないのです。
勿論、私は現時点では、地球人共通の『常識』をベースに取り決められた
今の地球における空間と時間の概念を元に確立された量子力学の金字
塔と言うべき「シュレディンガー方程式」には疑念を持っていません。
これは「波動方程式」ですから、Ψは「地球の物理学で定義された『波』」
に間違いはありませんが、ただ、留意すべきは、今の地球における空間
と時間の概念から定義された『波』だということです。
で、私はだからこそ、なかなか皆が根本的には理解できないのではない
かと思うのです。
もし、宇宙人の存在が現実のものであるなら(私は信じているのですが)
そこの物理学は今の地球の物理学とは基本概念から全く異なっていて、
そこでは、その物理学できちんと皆が理解できているのかもしれません。
地球の科学者はよく「ここまでわかってきた」という表現を使いますけど、
私に言わせてもらえば、大変失礼ながら、実態は「既存の科学的常識・
知識を元にして、ここまではうまくつじつまがあった」というだけじゃない
でしょうか?調べてみると、わかっていないことが山のように残っている
ようです。
いずれにしろ、自分の思いをうまく表す適切な用語がないのですが、ぼ
んやりながら、自分の中では理解できつつある気がしてきています。頭
に浮かんだ用語を出してしまうと、ちょっと違うって気もしますのでここで
はうまく表現することができないのですが。
ただし、「波束の収束」というのは私には、別項で書いた「顕現する」とい
う言葉がすごくマッチしている気がします。あくまで、私にとってですけど
ね。そして、やはり、この「『波束の収束』は『観測』で起きる」のではない
かと思うのです。それ以外の時に起きるという理由が思いつかないから
ですが。
私は『決定論』というのにはどうしても組みできません。そんなのが真実
としたら人間それぞれの人生そして時代の事件が皆悉く決まってしまっ
ていることになってしまいます。いくら、それとは違うと言ったって、それ
こそご都合主義の「詭弁」でしかありません。
将来はそのときそのときのなした条件で異なるのではないでしょうか?
そしてそれは、その条件に従う「いくつかの可能性」のどれかになるだ
ろうと考える方が「自然」ではないでしょうか?
今、私の中には、「月は独立してそこに存在するのだ」という科学者の
「唯物主義的」思考には同意できないものがあります。
私が「多世界解釈」に賛同できないのもそういう自分自身の思いからで
「可能性のあるものが皆同時に『存在する』のだ」というこの『存在』思考
が地球科学者の共通認識になっている「唯物主義的」思考に当るゆえ
です。
私は、本当は、この量子力学の結論こそ、地球科学者の根本的共通思
考を大変革すべき極めて重要な発見だと思うのですが・・・
このままでは未来永劫、科学者や科学好きな人は忸怩たる思いのまま
になる気がしてなりません(例え、色々な発見をしても、「プラグマティズ
ム」のままで終わるのではないかと)。
そして、それは決して『哲学』などというものに転嫁すべきではないと思
うのですが。
例えば、科学者は「重力はなぜあるのか」という命題については考えもし
ていませんよね。そんなことを考えるのは「哲学」だという意見まで目に
しました。しかし、そういう科学者の態度が本質的なことを見逃している
のではないかという気がします。わからなくても説明がつくからいいんだ
という「プラグマティズム」は技術の世界ならすむのかもしれませんが(
実際には高度に産業が発展してきている現在、技術の世界でもそれで
はすまなくなってきているんですけどねぇ)。
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