公理とか原理とか
数学には『公理』と『定理』というのがあります。『定義』というのもありますね。
一方、自然科学では『原理』などというものも出てきます。共通で『仮定』という用語もあります。
しかし、これらの用語の意義はわかっているようで意外に曖昧じゃないでしょうか?
ちなみにWikipediaには
公理 その他の命題を導き出すための前提として導入される最も基本的な仮定
定理 公理を前提として演繹的に導き出される命題
定義 コミュニケーションを円滑に行うために、ある言葉の正確な意味や用法に
ついて、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業
原理 学問的論議を展開する時に予め置かれるべき言明
科学では、ある理論の出発点であり、そこから全ての現象が矛盾なく説明
できいるという哲学的意味の原理のほか、より基本的な法則から導かれる
ものもある
仮定 現象や規則性が出現する仕組みや機序が知られていない場合に、それを
説明するために、人が考え出した筋道や推論の前提のこと
とあります。
公理についてはあるサイトに
ある体系の基盤となる「論理的な」決めごと
「論理的な」といいながら「疑っていはいけない」決め
とありました。また、同じサイトで定義については
決めごとではあるが、その体系の基盤となるものではなくて、
便宜上、決めておくもの、そのように決めておくと便利なもの
とありました。
私はどうもWikipediaの公理の説明には納得できないものがあります。この説明は現代数学に
合わせて拡張したものじゃないかと言う気がしてなりません。
公理はそもそもユークリッド幾何学でなされた他から証明できないものというものではありま
せんでしたでしょうか?で、問題になった第五公理以外の四つは、別に学者だけではなく一般
の人々も疑わないような「共通の認識」のものではないでしょうか?
「公」という字はそういう意義があるのではないかと思う訳です。ですから、Wikipediaの「仮定」
という説明には少し違和感を感じるのです。
私は「仮定」というのはその理論などを構築した個人が作ったものという認識をしています。
そして、実無限から出て来たパラドックスを強引に消し去るために作られた「公理的集合論」の
公理という響きも一般的な人間の共通認識ではなく、実無限を正としたい要求にかられた数学
者の仮定と云う気がしてなりません。ひとしくあまねく多くの一般的人間が感覚として納得できる
ものだけが真の公理ではないかと思っています。要するに数学における公理は大昔に作られた
素朴なもののみと考えるのです。そしてこれは決して「仮定」ではないと思うのです。
ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学もその体系の中では無矛盾ですし、パラドックスを
公理が抑え込んでいるような事実はありません。だからこそ万人に認められた公理系なのです。
確かにユークリッド幾何学の第五公理は疑問を持つ学者は多かったですけど、直接証明法でも
証明されず、また間接証明法(背理法)でも真偽の証明はできませんでした。
公理と言うのはこういうものであるという好例ではないでしょうか?
私は決して「ご都合主義の人為的仮定」とは思えないのです。公理とできるのはまさにこういう
少数限定のものだけだと思うのですが・・・。
そして、原理。これは公理ほど明確なものではありません。抽象的概念ではなく現実的な自然科
学の面のものですから余計そうでしょう。本当に真理かどうか完全確定しているわけではないの
ですから、昔からの人間の共通認識としてあまり疑いのないもの以外の物を勝手に「原理だ」と
主張するのは原理の意義を曲解したおこがましいものではないでしょうか?
数学の場合は、その基本的学問の性質として、自然科学とは別のところにありますから、矛盾が
なく完璧につじつまが合っていればいいわけです。そこには「正しいか間違っているか」というよう
な価値判断はあまり意味がないようです。納得できるかできないかだけでしょうね。なぜならここ
でいう納得できる、できないというのは展開ではなく、最初においた取り決めに対するものだけで
すから。
しかし、自然科学の方はそれでは駄目です。真・偽は必ず内在しています。「今のところ合う」と
いう理論でも未来永劫合っているかどうかは誰もわかりません。ある日、破たんがくる可能性を
常に秘めているでしょう。すなわち、「絶対正しい」と断定できるものではないということです。
本質的には数学とは根本的に学問のあり方が違うということです。
ですから、原理と言うのは公理とは基本的に違うものと考えます。
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