排中律、背理法など
(前に背理法について述べましたが、あまり知らないままアップしてしまったため、その修正
改定版です)
最近まで私は恥ずかしながら『排中律』とか『背理法』というのを全然知りませんでした(^_^;)。
今では少なくとも後者は高校の「数学A」という分野で習うようですね。前者は先生によるの
かもしれませんが、息子に見せてもらったチャートには記載がなく理系の彼も知りませんでし
た。
これは数学と言うより、所謂『論理学』の範疇だからかもしれませんね。西欧では早いうちに
数学でこういう論理学的なことを学ぶそうですが、日本の数学はむしろ計算主体の教育です
ものね。私の時代には『背理法』などというのは習った記憶がありません(忘れているだけ?)
そういうわけでネットで色々と調べてみました。やはり人により微妙に意見が分かれるものが
多いですねぇ。自分でどれが一番基本的なのか見極める必要がありそうです。
ま、論理学を数学の一分野に含める考え方もあるようですが、実際には独自に発展したもの
だそうです。
論理学は南イタリアのエレア出身のパルメニデスという方が創始者と言われていて、彼の最
大の功績が『排中律』の発見だったとのことです。
これとは別のサイトの記事ですが、長い間、アリストテレスの流れを汲む論理学を超えるも
のが現れなかったところに、19世紀になって、ライプニッツが17世紀に企てたさまざまな学
問の体系化・記号化の流れを受けた『記号論理学』が現れて発展を見たようです。
------------
歴史的なことはこれくらいにして・・・まずは『排中律』です。
wikipediaなどでは
A∨¬A
と定義されています。すなわち、
どのような命題Aも、
・Aが正しい(真)
・¬A(Aの否定)が正しい、すなわちAが正しくない(偽)
のどちらかである。
ということだそうです。どうやら「どのような命題でも」というのが一つの問題ポイントのよう
ですが(後述)。
一方、『背理法』。これは『排中律』の成立が前提になっている命題の真・偽の証明法です。
命題Aが間違っていることを証明するため、まず¬Aを正しいと仮定して論を進め、
矛盾を導き出すもの
という説明がありました。
しかし、どうやら混乱があるようで・・・。ネット見ていると、背理法を対偶証明法と同じだとか
含まれるとか主張している方達もいます。しかし、基本的には違うようです。
A→Bに対して対偶というのは¬B→¬Aというものです。ちなみにA→Bは逆、¬A→¬B
は裏です。「逆は真ならず」は格言になってます。で、対偶証明法というのは
¬B→¬Aが真ならA→Bは真
というものです。
しかしながら、背理法というのは、そうではなく、正確には
A→Bに対して(A∧¬B)が矛盾することを証明することでA→Bが真であることを
証明するもの
だそうですからちと違いますね。どうやら、誤解のもとは例題にあるのではと思います。
ところで、前述のように『排中律』というのは「Aか¬Aのいずれかが必ず成立する」というも
ので、これは一見したとき「自明の理」に見えますが、「成立する」というのを「証明できる」
と解釈すると決して自明ではないという問題があります。
要するに、ポイントになるのは『命題』にあり、合理的に見て、その命題が真か偽かがはっき
りしているときのみ適用可能なんですね。
そこで、『無限集合』が問題になり、この場合も有限集合と同様、排中律と背理法を使うため
には、従来の無限の概念ではうまくいかないために、カントールが『実無限』という概念を提
案しました。そして、従来の無限の概念を『可能無限』として区別しています。
比較しますと以下です。
実無限 無限を数え切れたとするもの
可能無限 無限は永遠に数え続けるというもの(-ing)
要するに
実無限・・・『神の視点』 可能無限・・・『人間の視点』
のものと考えられます。
しかし、やはり反対者が出ました。ブラウワという人が数学的『直観主義』という主張を掲げ
『神の視点』である実無限の否定をするとともに、このような例外的な命題を考慮したと思う
のですが、排中律と背理法を否定したようです(全否定ではなく、全てに適用することを否定
したのではないかと思います。そのような推測かそれとも情報を目にされたのか不明ですが、
そういう主張を目にしました)。
そして、形式主義での数学を完結化しようという野望の掲げていた当時の数学界の重鎮ヒル
ベルトとの間で激しい論争があったそうです。形式主義自体は結局、ゲーテルの不完全定理
により数学を統合完結化させることはかなわぬ夢に終わりましたが、多くの数学者は排中律
を採る立場だったからうまく説明できる実無限が正当数学になったんでしょうね。
なお、これも知らなかったんですが、ブラウワより以前に同類の主張があり、それを前期直観
主義というそうで、なんとあのポアンカレーがその立場だったそうです。
彼は、
「実無限は存在しない。私にとってはこの問題は疑問の余地がない」
と主張、また
(全体Z)−(A)=(A以外)という場合、(A以外)に一致するような定義(存在)を与えることが
可能かどうか不明であり、このときAと(A以外)の排中律が成り立つかどうか不明であるとして、
「定義は矛盾を含まず、また、先に承認してある真理とも矛盾しないことを証明しえなけれ
ば、純粋論理的見地からは正当なものと認められない」
とも主張したそうです。
元々、前の方の項で書いたように、たまたま、カントールの対角線論法への疑問から実無限否
定の論陣を張られている個人サイトを目にして排中律、背理法などと合わせて実無限と可能無
限という二つの無限の概念を知ったのですが、ネットサーフィンしてましたら、なんと同じく実無
限否定の立場で講談社から本を出されている方もいらっしゃるんですねぇ。
数学は科学と違い、破たんしないようなつじつまが合うということがポイントの学問のようですか
ら、「正しい」「正しくない」というのを判定できないのかもしれませんけど、素直な人間的感覚で
は『直観主義』の方がなんとなく説得力を感じる私です。
でも、高校で習ったかの
0.9999・・・=1
というのは実無限の概念なんだそうですねぇ・・・困りました(^_^;)
ま、結局、無責任な素人である私から見ると『人為的・ご都合主義的』に見えてしまう「実無限」の
概念は、案の定、カントール自身が自ら発見してしまったカントールのパラドックスやラッセルの
パラドックスなど多くのパラドックスが出て来てしまったようで、現在では、これも人為的・ご都合
主義的な『公理的集合論』で強引に(私はそう感じます)パラドックス回避をしているそうです。
目次に戻る