『禁足』について〜高田崇史『神器封殺』より〜(’20/11)


高田崇史氏のミステリー小説QEDシリーズでは、漢方薬局に勤めている薬剤師の桑原崇の神社に関する
独自考察(当然、作者の解釈でしょう)を盛り込んだ蘊蓄語りが多くを占めています。

その中で、『神器封殺』という物語では、一般的な言い伝えと云うか常識的に信じられていることについ
て、驚くべき主張がなされていました。それは、淡路島の兵庫県津名郡一宮町多賀にある伊弉諾神宮
関する蘊蓄の中で語られているものです。伊弉諾神宮は、近代から終戦までにあった「近代社格制度」で
は一番最高位の「官幣大社」に位置付けられていた神社で、戦後は「神宮」となったもので、主祭神は、
勿論、伊弉諾尊です。場所は下記です。

  図1 伊弉諾神宮の位置

伊弉諾神宮については、以下の説明がなされています−

 天を突くような花崗岩製の神明鳥居をくぐって行くと、その先に御陵の濠の一部になってい
 る神池しんちがあり、神橋を渡ると檜皮葺の表神門に到達する。この本殿が建つのは神陵地であり、
 かつての禁足地だった。明治十二年(一八七九)から始まった造営で旧幕時代の社殿が廃さ
 れて、御陵を覆うように整地され、基壇を高く構えてその上に本殿が移築遷座された。江戸
 中期にその神域は半分に減らされてしまったらしいが、今もなお約一万五千坪の境内を持ち、
 そこには楠や槙などが生い茂っている。そして、樹齢九百年といわれる『夫婦めおとの大楠』は、
 兵庫県天然記念物に指定されている。全国二十三神宮の中でも、位の高い神宮の一つ。
 明治十八年に官幣大社となり、昭和二十九年に神宮となる


一般には、伊弉諾尊は「国生み」「国造り」の神とされて伊弉諾・伊弉冉のペアで知られています。
小説では−

 伊弉諾尊・伊弉冉尊は、まずこの淤能碁呂島おのごろしまに降り立ち、そこに八尋殿やひろどの−大きな広い御殿を
 建てられ、ここから国生みに着手した。そして淡路島を皮切りに、四国、九州・・・・・・と国を
 造られた。その後、伊弉諾尊は淡路島に一人帰られ、多賀の地に『幽宮かくれみや』を構えられて余
 生を過ごされたといわれている。  


と述べられていて、関連する『日本書紀』神代上の記述も紹介されています−

 「伊弉諾尊、神功既にへたまひて、霊運当遷あつしれたまふ。是を以て、幽宮を淡路島のくにつく
 りて、寂然しずかに長く隠れましき


淤能碁呂島というのは、今はその地名の島は無く、いくつかの候補地があるようで、その一つは、淡路島
の南部近傍にある「沼島」だそうです。

で、恥ずかしながら、私はこういう話はまるで不案内でしたので、これを読んでそうなのか、と今更思っ
たのでしたが・・・。この作家は、桑原崇に、驚くべき説を唱えさせています−

 伊弉諾尊は、日本最古の御霊おんりょうとなった

と−御霊とは、怨霊のことで、元々の怨霊が人々に祀り上げられることによって、祟りをもたらさない
「御霊」となる・・・


こんな説は、ググってみたのですが、調べ方が悪いのか、それともこの作者独自の説なのか見つかりま
せんでしたが、その根拠としていくつかが示されています−

 ・ [松前健氏曰く]皇室の公然たる氏神で、天皇の守護神として最も重んじられている御巫
  八神は・・・
  「神産霊かみむすび高御産霊たかみむすび生産霊いくむすび足産霊たるむすび玉留産霊たまつめむすび大宮乃売おみやのめ大御膳都神おおみけつかみ事代主ことしろぬし
  で、我が国の創造神にも拘わらず、伊弉諾・伊弉冉尊の名前が入っていない。つまり、
  代々天皇家では、この二柱の神々を重視していなかったことになる。

 ・[岡田精司氏曰く]藤原頼長の日記である「台記」所載の「中臣寿詞」にも、伊弉諾・伊弉
  冉尊の名前は見えない。
  「延喜式」の祝詞からうかがわれる、八、九世紀の宮廷祭祀でもこの二神は軽く扱われて
  いた−彼等を祖神とする氏族が「新撰姓氏録」に全く見ることができない

 ・五穀豊穣を祈願して行われた祈願祭の祝詞にも、この二神の名前は無いようである。
 ・「記紀」の「神代」以外でこの神々の名が現れるのは「書紀」の履中天皇五年九月の条だ
  け。しかもその場面は、天皇が淡路島に狩りに行った時に、飼部うまかいべたちのめさきのきず−入れ墨
  の「血の臭きに堪えず」という託宣があったというだけ。そのほかは、允恭天皇十四年の
  条に祟り神として登場−天皇らが神聖とされる伊弉諾神宮の周りで狩りを行い、伊弉諾尊
  の霊が怒った・・・


そして、タイトルなのですが−前述で、本殿が建っていたのは、禁足地ヽヽヽとありますけど・・・
禁足』を辞書で調べるとその意味は−

 そこから出てはいけないヽヽヽヽヽヽヽ

したがって、禁足地というのは、本来は、「入ってはいけない」という意味ではないのです!!私も誤解
していたのですが、多くの人は「神聖な地だから入ってはいけない」と解釈しているのではないでしょう
か?だから、「本殿が建っていたのは、禁足地」と書かれているのを読んだり、書いたりしてるのは、そ
ういう誤解ゆえに、特別に疑念を持たずにいるのではないかと思うのです。
禁足地でググりますと、「入ることは出来るが、一旦入るとでてこれない地」という説明もあったりしま
したが、これは「出られない」すなわち「出てはいけない」に通じますね。

それゆえ、作者は、桑原崇に次のように言わせています。−

 伊弉諾尊は、淡路島に幽閉されている

まさに「幽宮ヽヽ」だ、と。そして、更に、伊弉諾神宮のある地の地名「多賀」というのは「たか」=「箍」
という意味から来ている「縛る、束縛する」ということ−自分達に刃向かう敵を束縛して、とてもめでた
いという意味の言葉が「多賀」である、では、何故、伊弉諾尊に外に出てもらっては困るのか−それは、
彼が祟り神だから
だ、と。

真偽の程は分かりませんが−私は「アカデミア歴史学」だといえど、その説明や異端説への反論に不自然
さや、「アカデミー学者が言うのだから」という上から目線の態度が明白に窺えるものには不快感さえ感
じていますので、そういう目線から間違っていると嘲笑罵倒するのには反対の立場ですが−一応は説得力
を感じました。勿論、「禁足」という二字熟語の意味を知った故ですが。

では、次の問題として、反論にもなろうと思いますが、なぜ、伊弉諾尊がそんな恐ろしい神として祀られ
るようになったか、ということがあります。これに対して、証拠はないが、としながら、「国造り」とい
うキーワードと、大国主・少彦名命を出して来て考察しています−

大己貴命おおなむちのみこと、つまり大国主命と少彦名命による国造りの話は、「古事記」「日本書紀」「万葉集」「播
磨国風土記」「出雲国風土記」「続日本紀」などの書物に、沢山残されている
。しかし、伊弉諾・伊弉冉
尊たちの話は、神話の世界だけ

ということは、これはただ単に形を借りていたにすぎないのではないかという疑問が浮かび上がる。

そこで、大国主・少彦名命の運命である−

 ・大国主命は国を譲った−奪われた−後で、命を落としている。
 ・息子たちも同様−兄・事代主神ことしろぬしのかみは自殺、抵抗した弟・建御名方神たけみなかたのかみは敗走し、諏訪大社
  に「禁足」させられている。
 ・少彦名命は、国造りが終わったと同時に、海へと流されてしまっている−祭神が少彦名命
  である淡島神社(雛祭りの起源の神社)では雛流しの儀が行われている。


これは、一生懸命に国を造った大国主命や少彦名命たちを、用が終わったらあっさりと殺してしまったこ
とになり、朝廷側の人間にとっては出来る限り隠しておきたいこと−しかし、完全にその歴史を消しさる
ことはできなかったため、「国を造ったのは彼等ではない」「この国は、伊弉諾・伊弉冉尊という、かけ
まくもかしこき神々がお造りになられて、それを天照大神の子孫である我々が受け継いだのである」とい
う狂言を作り上げ、その作業が済むと、伊弉諾・伊弉冉尊を幽閉あるいは殺害した、と考えられる、と。

−そういう推定なんですが、ここは証拠はないので、こじつけとも考えられ、私にとっては十分な説得性
は薄いと感じましたが、「いつも同じ手口」という主張があり、まったくあり得ない話ではないと思いま
した。ここに、梅原猛氏の衝撃的な言葉が載せられています−

 「嘘をつけない縄文人たちを、平気で嘘をつくことができる人々が駆逐した



                             ('20/11)

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