京極夏彦・京極堂シリーズ考・再度(ネタバレあり)(全面改訂)(’18/8)
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前回記事を抹消し改めて書き直しました。
随所でネタバレがありますので、ご留意くださいm(__)m
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私はミステリーが好きなんですが、どうもネット上の書評などを眺めていますと、私の読み方・興味
の的と云うのは他者とはずいぶん異なっているようです。ですから、私にとっては、一般的に評価が
高い作品が必ずしも面白いとは限らず、逆にあまり高評価を得ていないものが面白かったりします。
その「面白さ」は作品に対して一般の方々が感じられているのと別の観点からのこともよくあるよう
です。
今更ながらと笑われそうですが、私的に、このシリーズについて気が付いたこと・感じたことを思いつ
くまま纏めますと下記です(勿論、私の感想であり私だけの思いがあるかもしれません)。
@「京極堂シリーズ」は、殺人事件とその謎が出てくるというところでミステリー
小説ですが、独特の「京極夏彦氏の世界感」の小説であること
A順番に読まないとわかりにくいこと
B内外のミステリーでよくあるような、登場人物に関わる前の事件は、単に「〇
〇事件」とだけ記され、その事件を扱った小説名は一切注釈がつけられてい
ない(だからAである)。
C京極堂=中禅寺秋彦を主に、登場人物に、多分に著者・京極夏彦氏の哲学
観を語らせていて、それが事件の核心にも繋がっている場合が多い。
(京極夏彦氏の哲学観と妖怪に関する深い知識が小説を書かせている動機・
原動力ではないかとも感じています)
D警察に逮捕されない、警察が逮捕できない或いは知らない、所謂「ラスボス」
(いい年こいてお里が知れるような表現です(^^;)が中禅寺秋彦によって見抜
かれる作品もいくつかある。(「絡新婦の理」「塗仏の宴 (宴の支度、宴の始末)」、
「邪魅の雫」など)
Eわざとなのか、文章内で漢字が沢山使用され、それが、一般的ではない漢字
(当用漢字にないものも多い)が好んで使われていること−多くの漢字にルビが
つけられていますが、正規の読み方とは変えているもの;例えば外来語とか
をつけているものもあります。
F長編なのに、一般的な「小見出し」が全く使われず、番号または「*」での区分
のみである。そのため、何か映画のシーン区分みたいな感もしています−唐突
に場面もそこでの登場人物も変わる−が、それらの、一見まるで無関係なもの
の一つ一つが、実際にはすべて複雑に絡み合い、事件の核心に繋がっていて、
最後の大団円を迎える・・・登場人物も多い・・・。そして、それぞれの場面で書
かれたちょっとしたところに多くの含みを持たせてあり、私のよくやるような、飛
ばし読み・ななめ読みでは筋の核心がわからなくなってしまうこと
G魅力的な登場人物が出てくること。とりわけ、榎木津礼二郎「探偵」はその言動
が私にはすごく楽しく愉快であり、このシリーズの要になっていると感じています。
H登場人物の状況が固定的ではなく、小説の順にしたがって経緯的に描かれてい
る−仮想世界の小説ではありますけど、前作での事象を書きっぱなしにはしてい
なくて、その後の変化がきちんと示されている。
Iプロローグのスタイルが作品により様々で、誰かの意味深な独白であったり、「絡
新婦の理」のように、本編ラスト部分の続きであったりと・・・
「絡新婦の理」(講談社ノベルズ)の裏表紙で明石散人氏と云う方がこの作品に関して書かれた一文
の中に
−全ての事象は、原因があり経過があり、結果として発現する。偶然の組み合わせは、
復元され思わぬ事象を生むが、そこで発色された事象は、その糸を手繰れば何かの経
緯の、ある一点に到達する。
というのがありますが、私は、「絡新婦の理」に限らず、京極夏彦氏の京極堂シリーズには同様の流
れがある感を抱いています。そして、たびたび、京極堂=中禅寺秋彦に語らせているように、「この
世に不思議なものは何もないのだよ」という、多分に作者・京極夏彦氏の「哲学観」が縦横に表出し
てのものだろうと思われます。デビュー作「姑獲鳥の夏」は構想10年だったとか。それぞれ出版まで
にファンがいらいらして待っているらしいほど期間がかかってきたようですが、それだけ綿密に隅々
まで十二分に練られ構築された小説世界だと思われます。
「邪魅の雫」(講談社ノベルズ)2006年第三刷に講談社ノベルズ・「京極夏彦作品一覧」というのがあ
りました(2006年9月現在)。そのまま順に示しますと、
○姑獲鳥の夏
○魍魎の匣
○狂骨の夢
○鉄鼠の檻
○絡新婦の理
○塗仏の宴 宴の支度
○塗仏の宴 宴()の始末()
百鬼夜行−陰
百器徒然袋−雨
今昔続百鬼−雲 多々良先生行状記
○陰摩()羅鬼()の瑕
○邪魅()の雫()
鵺(ぬえ)の碑
以上のうち、私の所有しているのは○印をつけたもの、鵺の碑は未読、残り3個は図書館で借りて
読みました(後から発行になったようで、上記リストにはありませんが、百鬼夜行−陽というのも図
書館で借りて読みました)。これらは、ネット上で、百鬼夜行シリーズとか
京極堂シリーズとか称せら
れています。百鬼夜行−陰と陽はいわばサイドストーリで、登場人物に関する小話です。陽の最後
に榎木津のものがありました。
私が所有している○印のものはいずれも、「辞書のように分厚い」とか「枕の代わりになる」と形容さ
れている長編小説ばかりです。短編小説より長編小説を好む私ですから、苦にならないどころか購
入時の第一選択肢であったりします(笑)。初めて買った日本推理小説(探偵小説は読んでいました)
は、光文社カッパノベルズのやはり分厚い松本清張「砂の器」でした。
犯罪があり、犯人がいて、最後に事件が解決されると言うか収拾されますので、ミステリーではあり
ますが、「長編推理小説」とは銘打たれていないように、通常の推理小説のつもりで読まれると、相
当異なっていることがわかります。そういう特別な形の「長編小説」だと考えるべきで、「推理小説」
としての一般的なものと違うことで批評するのは妥当ではないと思っています。狂骨の夢など妖怪
小説と銘打たれているくらいです。しかしながら、おどろおどろしい物語でもありません。
実はこれまで気にもしていませんでしたが、発行年月を見ていましたら私の持っている「姑獲鳥の夏」
は1996年発行第16刷でした。初版が1994年発行とありましたから、もう24年も前の作品なんですね。
もう来年まだ生きているなら70歳になってしまう私ですが、40代の頃に出版されたものだと今更知り
月日の経つのが早いのか、私の中の年月が止まってしまっているのか、何か変てこな気になってい
ます。で、実はいつこれらを買ったのか記憶がまるでありません。1996年以降であることは間違いな
いのですが、その頃私はまだ40代。そんなころに買ったと云う記憶がまるでなくて、21世紀になって
から買ったのではないかと思ったりしています。私の所有する「邪魅の雫」は2006年第三刷とありま
した。こちらもいつどこで買ったかまるで記憶がありません。ただある物理的理由から遅くとも定年
(2009年)前には買ったと思います。そして、一回だけ飛ばし読み・ななめ読みして、その後長い間、
本棚に眠っていて忘れていて、何かの拍子に思い出して再度読み返し、そしてまた読み返している
という感じではあります。以前はインターネットで書評なんて調べたこともありませんでした。この「ミ
ステリーファン」という枝コーナーを設けて以降のことです。
でも、これらの作品が私にとって違和感を感じないのは、多分に、作品の中の年代が、書かれた年
代よりずっと昔、戦後それほどたっていない昭和27年頃である−私がもうこの世に生を受けていた
幼児時代(4歳頃/保育園時代かな?)−からかもしれません。戦後生まれの団塊の世代の私にとっ
ては、明治・大正そして戦前というのは時代的に古臭すぎ、その意味で私にとっては絶妙な時代設
定になっています。そして、この作品は、その時代背景ゆえに成り立っているなと改めて感じてい
ます。ま、現実的に考えるなら、主要登場人物は、そのとき既に30代ですから、みな戦前の生まれ
ですし、今から見ればもう大半は亡くなられてしまっていることになるんですね−ネットサーフィンし
ていましたら、「小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所」という本に納められた京極夏彦氏の短編「
ぬらりひょんの褌」という両さんの派出所の上司・大原巡査部長の平成の物語の中で、中禅寺は
まだ存命で、杖をつく老人として現れ名前は明示していませんが、僕の友人の作家は亡くなってい
ると語っているそうで、これは関口巽はそのとき既になくなっていたということだろうと推理されてい
ます。知り合いの警察官は偉くなっているとあるそうですが、青木刑事ではないでしょうか?驚きは
榎木津礼二郎が榎木津財閥の跡継ぎになったらしいことです。楽しいですねぇ(^^♪−
ま、中禅寺を取り囲む仲間たちの中では20歳前後と一番若い妹・中禅寺敦子でも、昭和27年(1952
年)頃で20歳くらいですから、これ書いている2018年まで生きていたとしても86歳くらいですね−ただ、
姑獲鳥の夏の中で彼女は「高等女学校を卒業後独立宣言して」とありましたから、戦時中に高等女
学校に入学し、戦後、学校制度が変わって旧制中学と高等女学校が合併してできた新制高等学校
卒業となったと聞いている故人の叔母(おふくろの妹)より少し年上ですかね。う〜ん、20歳くらいと
書かれていますけど、22〜23歳くらいではないかと−もう90歳になろうとしているお袋(こちらは高等
女学校卒業です)と叔母は1〜2歳くらいしか違わなかったはずですからお袋と同い年くらいかも。私
はお袋が19〜20歳の頃産まれたそうですから−。そう考察してましたら、「狂骨の夢」で来年23歳に
なるとありましたから、昭和27年で22歳ですね。
他の多くは私の父親の年代です。私の両親(祖父母もですが)−もう今生きているのはおふくろのみ
になりましたが−は、先の戦争では生き延びたからこそ私がこの世に生を受けたのですけどね。な
ぜ、こんなことを書いたかというと「邪魅の雫」の中で、殺されてしまった、偽名・真壁恵でアパートす
みれ荘に住んでいた宇津木実菜について交際のあった澤福酒店のおかみさんが、折角、戦争を生
き延びたのにというようなことを呟く場面があったゆえです。
よくよく考えてみれば、もう太平洋戦争終結(1945年[昭和20年])から73年もたとうとしています。年号
も昭和から平成に代わり来年にはさらに新しい年号になろうとしているくらいですから、その意味で
はすごく昔の時代の設定の物語なんですが、戦後の昭和生まれの私にとっては、設定時点は断片
的なほんの少しの記憶しかない時でしたけど、それでも余り違和感を感じていない自分がいます。
私の記憶の片隅には街に行くと目にした駐留米軍兵士とか輪タクなどの姿が残っています。私の実
家のある地は、私の小学生時代の途中まで「村」でしたので、警察官と言えば、そこにある派出所の
ただ一人だけの「お巡りさん」−その名は「〇さん」として子供の私でさえ知っていた長く同じ方でした
−でしたけどね。
ま、ミステリー小説の事件を追う側は20〜40代であり、今の私のような60代は皆、じじい・ばばあ扱
いですけど、なぜか小説を読んでいるときは、自分のそういう実年齢を忘れて小説の世界に入り込
んでしまっている私がいます(^^;。すなわち、事件を追う主要キャラを自分より年長に見ていると云う・・・。
さて、この京極堂シリーズの面白さの第一はなんといってもキャラ立てにあると思います。そしてそ
れぞれのキャラは、1作品だけでなく、全作品を読まないと完全にはわからないと思います。各作品
に散りばめられているからです。
四大キャラは、事件の解決・収拾役である、中野の古本屋・京極堂店主で、代々武蔵晴明
社の神主そして副業として拝み屋の中禅寺秋彦、神田の自前の榎木津ビル三階の住居兼
である薔薇十字探偵社の探偵の榎木津礼二郎、新進の幻想小説作家の関口
巽、刑事の木場修太郎。総じて変人揃いです。
中禅寺、関口、榎木津の3人は旧制高校(恐らく旧制一高)時代からの友人で、中禅寺と関口は同級
生、榎木津は1級上です。榎木津と木場は幼友達、戦争中、関口の部下に当時職業軍人で軍曹の
木場がいて、関口小隊は関口と木場だけが戦争で生き残ったという戦友です。
中禅寺は関口らからは徴集されなかったのではないかと思われていましたが、実際には内地徴集
され、陸軍科学研究所の中の秘密にされていた12研に所属し、いやいやながら宗教洗脳実験研究
をさせられていたと「魍魎の匣」で明かし、更に、この中の長方形の大きな箱館=戦後、美馬坂近代
医学研究所となった建物の二階に部屋を宛がわれていたこと、美馬坂幸四郎とは旧知の仲である
ことなども明かしています。ちなみにこの12研を牛耳っていた中禅寺が世界で最も嫌いな男は「塗
仏の宴」で関口の前に郷土史家・堂島静軒を名乗って登場し、人をゲエムの駒にしたこの物語のラ
スボス・堂島大佐でした。
戦後しばらく教師をしていましたが、元々本の虫、それが高じて関口が結婚する頃、辞めて自宅を改
造し古本屋−置いてある本は関口には興味のないものばかりですが、一定の嗜好家の客がついて
いるようです−を開業しています。その屋号ゆえ、関口は「京極堂」と呼び、榎木津と木場は「京極」
と呼んでいます。後述の鳥口は「師匠」と呼び、いつも「弟子を取った覚えはない」とやられています。
京極堂の場所は、中野の、両側が油土塀に囲まれた通称「眩暈坂」(付き合いが長いのに疎いとこ
ろがある関口は木場から教えて貰うまで知りませんでした)という坂を登った先、貧弱な竹林の中の
ソバ屋の隣に位置しています。神主である武蔵晴明社はその先。油土塀は眩暈坂を登ったところで
左右に分岐した道の方に続いていて、中は墓地となっています(関口はそれも知りませんでした)。
いつも仏頂面で本ばかり読んでいます。店を開いているときは店先で、休みには奥の座敷で。
奥様がいて名前は中禅寺千鶴子。京都の老舗の娘で、京極堂と云う名はそのお店の名前
のぱくりです。関口が出向くとき、出かけていることも多いのですが、「魍魎の匣」では関口の「いる
かい」という問いかけに「仏頂面の石地蔵なら一人座敷にいます」(笑)などとユーモアたっぷりで答
えたりしています。美人だそうです。榎木津からは「千鶴さん」と呼ばれています。
中禅寺には歳の離れた妹・中禅寺敦子がいます。どういう事情がは明かされていませんが、
「塗仏の宴 宴の支度」には、秋彦は七歳で祖父に引き取られ(幼少時は恐山の麓で育つ)、敦子も
7歳で京都の知人に預けられて別々に育ち、敦子が兄・秋彦に初めて会ったのは八歳の夏のこと
だったこと敦子が預けられていたのは実に嫂・千鶴子の実家だったこと、離れて住んでいますが両
親は健在であること、敦子は祖父の亡くなった年に上京し一時兄・秋彦宅に身を寄せて居たりして
いたことが書かれていました。現在は、奇譚舎の雑誌「奇譚月報」記者です。榎木津は「敦っちゃん」
と呼んでいます。兄・中禅寺秋彦は歳の開いたこの妹のことを気に懸けています。小説「姑獲鳥の
夏」の中でのいでたちは映画「姑獲鳥の夏」の中の形のままです。
榎木津は元侯爵で会社経営に成功した榎津財閥の長で財界の長でもある榎木津幹麿の次男、
眉目秀麗で、旧制高校時代は、学問・武道・芸術は勿論、色事・喧嘩事にも秀でいていて−その気
にさえなれば何でもすぐに一流になる才能の持ち主で帝王と称せられた存在で、帝大法科に進み、
海軍に徴集されてからは剃刀の刃のように鋭い切れ者として活躍しましたが、終戦後は一時挿絵
画家や兄・総一郎の経営するクラブでギター弾きをしたりしていて、結局、それまでの経歴一切を捨
てるかのようにぶらぶらしていました。ある日、京極堂でごろごろしていたときに、彼の特異体質(相
手の記憶が画像として見えてしまう)があった−子供の頃からあったみたいですが、戦争中、焼夷弾
で目をやられてからその体質がより強くなったようです。、中禅寺は旧制高校時代に初めてあったと
きにこの特異体質を見抜いています−ゆえらしいですが、中禅寺と関口の前で「探偵」になるとと突
然言い出し、偶々、中禅寺がその時読んでいた本の題名から「薔薇十字探偵社」と名付けました。
そして、成人を養う義務はないと、兄・総一郎と共に生前分与として幾ばくかのお金を与えられて家
から放逐されてしまっていたのですが、その貰ったお金を全てつぎ込んで神田に三階建ての榎木津
ビルジングを建て、その三階を「薔薇十字探偵社」とし住居兼としています。口では父親のことを変人
と云い、親の七光りなど受けていないと言っていますが、嫌っているわけではなく認めていて父親の
命令・依頼にはしぶしぶながらも従っています。
関口は、大学卒業後、しばらくは大学から補助を受けて粘菌の研究をほそぼそとしていまいたが、
結婚を機に、見切りをつけ、幻想小説作家に転じました。貧乏教師の父と母、弟は健在のようです
が、もうほとんど没交渉のようです。旧制高校時代、鬱病にかかってしまいましたが、中禅寺との交
友関係の中で次第に完治していったと呟いていますけど、容易に壊れやすく、言語不明瞭、そして、
鈍感で、おどおどしたところがある人間です。不思議に(笑)きれいな奥様がいて名前は関口雪
絵。関口を「たつさん」と呼んでいます。
中禅寺は関口を紹介するとき、関口は虚仮にされていると腹の中では怒っているのですが、
いつも「友人」でなく「知人」だと言っています。旧制高校時代、先に中禅寺が友人になった先輩・榎
木津に紹介したとき、榎木津から開口一番「君は猿に似ているね」と失礼なことを云われてしまって
いて、榎木津からは、通常は「関君」そしてことある毎に「サル」と呼ばれてしまっています。
木場は小石川の石屋(木場石材店)の長男。軍隊の形が影響していた子供時代、副将格でしたが、
意外に絵を描くのが好きという趣味を持ちわせていた人物。戦前は大将になるのを夢見て職業軍人、
戦後警察に奉職した人物。「悪党御用だ」の身上から警察官になった自分でも認めている古臭い男
です。警視庁刑事(巡査部長)でしたが、直情径行で、組織を無視し、上司にも連絡せず単独暴走を
したりして、「相模原バラバラ事件」(「魍魎の匣」)では1か月の謹慎処分、そして韮山の事件(「塗仏
の宴 宴の始末」)の後、とうとう降格処分を受けた上に所轄に回されてしまいました。それゆえ、木
場が活躍するのは、「塗仏の宴 宴の始末」までで、それ以降は「チョイ役登場」となっています。
この4人以外にも、主として京極堂に集う魅力的なサブキャラが出てきます。
「相模原バラバラ事件」(「魍魎の匣」)の時に一緒に行った関口が相模湖で出会った中禅寺敦子に
紹介、ついで、「御筥様」の件で京極堂に連れて行って中禅寺秋彦に紹介した−中禅寺は関口が紹
介する前に既に知っていて関口にぼやかせますが(笑)−カストリ誌「実録犯罪」記者の鳥口守
彦、元・国家警察神奈川県本部刑事で、「箱根山僧侶連続殺人事件(「鉄鼠の
檻」)の後、「暴力を
振るうのも振るわれるのも嫌い」ゆえに自分は警察官には向いていないと考えて辞職し、榎木津の
薔薇十字探偵社に押しかけて拒否されなかったため、そのままいついて「探偵助手」になった益
田龍一(榎木津からは「ますおか」と間違って呼ばれ−「邪魅の雫」の中で一度だけですがきち
んと「益田」と呼んでいるので、わざと間違えて遊んでいる?−、時に罵倒語で「ばかおろか」などと
罵倒されたりします)、警視庁での木場の部下・相棒で特攻隊の生き残りを自称している青木文
造刑事(こけしのような頭をしているので、榎木津からはコケシと呼ばれたりしています)、
榎木津の
軍隊時代の部下で、町田で姉夫婦が後を継いだ旅館・いさま屋付属の釣り堀を営み、始める前に釣
りに関してみっちり学び釣りに魅せられてしまって釣り堀を休んでは釣り旅行に勤しんでいる伊佐
間一成(関口は「いさま屋」と呼んでいる。榎木津からは老人臭いと罵倒されてい
る)と、同じく榎
木津の軍隊時代の部下で、蒔絵師の次男で「・・・なのです」という言い方をし、骨董品屋「待子庵」を
営んでいる今川雅澄。他に、確か京極堂には行ってはいませんが、榎木津の秘書兼お茶くみの
安和寅吉(通称:和寅)、青木刑事の同期で仲良しの木下圀治刑事。
中禅寺と榎木津は互いに悪口を言い合ってはいますが、多分にこの二人は、実際には相手を認め
合っていて事件究明と事件後で、持ちつ持たれつの関係にあります。どの事件も一般には全てが公
開されておらず、大抵は、榎木津「名」探偵のお手柄みたいにされているようです。中禅寺は前述の
戦争時代のことからできるだけ公の前に身をさらすのを避けたいという思いゆえです。
「邪魅の雫」の中で、益田・青木による中禅寺観・榎木津観が独白の形で述べられています。纏めま
すと以下です。
[榎木津礼二郎]
○榎木津曰く、探偵と云うのは世界の秘密を暴く特権的な立場にある者だけに与えられ
る、一種の称号
○榎木津の場合、捜査中や調査中と云う言葉は適用されない。常に解決中と云うのが
正しい。
○無茶苦茶だった。榎木津礼二郎と云う人間−いや探偵は、徹頭徹尾非常識で傲岸不
遜で大胆不敵で粗暴で支離滅裂
○榎木津は金に興味がない。あれば使うしなければ使わない。金がなくて困ると云う、
世間一般では大いにポピュラーであろう悩み事とは、どうやら縁がない。
だが−理不尽なことに、欲しがっていないにも拘らず、榎木津の処には金がやって来
るのだ。
○事件も大きいし、客筋も特殊
○探偵は個的な階層から社会的な階層まで、否、更にその上の階層に於いてまで、遍く
事件の中心に居なければならないもの
中心に犯人が居座っているうちはどれ程様相が変化しようとどんなに謎が解けようと、
解決とは呼べないのである。解決とは即ち、事件と云う場から犯人を追い出すことだ
○探偵は、どこともなくやって来て、いきなり事件の真ん中に立ち、そこから犯人を追い
出さなくてはいけないものである。この人が解決してくれたのだと天下に知らしめるこ
とが出来ないのであれば、榎木津の云う探偵は務まらない
○探偵には真理あるのみ
○榎木津は、榎木津という看板一枚で、世界と対峙している
○榎木津は、手続きせず、演出もせず、言葉も使わずに、半ば強引に社会や世間や個
人を捩じ伏せる
○慥かに探偵の言動は無茶苦茶だった。傲岸不遜で無神経で傍若無人だった。でも、
榎木津は常に−間違ったことは云っていなかった
[中禅寺秋彦]
○社会と世間の、世間と個人の関係を一旦反故にして、事件の起きている場そのものを
解体してしまう。そして、関係者個人に直接世界を見せ付ける。
○そうやって、個々の事件を限りなく無効にしてしまってから、再度世間を、社会を、個人
個人に組みなおしてやる。そうすることで事件が全く別のものに変質してしまう。
○中禅寺の憑物落しが極めて特殊なのは、それら各階層の解決作業を同時に行うところ。
これは一種の離れ業である。
○中禅寺が飛躍を嫌い論理を重んじるのは、世界の在り方との整合性を持たせるためで
ある。
○社会的な規範を人一倍遵守する。
○社会的に事件を解決するために、中禅寺は警察を立てる。否、社会との折り合いをつけ
るため、警察を使うのである。
[中禅寺秋彦と榎木津礼二郎の関係]
○この二人は補完関係にある
○犯罪に限って云うならば、中禅寺が変質させた後の事件は中心を欠くことになり兼ねない。
中禅寺は探偵を利用している
○中禅寺は、犯罪絡みの案件を扱う場合、榎木津が解決した事件という新しい事件を作るこ
とで憑物落しを完成させているのかもしれぬ。
○世間的に榎木津が名探偵として謳われるのも尤もなことだ。解決後の事件の主役は犯人
でなく専ら榎木津。それは中禅寺の望むところなのであろうし、榎木津の在るべき姿でもあ
るのだろう。
○これが刑事として木場の気にくわないところであり、青木に対して、
「・・・馬鹿探偵がブチ壊して本屋が煙に巻くんだよ。 やってられねェよな」
「拝み屋」−京極堂シリーズでは、それで事件を解消するのですが−としての中禅寺の武器は抜群
の記憶力による豊富な知識・綿密な調査・鋭い分析力をベースとしての「言葉」
−能弁家である
−です。「塗仏の宴 宴の始末」の大団円の中で「凄腕の催眠術師」尾国誠一に対し、
「あんたが後催眠を使うなら、僕の武器は言葉だ。しかし、尾国さん、催眠術など
所詮意識下にしか語りかけられない。だがね、言葉と云うのは意識の上にも下に
も届くんだ。軽はずみに催眠術なんか使う奴は−二流だよ」
と言っています。
中禅寺はここまで云いきっているくらいですから自分の力量を十分自覚しています。一方で、
心優しき人物で「魍魎の匣」の中で青木らに対して吐露しているように、
「それを暴き立てることで、悲しみ、あるいは不幸になり、あるいは前途を塞がれ
る、そういう人達は沢山いるのだが・・・・・・喜んだり、幸福になる者はひとりもい
ないのだ。加えて、法的に裁きを受けなければならぬ、所謂犯人と呼ばれる人種
がそれぞれの事件にはいる訳だが、ただ、本当に糾弾したい人間は法的には何
の罪も犯しておらず、犯人達はある意味被害者でもあり・・・・・・だから摘発は非
常に後味の悪い結果を招くことになるのだ。それでも真相は究明されなければな
らないのだろうか−僕はずっとそれを考えていた」(※1)
という思いがあって、なかなか事件に乗り出さない・・・しかしながら、一旦世間に知れた事件は解決
されないと世論は許さないし、法を守るための存在である警察として見過ごすことは無理な話−そ
れは、中禅寺も十分承知している−人間世界というのはそんな甘いところに落ち着かないのが実情
で、中禅寺の思惑内で事が収まらないわけで、いつも嫌々ながら乗り出さざるを得ないと・・・
そして、仲間の皆は、彼が関与を嫌がっていることを十分知りながら、彼の力量を知っているため、
あえて引きずり出しているわけです。多くは、榎木津礼二郎によるそそのかしですが。
京極堂シリーズには主役はいないと云っている人がいますけど、やはり、主役は中禅寺秋彦でしょ
う。それは、勿論、ミステリーとして見れば、中禅寺の口癖である
「この世に不思議なものなど何もないのだよ、関口君」(※2)
通りに、一見不思議に見えてしまう事象をばらばらびして再構築して不思議でも何でもないものにし
てしまって事件を解明・解消してしまうのが中禅寺秋彦の役割であることですが、それぞれの作品
は、抜群の記憶力による豊富な知識から語る蘊蓄と、彼の哲学観−勿論、作者・京極夏彦氏のもの−
がその物語の基本的土台になっていると考えるからです。しかし、一人で万能というわけにはまいり
ませんし、どんなに調べてもわからないことは多々あります。ですから、榎木津礼二郎という他人の
記憶が見えてしまう探偵を配したものと思われます。
で、その榎木津礼二郎はキャラとして一番の魅力的な人物として描かれています。中禅寺に影響力
があって、かつ中禅寺にはないキャラとして象徴的人物像に仕立てられている訳です。
彼の傍若無人ぶりはすごく、敵対者と中禅寺夫婦・妹及び関口の雪絵夫人以外は凡て下僕扱いで、
百器徒然袋−雨で初対面の「僕」を驚かせたその顔とはまるでマッチしない罵倒の数々を下僕に浴
びせたりしていますけど、どうもこれは遊んで楽しんでいるのではないかと思います。しかるべき時に
は彼の傍若無人ぶりを知る周囲を驚かすような途端にまじめで礼儀正しい態度を取ったりしています
し、邪魅の雫では、
彼に−なりたかった。
彼は世界と対等に渡り合った。
彼は云い訳など一つもしない。正当化もしない。
代償も求めない。嫉まない。怨まない。
と云わば超人間みたいに思っていた元・恋人(というか榎木津にとっては珍しく長続きしたが榎木津
の徴集でそのままとなってしまい、そのことが事件の遠因になったのでした)の神崎宏美に中禅寺は
今回のことで彼奴は心を痛めています
「あれだって人なんですよ」
と言っています。
中禅寺秋彦と榎木津礼二郎は云わば一般大衆とは離れた「奇人」的存在なんですね。
ですから、関口巽というのはこの物語の中では絶妙な役どころの人間なんです。三人で議論してい
る時、関口は「鈍感」であり、いつも自分だけ取り残されてしまっていると感じてすぐに余計な口出し
してその都度中禅寺から馬鹿にされてしまいますので、読者はそれがはがゆいわけですけど、よく
よく考えてみると、一般大衆というのは、そんな勘が鋭くてわずかな言葉で容易に理解できてしまう
人ってそうそういないのではないかと思う訳です。ですから、その点では、「魍魎の匣」の中で中禅
寺が、
「愚かしい大衆の代表格であるところの関口巽その人」
と揶揄しているように、一般大衆の代表として中禅寺の能弁に口を挟み、わかりやすく云わせる役
目を担っているといえましょう。ただ、それだけでは単なる二大奇人に対する一般人でしかないわ
けで、そこに、人間の弱さの代表みたいな性格を付加されているわけです。
一つは、旧制高校時代に「鬱病」にかたったこと、そして、「塗仏の宴 宴の支度/宴の始末」で、敵
にとっては面倒な存在である中禅寺の動きを封ずるべくワナにはまって殺人事件現行犯で逮捕さ
れてしまい、下田署の暴力的な諸崎刑事による、長老の有馬刑事さえ眉を顰めた暴力的取り調べ
で自ら最後には「壊れてしまった」と言うモノローグの中で、
対人恐怖症のきらいがある私は、日常生活の中で(^^;人前で上手く喋れない質
なのである。強く問われれば口籠る。気に利いた回答など出来る筈もなかった。
それに加えて私の場合、記憶と云う奴は遍く曖昧模糊としたものなのだ。
と自ら語っている人間なんですね。記憶力ですが、関口は「物忘れの酷さ」を自他ともに認めていま
す。旧制高校時代には榎木津から「健忘さん」という仇名まで頂戴しているようです。
実は中禅寺・榎木津は口にすればいつも関口をからかったり馬鹿にしたりしてはいますけど、よくあ
る苛めとは違うんですよね。榎木津は関口のことを詳しく知らない他人が関口の悪口を言うと怒りま
す。関口の性格を十分知っている上であえてやっている−優しさからでしょうね。ただの同情は関口
にとってはためにならないでしょう。
ま、関口の鈍感さは酷い方で、中禅寺から、中禅寺が「効きすぎた」と思わず謝罪した「憑物落し」
をされるまで、「拝み屋」の仕事がどういうものか知らず、また、榎木津の特異体質にもまるで気が
付いていませんでした。そして、その性格ゆえにいつも事件に巻き込まれてしまい、犯人と間違えら
れたりしてしまうのです(「邪魅の雫」を除いて)。「邪魅の雫」のなかで図らずも、「鉄鼠の檻」で疑わ
れ苦手意識を抱いたた国家警察神奈川県本部の山下警部補から、
「逃げる−でしょう。きっと貴方なら逃げる。でもね、だから疑われるんですよ関口さん
は。疾(しいところもないのに、痛くもない肚(を探られる。要らぬ嫌疑を掛けられたくない
が故に軽挙を重ね、余計に嫌疑を掛けられてしまうタイプです貴方は」
と−図星であり、関口は下を向いて頭をかくかくしかありませんでした−。
関口は戦争時代、職業軍人で軍曹だった木場修の上官−理系学生なのに間違って早く召集令状
が届いてしまい木場修はその将校の関口小隊所属−でした。「陰摩羅王の瑕」で、心ならずも榎木
津のお供をさせられて「白樺湖の事件」に巻き込まれてしまった関口、そこで知り合った伊庭・元警
視庁刑事に事件後、中禅寺からの言付けをしに来た時、木場修が来ていて、伊庭の前で「情けない
上官だった」とけなされてしまうのでしたが、木場修はそんな学徒動員で来た「情けない上官」の関
口少尉?をよく助け、結局、南方に行っていた関口小隊では関口と木場修の二人だけが生き残っ
たのでした。映画・姑獲鳥の夏で関口が来ていた京極堂にやってきた木場修(榎木津礼二郎による
呼称)が関口にジョーク?で敬礼する場面がありましたが、原作のママ()でし
た。
関口が一人称「私」となることが多々あるためか、ネット上で、シャーロックホームズのワトソンに見
立てている方がおられましたが、関口はワトソンとはまるで違います。ワトソンは余計なことをして事
件を複雑化する・シャーロックの足を引っ張るような愚かではありません。関口は「邪魅の雫」以外、
事件解決には役に立っていませんが、物語的には欠かせない人物。そういう存在なのです。関口巽
の位置づけは。
あと、木場修太郎は彼らと警察の接点として登場させたのだろうと思われます。そこから青木刑事と
いう警察官としての常識をわきまえながらも頑なではない刑事との接点ができ、「塗仏の宴」後に、
巡査部長から巡査に降格され警視庁から所轄に左遷されてしまった木場はアドバイス役的存在に
なり青木刑事を関係警察側代表にしています。暴れん坊はそうそう要らないというところでしょうか?
「狂骨の夢」の中で登場し事件に巻き込まれてしまう降籏弘−フロイトを学び精神科医になったもの
の自分を分析して壊れてしまい、徹底的なフロイト嫌いになって半年で医者をやめ放浪の末、基督
教を研究しすぎてわからなくなってしまってお説教もできない、自分で「破壊牧師」「基督教界の一休
と呼んでくれ」と自嘲している小さな教会牧師・白坂亮一のところに居候している−は子供の頃いじ
められっ子だったが、「修さん」と「れいじろう」の二人だけはいじめたりせず、歯医者だった彼の家に
も一緒に遊びに来ていた−当時の子供社会は兵隊に見立てられていて、「修さん」は副将格、「れい
じろう」は別格扱い−。降旗が幼少のころから繰り返し見ていた骸骨の夢を聞くと皆去っていったが
この二人だけは最後まで聞いた上で、
修さん:「二百三高地の夢でも見たんだ」「それが敵方の首だとしたら大勝利だ」
れいじろう:「−面白い。僕も見たい。君は狡い」−どうして何をしているのか尋かなかったんだ?
と。木場修と榎木津礼二郎は子供の頃からこういう人だったんですね(笑)。そして、将来の夢は・・・
修さん:「軍人になって大将になる」
れいじろう:「王様になる」
かくして、木場修は職業軍人になり、榎木津は旧制高校時代は「帝王」。
「狂骨の夢」では、そんな子供時代からかなりたってこの事件で出会った礼二郎は降旗を覚えてい
て「旗ちゃん」と呼ぶのでした。笑っちゃうのは、あの礼二郎が降旗に「君は変な子だった」と言い
木場修がすかさずそれはお前だろうと云うようなつっこみを入れていたことでした。
シリーズ的にみると、「姑獲鳥の夏」は、関口巽の事件、「魍魎の匣」は木場修太郎の事件、「塗仏
の宴」は中禅寺秋彦の事件、そして「邪魅の雫」は榎木津礼二郎の事件と言えましょう。
「姑獲鳥の夏」は関口巽が、「魍魎の匣」は木場修太郎が事件をややこしくしたという意味で、「塗仏
の宴」は中禅寺秋彦の存在、「邪魅の雫」は榎木津礼二郎の存在がいくつかの事件の起因になって
いるという意味で。
ところで、上記リストのうち、第一作目の「姑獲鳥の夏」と第二作目の「魍魎の匣」は映画化されまし
た。ネット上では、小説「魍魎の匣」は賞をとっていますし、「姑獲鳥の夏」より上の評価をされている
方が多いようです。そして、映画「姑獲鳥の夏」はあまり高評価を得ていない感がしています。しかし
ながら私にとって映画「魍魎の匣」は全くいただけませんでした。
誤解されないよう先に言っておきますが、純粋に映画としては私の好きなエンターテイメント映画の
部類として面白かったですので、そういう方面から話ではなく、あれを「京極ワールド」第2段として公
宣したことが「原作ファン」の一人として、気に入らなっかったのです。あれは、原作「魍魎の匣」から
題材をとって来ただけで全く別物でした。ネット検索しましたら、第一作の「姑獲鳥の夏」の方は、実
相寺監督を始めとするスタッフはきちんと原作を読んで映画化されたのに対し、こちらは、脚本家が
それまで京極夏彦作品を読んだことがない人−すなわち、京極夏彦ワールドに疎い・興味がなかっ
た人ということです−だとありましたから、京極ワールドのなんたるかを全く理解されていなかったの
は明白ですね。どこが「原作に誠実に」ですか?!。登場人物の役どころも大きく変え、原作にはな
いようなオリジナルシーンを多数散りばめ、結局、「大きな箱館」と久保竣公の異常性を強調しただけ
の作品になっていました。そもそも、榎木津と久保との過去の接点などないのに、冒頭シーンから勝
手なオリジナル。何か榎木津礼二郎が主役かい?というような扱い。関口巽もまるで原作のイメージ
からはずれていて。本来、「魍魎の匣」は、木場修太郎が大きな位置づけなのに、まるで軽い扱い・
・・役者に合わせて作られた感がありありでした。最後も箱館を崩壊させ、引退している陽子を何事
もなかったかのように復活させて・・・
全く原作を大切にしていない感を強く抱きました。制作側が「原作に忠実にではなく誠実に」と言った
そうですけど、その実、どうもスタッフも含めて、原作はただちらちらと見ただけでかいつまんで「抜き
書きして」構成は完全に独自色で造り上げた世界−単に、有名小説の名前と一部プロットだけ借り
て(失礼な言い方をするなら「パクッて」)スタッフが自己主張しただけ、制作会社側が「売らんかな」
精神で作っただけの代物もの−という思いを強くしました。京極夏彦ワールドファンの多くは「京極堂
シリーズ」の4大メインキャラクタそれぞれへの思いが強いと思います。そして、このキャラはそれぞ
れ明確な個性があって、それぞれの形で係わっているもの−主役級は中禅寺秋彦と榎木津礼二郎
であり、関口巽と木場修太郎は、準主役級という位置づけ−最終的事件解決においてでの位置づ
け−であり、京極堂シリーズを読んでいるならそれはすぐにわかることです。
「姑獲鳥の夏」の映画化が発表されたとき、ネット上では一部の配役の俳優に疑問の声があがって
いましたけど、私は心の中では結構いつもこだわる輩なんですが、これらの主要キャラの俳優をス
チール写真で見たとき、そういうネット上の意見とは異なり、直感的に「いいじゃないの(^^♪」と思っ
た輩です。不評が多かった木場修太郎役の宮迫博之さんも含めてです。どうも彼が雨上がり決死
隊のお笑い芸人ということだけで否定的になっている方々が多いのではと思いました。
しかしながら、原作における上記4人というのは、当然原作の中でそのなりが文章言葉で表記され
ているのみなんですね。そして、じっくりそれらの登場人物の発言・行動・出自などの人となりも含め
て勘案したとき、完全にそのままの役者なんてこれまたいない訳です。アニメも作られたそうですけ
ど、アニメの木場修太郎なんて、私のイメージと完全に離れたもの−失礼ながら「四角い顔」「がっし
りした体形」という見た目の記載だけで作り出したにすぎないもの−と思いました。確かに宮迫さん
は役者ではありませんから、プロの役者と比べれば劣るかもしれませんが、私にとって「木場修太
郎」というキャラの雰囲気に彼はマッチしていると直感で感じたのでした。それを云うなら、榎木津
礼二郎はどうか?中禅寺秋彦はどうか?ということになります。お二人とも、原作の中の顔の造形と
はかけ離れています。しかしながら、私は榎木津礼二郎役が阿部寛さんと知ったとき、これはあって
いるとすぐ思いました。これも全体的に醸し出す雰囲気なんですね。むしろ最初は中禅寺秋彦役が、
堤真一さんと知ったとき、実は中禅寺はもっと渋い役どころという気がしていたので、一番気にした
のでしたが、映画を見てそういう感は消滅しました(実にうまい役者さんですね。あの長いセリフ覚
えるのも大変だったでしょう)。もう一人、当初異論が多かった関口巽役の永瀬正敏さんは醸し出す
雰囲気で映画を見ないうちにプロモーション映像だけ見ていいじゃないのと思ったのでした。私は
見てはいませんが、ネット上にあったアニメは前述の木場修太郎だけでなく、榎木津礼二郎も関口
巽もまるで醸し出すイメージが原作とは程遠い感がしました。そもそも4大キャラは皆30代。そして
榎木津は中禅寺・関口より年長で木場と大体同じ歳という設定ですし、中禅寺と榎木津は互いに相
手の悪口をいいながら互いに相手を認め合ているという設定ですが、あの風貌ではとてもそういう
風には見えません。関口もあれではただ常におどおどして弱弱しいだけですが、そんなことはありま
せん。鳥口守彦と接しているときは少なくとも口調は編集者・鳥口に対する「小説家先生」です。
YouTubeに「書楼弔堂」(図書館で借りて読みました)に関する京極夏彦氏へのインタビューがありそ
の中で、どういう形の建物かという質問に、氏は、ビジュアル画を思い浮かべては書いていない、ビ
ジュアル的に思い浮かべたものを事細かに説明するという手法をとっていないようなことを述べられ
ていました。ですから、単に顔の表現だけで思い浮かべてしまうとどこか違和感が出てしまうのです。
その意味から、京極夏彦ワールドの原作を読み込んでいれば、私にとっては「姑獲鳥の夏」で選ば
れたキャストはうまく選んだなという気がしていたのです。内容的にも比較的忠実性があった気がし
ます。著者自身が故・水木しげるさん役でサービス的にちょろっと出演されていましたね(^^♪
講談社ノベルズ「狂骨の夢」では裏表紙に水木しげるさんが起稿されていますね。「オモチロクてた
まらない」(笑)と。
ところが、「魍魎の匣」、実相寺監督が亡くなられ、姑獲鳥の夏で関口巽役だった永瀬さんが病気の
ために椎名桔平さんに代わったのですが、なぜ、彼を代役にしたのでしょうか?明らかに原作の関
口巽の人ととなりとは程遠いのに。ネット上に批判がありましたが、主役でないのに主役を食ってい
るとありました。要するに、京極ワールドにおける関口巽ではなく、役者に合わせた関口巽になって
しまったからでしょう。私にはむしろ、榎木津礼二郎が主役に見えてしまいましたが。原作では榎木
津は6節(講談社ノベルズではP300〜)でやっと登場してきて、どちらかと軽めの役どころ。関口君
よりは役に立ちますが(笑)、この物語では格闘場面などありません。大団円の直前に危うく殺人犯
になりかけていた−通り物が木場に来たらそうなってしまった−木場修太郎を目覚めさせるために
一発殴っているだけです。久保竣公とは、関口と共に、楠本頼子の母・君枝を訪問に行き、居留守
を使われ一旦近くに会った喫茶店・新世界にいた久保を見てその記憶の中に柚木加菜子を見たこ
とから知り合いかと問い詰めたというその時一回限りの接触しかありません。
原作では木場修太郎は重い役どころですが、映画では、配役の宮迫さんは、原作における彼のセ
リフを他人(中禅寺の千鶴子夫人?)に奪われてしまうというのもあったようで、何か武骨な言動の
刑事というだけの軽い扱いになってしまっていました。とにかく、原作のぶち壊しなんですね。
「原作を大切にしていない」昨今のテレビドラマと同じ構図ではありませんか?
すべてオリジナル作品なら、監督・脚本家・スタッフの全主張を込めた作品でいいのですが、原作が
あるというものはもっと原作を大切にしてほしいのです。原作の知名度だけパクって原作を無視した
ような勝手な自己主張ものや有名俳優を使っての売らんかな作品などが多い気がしています。どれ
だけ云い訳・きれいごとを述べようと、間違いなく原作の知名度だけパクっているのです。原作のイ
メージのキャラクタと異なる役者さんを使い、その役者さんになんとか当て嵌めるようイメージ改竄
をしている時点でもう「原作に誠実」ではないと思います。
長い長編小説を2〜3時間に納めなくてはならない映画とか映像化が困難かと思われていたものを
映画化するというのは、物理的に完全に忠実に描けないのは仕方がないことですが、特にドラマな
どまさに、原作の知名度だけパクっている別物が多々あります。原作の中心的人物を軽く扱ったり
無視したり、原作にはないオリジナルキャラクタを作ってそれに重要な役割をさせているものさえあ
ります。原作を大切に考えるならそんなものは見なければいいのですが−私は見ません−、中に
は先に映画・ドラマを見て、後から原作を読んで、原作をけなす輩まででてきているのが腹立たしい
のです。その最たるものが、松本清張「砂の器」でした。私の許容範囲は最初に映画化された野村
芳太郎監督の松竹映画のもののみです。ドラマは凡て私的には、原作の知名度だけパクっている
別物でペケです。安易に犯人の生い立ちだけを強調し、そういうのに同情しやすい国民に手を代え
品を代えてそれだけを売り物にしただけの別物なんですね。小説は違います。40代の今西刑事が
最初は被害者の身元も不明で、お宮入りしてしまった殺人事件をこつこつと捜査して犯人を追い詰
めるというストーリのものですから、今西刑事の役割は最重要なんです。ところがドラマでは一様
に彼を軽く扱い、ひどいものになると無視して、原作にない有名女優を使ったオリジナルキャラを造
り彼女に事件を追わせるなんて目先を変えてみましたというだけのひどいものまでありました。
ドラマは皆、安易と云いたいですが、犯人・和賀英良の生い立ちだけ強調した「和賀英良物語」ばか
りでした。原作は、決して「和賀英良物語」などではないにも関わらず。小説では、和賀英良は自分
が世に出るためになしてきた数々の虚構を重ねてきた人物です。そのため、恩人を殺害し、また恋
人を自殺に追いやってしまっています。生い立ちとは別に少しもシンパシーなど感じられない人間な
のです。ところがそんな「原作を無視した」代物を正にして考え、原作を「へんてこなもの」と冒涜して
いる輩がネット上にいて猛烈に腹がたちました。多分、推理小説など読んだこともない輩でしょうが。
原作の知名度だけパクって、原作を大切にしない安易に売らんかなでドラマ化してお茶の間に流す
連中がいるからこういう愚かな輩が生み出されるのです(怒)。ま、映画「魍魎の匣」はそこまでひど
くはありませんでしたけど。
巨匠と称せられた映画監督はさすがにそういう愚かなことはしていません。私は、水上勉「飢餓海峡」
はたまたま先に映画を見た数少ないものでしたが、後から原作を読んでも違和感は感じませんでし
た(勿論、細部では色々と異なってはいましたが)。
けしからん話まで目にしました。ドラマ化にあたって、原作から大幅に改竄したものにしようとして原
作者が怒って首を縦に振らず、お流れになったものがあったそうで、けしからんことにそれで出版社
と原作者に損害賠償訴訟をそのTV局が起こしたそうです。一審では、契約してからのことではない
とTV局の訴えを却下したそうですが・・・。それ以前にそもそも、そういうけしからん風潮−原作者や
原作ファンの思いを無視して名前だけパクって好き勝手なものを作るという風潮−を当然の権利み
たいに思っている制作側にむかつきました。尚、これはあのNHKだそうです(怒)
アニメなどはオタクと言われる思い入れの強い方たちが多く、実写版が出るたび、もう批判の合唱
状態ですけど、小説の場合は静かな方が多いのか、そういうのはあまり検出できませんので、あえ
て批判的に書きました。
京極堂シリーズはYouTubeにありましたが、せいぜい小説のプロモーションビデオくらいにとどめ、
映像化しない方がベターと考えています。というのは、この小説は、京極堂=中禅寺秋彦が語る言
葉がキーポイントの小説だと今では思っているからです。他のミステリーとは同一視点では決して
映像化できるものではないと思っています。全く他のミステリーとは異にしている独自の「京極夏彦
ワールド」ですから−私がそうであるように、それに魅了されている方々も多いようです。えらそうに
上から目線でそういう読者を「マニア」みたいに見下している評論家がいるらしいですが、だからこそ
「邪魅の雫」の中で自分の小説の悪口を書いている書評を気にして中禅寺にぼやく関口巽に対して
中禅寺−間違いなく、彼の語ることは著者の京極夏彦氏の思想であり、中禅寺秋彦は氏の分身で
しょう−に
読んだ読者は必ず感想を持つ。その感想の価値は皆等しく尊いものである。
書評家だから読むのが巧みだとか、評論家だから読み方が間違っていない
とか、そんなことは絶対にない。
と語らせていたりしているのでしょう。
もう一つ、私が気にいっているのは、氏は自分が小説の中で登場させた主要人物を大切にされてい
て、その作品の中だけにとどめず、後の作品の中で重要な位置づけでの後日譚や、サイドストーリ
の中で補足したりされている点です。
例えば、「姑獲鳥の夏」の久遠寺医院長・久遠寺嘉親、元医師・菅野博行は「鉄鼠の檻」に、医師見
習い・内藤赳夫は「塗仏の宴 宴の始末」に、「狂骨の夢」の佐田朱美は、「塗仏の宴」に、「絡新婦
の理」の織作茜は「塗仏の宴」では殺害被害者として出てきます。「陰摩羅鬼の瑕」の元伯爵・由良
昴允と執事の山形州朋については、「邪魅の雫」の中で後日譚で触れられたりしています。「魍魎
の匣」の柴田財閥弁護士・増岡則之はその後随所に出てきます。
要するに、風呂敷を大きく広げていますが、シリーズで見ると、それぞれの作品で出てきた事件関係
者で警察に逮捕されなかった人物はそのまま放置されず、しっかりと畳み込まれているということで
す。
ネット上には後日談とか外伝とかの創作をアップされていらっしゃるかたがおられます。
読後の余韻の中で、書かれていないことを補足したいという想いからだろうと勝手に推察しましたが。
著者・京極夏彦氏は小説の中に書かれているのが全てでそれ以上は考えていないようなことを質問に
対する答えの中で書かれていたのを目にしましたが、「悉く書かれている訳ではありません」からね。
('18/8)
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