塗仏の宴 宴の始末を読んで(’15/6)


前項で京極夏彦さんについて少し書いたのですが、 特定の本についての感想等は
書きませんでした。特に個別でというものを取り出すのが私的には難しかったからで
す。

ま、私はそもそも、じっくり読むのがあまり得意でなく、先を急ぐ(早く結論を知りたい)
という輩で、大抵は飛ばし読み・斜め読み的な読み方をしてしまう輩ですので買って
読んで蔵書になっている本を何度も時を置いて読み返すことが多々あります。
読み飛ばしたところに新鮮さがあったりすることとか気に入った部分があったりする
ためです。

ただ、この京極夏彦さんの京極堂シリーズという形のものは分厚いですけど、すごく
入り組んだ造りになっていて、本当は私のような読み方は不適なのかもしれないな
と思い始めました。そこで、たまたま、蔵書の中で目についたタイトル作品を我慢し
て(一字一句読み飛ばさずに)じっくり読み込んでみようという気になりました(^^;
ま、普通はそういう読み方をするべきでしょうけど、だからこそ、50年近くもミステリ−
ファンやってきてただの一つもミステリーが書けない(文章力もないのですけどね(^^;)
のでしょうね(^^;。ずっと子供の頃からの「幼稚」的な「探偵小説的読み方」で読んで
きた情けないミステリーファンです。

で、そういう目でじっくり読み始めてみると、意外にこれまでこの作品を読んであまり
気にならなかったことが一杯気になりました。
元々、ある意味、仲間的な善人的なレギュラー出演者?的な人物が沢山いる上に、
沢山の作品個別登場人物が出てきます。そして、ぱっぱっと登場人物・話題ががら
りと変わる場面切り替え展開があります。うっかりしていると「あれれ???」という
感覚に陥ってしまいそうです。しかしながら、どれ一つ余分なものはなく、結局は全
てが関連しあっているんですね。今までの私の読み方では、そういう作品における
重要な意味のあるまき散らされた「あや」を見落としてしまっていたわけです。
多分に、結末見てそれで勝手に満足した気になっていただけと思えてきました(^^;
要するに、私はこれまで単に「読んだ気になっていただけ」でした。

そこで、私は、登場人物・団体・状況などメモをとりながら読んでみることにしました。
いつも読み飛ばしていた最初の2Pのプロローグも意味を考えながらじっくり読んで
みました。そして、そこに、この作品のキーポイントが書かれていることを今更なが
ら発見しました。


以下、少々ですがネタバレが入っていますので未読の方は御容赦くださいm(__)m
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 世界が−少しずつ歪み始めた・・・・・・・
 浄土の到来を祝う宴はさぞや愉しいことだろう

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物語は、復員後、下田警察に奉職してから6年間、妻の希望も無視して一度も休暇
をとったことがなかった村上寛一刑事が、自分の家庭に起きた、村上が家族が崩壊
してしまったと、「非現実世界に来てしまった」と現実逃避しようとしかけた一大事で
初の休暇を取ったところから始まります。

そして、その下田警察署にも、村上が奉職して以来、一度も起きたことがなかった殺
人事件が、村上によれば、彼の休暇を待っていたかのように発生。それも普通の事
件ではない様相を呈したもの・・・
「そのとき街は僅かばかり歪はじめていたのだ。」と書かれています。

結局、それは超自然的なことではなく、時代の中でなされた人為的な陰謀?がかな
でたものであり、例によって、最後に、京極堂−中禅寺秋彦による「憑き落とし」で
幕が引かれる−「宴の始末」がなされるのですけどね。
いわくつきの怪奇な人物・団体がいくつも出てきて目が回りそうになった私がいます(^^;
そういう意味で、今回、メモとりながら再読したというわけです。

ネタバレになるので、詳細な説明はしませんが、一つだけ・・・いつも気になっている
人物−レギュラー登場人物の一人、小説家の関口巽。ますます精神崩壊して自分
を損な立場に置きますよねぇ。そして、それが他人の心を巻き添いにしてしまう・・・
ちゃんと奥様がいらっしゃるのに。そういう役柄のキャラクターとして設定されている
のでしょうか?哀れさ・歯がゆさを感じてしまう私がいます。
前項でも書きましたが、映画の配役の方、役どころのイメージが私が抱いたのに丁
度ぴったりでした。あくまで私の勝手な個人的感想ですけどね。

超ネタバレになりますが、前述の「いわくつきの怪奇な人物」というのも大団円があ
ります。ただし、読後はすっきりしていません。メデタシメデタシではないからですが・・・
時代設定ゆえに可能なお話かもしれません。
それにしても、恐るべき内容の小説ですねぇ・・・。そして、気になる発言が網羅され
ています。作者自身のお考えなのか?

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勿論、上巻的な存在の「塗仏の宴 宴の支度」も先に読んでいますが、「解決編」的
な位置づけである本作品だけ取り上げました。私にとって、ミステリーは「解決編」
が必須ですから。

ちなみに、これもネタバレですけど、本作品にはそこかしこに、段落ち最後のところ
で「私」という一人称が名前も地位も不明(一人だけその存在に気が付いた人物が
いたのですけどね。彼は誤解していたようですが)な人格が顔を出します。でも、
なぜ、それが可能だったのかは言及されていません。終戦後まもない昭和二十年
代という時代設定のようですが、それでもそんなのは可能だったのかと・・・。
そして、作者はそれをあえて文章の中に入れた理由はなんでしょうか?
「推移を見守るため?」・・・ちょっと謎で残されてていて、気になりました。

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追記
・『宴の支度』にも「私」という一人称が出てきますけど、ネタバレですが、こちらの
「私」は関口巽です。真相に肉薄したことで嵌められてしまう・・・。京極堂(中禅寺
秋彦)によれば、既に「壊れてしまっている」ゆえにまともな説明もできず理解もさ
れず相当ひどい取り調べを受けたようですが・・・。京極堂からは「友人ではない。
知人だ」と卑下され、榎木津探偵からは「猿」と馬鹿にされている、腹立てていても
言い返せない・・・「いじめられ役」でかわいそうすぎますなぁ。

・ネタバレですけど、結局、これも絵図を描いた所謂「ラスボス」の存在・意図に知
見を持つゆえ最後に京極堂が「憑き落とし」をするいつものパターンですが、こん
な人物がいたら怖いですね。しかも逮捕もされず今後に尾を引く人物も一緒に野
放しのまま・・・
人って、いとも簡単に精神を弄ばれてしまうのか・・・何か割り切れぬものを感じて
しまいます。

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