仏教の「空」「縁起」について注目したサイトを見つけました
以前から、仏教で云われている言葉「空」について興味はありましたものの、まるで意味がわからず
にいましたが、今回、ふと思いついてググってみました。そうしましたら、興味深い個人サイト(仏教について)
を発見しました。1996年〜1999年に書かれた古いサイト記事ですが、私にとってはすごく説得力を感じ
ました。
まず、読もうという気になった理由は、「空の思想 序論 方法論」を読んだことによります。
「空」という言葉・概念は、仏教中興の祖とか大乗仏教の祖とか称せられているナーガールジュナ(漢
訳:龍樹)が創設したそうで、実はこの名前は、仏教関係の一般書ではなく、ひょんなことから知ってい
たのでしたでした−亡祖父が在野の仏教系の宗教家でしたので、元々「宗教否定」というスタンスではな
かったのですけど、祖父自身は家族にはあまり宗教的なことを説くということもなかったですし、宗教
は長く、私の興味の外にあったため、仏教の一般書を読むこともありませんでしたが、ある理由で、偶々、
若かりし頃買ったものの当時はあまり読まずに放置していた、今は無き大陸書房のある種の本(大陸書房
という名を御存知の古い方々ならどういう種類の本か察知されると存じます)を自分の書庫に発見して、
じっくり読んだときに、合理主義の権化たるギリシャのミリンダ王との対話に触れられていて、それで
その名だけは知ったのでした−。
で、このサイト主さんの方法論を読んで、私が自分のホームページに設けている科学へのいちゃもんをし
たためる中で感じていたことと同様な思いでなされた努力に惹かれた訳でした。
この方曰く、「数え上げればきりがないほど、空の思想はさまざまな思想として解釈されているのが解説
書の現実」であり、中にはまるで互いに逆のことが主張されていたり、結局、「空とは何か」について明
確にわからせてくれるのもがなかったようで−要するに、世にある「啓蒙書」「解説本」の類は、その著
者の思想・環境から解釈したものだという私が思って来たことそのものだったという訳でしょう−、この
方は自分で原著を読んで判断しようと考えられ、まずサンスクリッド語を学ぶことから始まられたそうで
す。その読解された書の対象としては、ナーガールジュナの代表作である『中論』の形式とスタイルと内
容にもっとも近いことを選択基準として、『中論』(Madhyamikakarika)、『空七十論』(Sunyatasaptati)、
『六十頌如理論』(Yukutisastika)、『廻諍論』(Vigrahavyavartani)、『広破論』(Vaidalyaprakarana)
の五書をテキストとされたとか。この方のスタンスとして感心したことは、
ナーガールジュナの言う「空」を文脈の中での使い方で見る
というもので、展開されておられる主張の証拠として対応する言葉が挙げられていることにありました。
で、この方の結論として、ナーガールジュナの言う「空」の概念としては、次の通り−
「空」とは自制が欠如していること
この方の意味されている「自制」は、サンスクリッド語のsvabhava(スヴァバーヴァ)のことであり、日
本では「実体」と訳されていることが多く、英語では"self-existance、"own-being"、"substance"など
と訳されているそうです。日本語訳と英訳では少しニュアンスが違いますね。でサイト主さんはあえて、
「自制」という訳語を使用されておられます。「実体」なんて訳すから、誤解を招いて来たと思います。
サイト主さんは、わかりやすいたとえ話として、アパートの「空き部屋」を出し、空き部屋は、部屋はあ
るがその部屋の住民がいないことであることを考えれば、「ものはあるが、『自制』という住民はいない」
のが「空」であると述べられていて、私はよく理解出来ました。
で、サイト主さんのご主張は、要するに、
ナーガールジュナは仏教共通の概念である「諸行無常」と「縁起」から「空」=「無自制」
を主張した
というものです。それは、ナーガールジュナが「縁起」を因果関係ではなく、「相依関係」としたこと
にあることによっているとのこと−「因果関係」とすると、「空」=「無自制」の主張ができない、即
ち、論敵であった当時もっとも勢力を誇っていた仏教一派、サヴァスティヴァーダ派の「説一切有部」
に対抗できない難点があったのでした。但し、サイト主さんは、現在は仏教学者の主流論としての、
「『縁起』は原始仏教では『因果関係』を表していて、相依関係と言うのはごく一部の場合だけであり、
『相依関係』としたのは、ナーガールジュナが新たに拡張したものだ」というのを否定され、先に和辻
哲郎などが主張していた元々の原始仏教からの教えであるという立場を理由を示して唱えられておられ
ます。で、私が説得力があると思ったのは、私が理系ゆえかその理由説明でした。「論理学」の概念を
使用されておられることでした(サイト主さんに対して届けられた反論は、明らかに、繰り返しサイト
主さんが説明されておられる「論理学」自体を御理解されていないと思われるものでした)。
縁起に関して曰く、
・原始仏教で伝えられている言葉は、論理式で書くと
(論理式1)
という形になっていて、必ず、
| ;「順観」と称する |
| ;「逆観」と称する
|
がペアで並立して述べられている。
ここで、は「命題」であり、はの否定
・一方、ナーガールジュナの言を論理式で書くと
(論理式2)
となっている。即ち、の代わりに、が、とペアで並立して述べられて
いる。
・ここで、論理学によれば、はの「対偶」であり、が真なれば必ず真
となる。したがって、(論理式1)と(論理式2)は同じことを意味している。
・誤解しやすいことは、(論理式1)、(論理式2)は、決して
| ;(論理式3) |
| ;(論理式4)
|
ではないということである。「→」は「ならば」であるが、が真でもが真
とは限らないからである。わざわざ順観と逆観をペアで語っているのは、そういう理由である。
例で語ると、驚くべきことを言っているのです。
命題を「原因がある」とし、命題を「結果がある」とすると、命題は「原因がない」、命題
は「結果がない」ということになります。すると、
(論理式1)に対応することは、
「(原因がある)ならば(結果がある)」かつ「(原因がない)ならば(結果がない)」
となるのに対し、同じであるはずの(論理式2)に対応するのは、
「(結果がない)ならば(原因がない)」かつ「(原因がない)ならば(結果がない)」
となります。以上より、明らかに「縁起」は「因果」ではなく、「相依」であることになります。
したがって、ナーガ−ルジュナは
全てのものは、単独・独立で存在せず、相依関係にある(※)
と主張したという論理です。
そこで、「自制」です。論敵のサヴァスティヴァーダ派の「説一切有部」に従えば、
・自性は条件や原因なし存在している
・自性はつくられたものではない
・自性は他に依存しない
となります。これは、前述の(※)と矛盾しています。「自制」は「諸行無常」に反しているというだけで
は、反していないと主張したサヴァスティヴァーダ派への対抗は困難であり、この(※)を主張したという
訳です。
で、サイト主さんは、ナーガールジュナは、一般に言われているように新たな拡張をしたのでなく、初期
の佛陀による仏教の教えに原点復帰した−わかりやすく説いた−というような主張をされている訳です。
そしてそれは、ナーガールジュナの言である
「めでたい縁起のことわりを説きたもうブッダを、もろもろの説法者のうちでもっともすぐ
れた人として敬礼する
に現れていると主張されていて、私はすごく納得出来ました。
もう一つ、ずっと気になって来た「時間」について何を語っているかですが、質疑応答の中でサイト主
さんが示されておられました。
ナーガールジュナの時間論は、『中論』の19章「時の考察」に非常に簡単に述べられいるとのことで、
そこでは、「時」とは「三つの時(三世)」すなわち、過去・現在・未来のこと−仏教だけではなく一
般にインドの思想のすべてに当てはまるもの−で、すべての事象の背景としての「時の流れ」としてで
はなく、このようにインドでは「時」が「三つの時」として理解されている事実が、ここでは、ナーガー
ルジュナの縁起説(すなわち彼の自性主義批判)にとって非常に都合のよいものとなっていますと。
そして、もし自性論を認めれば、ものの自性は自立・独立・永存していることになりますから、過去
・現在・未来はそれぞれまったく別の事象を指しているのか、それとも同一の事象を指しているのか、
のいずれかということになり、
もし、それぞれが同じものを指しているとすると、過去も現在も未来もその区別がなくなってしまう
という受け入れがたい事態に落ち込んでしまう
それぞれがまったく独立した事象であるとすると、明らかに認められる過去と現在と未来の関係が、
全く説明できないという別の受け入れがたい事態に落ち込んでしまう
で、サイト主さんは、
こういう受け入れがたい事態に落ち込んでしまうのは、もともと、時に自立・独立・永存の自性を
想定するという間違いを犯しているからだ
と理解されていて、ナーガールジュナが、
「もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうし
て時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。」
と言っているのを受けて、
「時間はない」というのがナーガールジュナの結論であるが、もちろん、「時間は自性とし
て存在していない」、という意味
と述べられ、ものから離れて時間は存在しないというのがナーガールジュナの語る時間です、と述べられ
ています。
('20/11)
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[追記]('20/11)
本文には書かれていませんでしたが、論理学では、逆観のは「裏」と称せられています。
そして、の対偶は、です。
したがって、(論理式1)は、順観と逆観が同時成立する(ともに真)とすることを意味しているので
@ | | ; | (順観) |
A | | ;(逆) |
B | | ;(裏) | (逆観) |
C | | ;(対偶)
|
が全て真となります。したがって、前述の例の、命題を「原因がある」とし、命題を「結果があ
る」とすると、
@・・・「原因がある」ならば「結果がある」
A・・・「結果がある」ならば「原因がある」
B・・・「原因がない」ならば「結果はない」
C・・・「結果がない」ならば「原因はない」
ということになります。注目すべきはA、Cなのです。原因→結果という一方向の因果関係だけではな
く、結果→原因を含む双方向であり、したがってサイト主さんは、原始仏教の時から「縁起」は「相依
関係」を表していたと主張されている訳です。サイト主さんがおっしゃるように、ナーガールジュナが
こういう論理学を知っていたかどうかはわかりませんけど、ブッダの一番弟子で優秀な舎利仏が部分的
ですが、「相依関係」をにおわす言を残していることから深く考えて見出したものと思います。
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