その昔、実家に初めてテレビが来た頃
スカパー(前のままですが)も契約しているのに最近はあまりテレビを見なくなりました。
インターネツトしているか本を読んでいることが多いのです。どうしても見たいという気
持ちになるものがないからですが・・・たまたま番組表見てチェックしておいても見忘れ
てしまうことも多く、それがなぜかあまり残念に感じなくなってしまいました。
子供の頃はテレビっこだったこともありましたが。
ところで、私の実家に初めてテレビが入ったのは確か小学5年生頃(1959年?)とい
う記憶があります(最近、記憶が間違っていたこともありますので多分ですが)。
勿論、当時は白黒テレビ。それまで私の田舎ではテレビがある家はほとんど少数でそ
れまでは特に子供たちは私の実家のある集落で1軒だけテレビがある家に見せてもら
いに行っていたものです。『月光仮面』はそうやってよその家で見せてもらっていました。
そして、私の実家にやっと待ちに待ったテレビが初めて入った頃、私の実家のある集落
では一斉に各家庭に入ってきた記憶があります。皆色々なメーカの製品でしたが。
で、わが実家に初めて入ったのはシャープ製の14インチ品。これはよそのメーカのとは
異なり、チャンネル切り替えがダイヤル方式ではなく機械式スイッチタイプのものでした。
スピーカは画面の両側についていたような覚えがありますがこれも記憶違いかも。
同級生の家には上にレコードプレイヤがついたテレビがありました。
うちのテレビにはそういうのはありませんでしたが、有線方式のリモコンの元祖みたいな
のがついているテレビを購入された家もありました。
しかし、当時はこの白黒14インチでも7万円くらいもして、当時の父親の給料や物価の
基準からして相当高価ではなかったかと思います。まだ、家にはほとんど電化製品など
はなかった時代ですから。
そして、私の故郷はまだ少し前まで「村」でいつの頃か覚えがありませんが、基準が緩和
されたときに多くの他の村々と一緒に「町」になったところであり、電気屋などなかった
と思います。同じ郡内で古くから町で色々なお店が並んでいたところの電気屋さんからの
購入だった記憶があります。誰が機種選定したか知りませんが多分父だったと思います。
そしてそのテレビが我が実家に入った日に父がテレビの番組表のついた週刊誌を2冊も
買ってきました。「週刊テレビ時代」というもので、調べましたら日本初のテレビ情報誌
だったそうで5カ月で廃刊になったとか。かの「旺文社」刊だったそうです。
父はその2冊とあと後から1冊買ってきただけでしたが、最初に買ってきて見せてくれた
この雑誌を繰り返し読んだ記憶があります。
もう50年以上も前のことなので詳しい内容は記憶の彼方ですが、勿論、現在のテレビガ
イド誌のような地域別時間表などではなく、番組ごとに放映テレビ局が羅列されていたよ
うです。まだ現・TBSがKRT(ラジオ東京テレビ)、テレビ朝日がNET(日本教育
テレビ)と称していた時代で、この略称KRTとかNTVとかNETとか(フジはそのま
ま)、名古屋ならCBCとかTHKというのが列挙されていたのでした。
面白いのはドラマとか集めてあるページではなんとスポンサー名まで記載されていたこと
でした。
ただ、この「テレビ時代」を見てすごくショックを受けたのは、東京や大阪には既に民放
が4局もあり、福岡県でも3局あったのに、私ん地のテレビで見ることができる名古屋の
民放は当時二つ(中部日本放送、東海テレビ)しかなかったことでした。当然ながら、
東京や大阪の人が見ることができる番組でこちらではやっていない番組が沢山あったの
です。ないと悔しがる性格(^_^;)の私はすごく悔しい思いをしました。当時は1局しかない
地域が沢山ありましたのにね。
しかし、そう言う中でもこちらの2局の民放は当時既にローカルの自社制作番組やってま
した。子供用ドラマさえあったんですよ(CBC「健太君の探偵」など)。
ま、いずれにしろこの「週刊テレビ時代」を見たため、田舎の小学生で情報など少ないの
に当時の全国各地のテレビ局名とか東京・大阪はそのチャンネル番号まで覚えてしまい
ました(笑)。
実は白黒時代だったからかもしれませんが、当時、うちの田舎ではアンテナが普通の名古
屋方向向きだけでなく西の方に向けているのと二つ上げている家が近所に何軒かありまし
た。この西の方向向きのアンテナはなんと大阪のテレビをエリア外であるためあまりきれ
いではなかったのですが見るためのものだったんですね。二局しかなかったため一時期
かつて8時台に日テレ系で放映されていた「プロレス」がこちらでは放映されなかったこと
があったため、そのプロレス(当時のヒーロー「空手チョップ」の力道山の試合が沢山あり
ましたから)を見たい家がやっていた処置です。恐らく電気屋さんから情報を仕入れたの
でしょうね。
私はためしにつかわれなくなったアンテナを家の中でぶらさげて試したことがありました。
大阪の当時の4チャンネル毎日テレビだけでしたが画像は汚いものの音声も含めてなん
とか見ることができました。岐阜県の西の方だったからかもしれません。
それにしても1家に1台切りでしたが、我が実家ではなぜか不思議にチャンネル争いはなく
結構、自分の見たいものを見せてもらっていた覚えがあります。ま、一番楽しみにしていた
のは私でしたからね(^_^;)。
ちなみに実家にカラーテレビが来たのは東京オリッピックの頃だったと思います。電気屋の
おっさんがセールスに来たのを覚えています。これは確か東芝製の「名門」と称していたも
のでした。サイズの記憶はありませんが(^_^;)
尚、1家に1台というのはその後もしばらく続きました。当時、下宿でテレビなど所有している
人は皆無で、私も会社に入りしばらく寮暮らししてましたが、最初の頃はまだ誰もテレビを所
有していませんでした。
ですから、今は隔世の感がしています。
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