昔の修学旅行の断片的記憶(’12/1)
鉄道映像を漁っていて、ふと自分の昔の修学旅行の記憶がほんの少しだけ脳裡に蘇って
きました。
私の修学旅行は・・・
小学校・・・伊勢志摩
中学校・・・東京
高校・・・・中国(倉敷、岩国、広島、湯田温泉・秋芳洞)・四国(金毘羅、屋島?)
というものでした。大半は忘れてしまっていますが、
伊勢志摩はもう岐阜県の小学校は大半が京都・奈良に行き先変更されていたのに、田舎の
小さな中学校だったためか確かよその中学より切り替えが1年くらい遅れて多分伊勢志摩
旅行は私たちが最後だったような記憶が残っています。6歳下の弟は間違いなく京都奈良
でした。
で、この伊勢志摩修学旅行は当時存在していた国鉄参宮線で云った様な記憶がありますが
はっきりしていません(^_^;)。物価が今の1/10程度の時代、所持金制約はなんと¥300。
で、これで羊羹か何かの土産とダルマ落とし。たこのつりさげ品などを買って¥200近く余らせ
て帰ったという今では信じられないような思い出があります。
もっとも伊勢は小学校4年生くらいのときに親類の国鉄勤務の叔父(親父の兄)に私と同い年
の娘ともども連れて行ってもらった時の方の記憶が残っていますけどね。勿論、国鉄参宮線
で行ったのですが、私の脳裏には名古屋駅(だったと思うのですが)で、赤い二つのテールラ
ンプのある中央に通路用開口部のある客車列車にそれをホームの後ろから見ながら最後尾
の客車に乗りこんだ記憶が浮かんでくるのです。なぜか、その光景はどんより曇った空と
灰色っぽい感じの記憶だけなのですが・・・機関車は多分SLだったんでしょう。
中学の東京旅行は大垣発で東海道線を走っていた修学旅行専用電車「こまどり」号で往復して
います。その頃は、修学旅行電車というと、きぼう、ひのでなどが有名でしたから、無名のこまど
りと知って「なんだぁ」とおかしな思いをした記憶があります(^_^;)。
東京では日本旅館に宿泊した記憶があります。どこにあった旅館かは全然記憶にありませんが。
高校の修学旅行は大阪まで普通電車?で行き、大阪港から4時間かけて関西汽船の船で四国
高松まで行き、琴平で一泊、朝、あの金毘羅神社に階段を登って行きました。帰って来てからの
反省思い出話し合い会ではこの夜におもしろい体験をしたやつの話を耳にしました。
二日目はフェリーで岡山県に渡り、倉敷⇒岩国⇒広島と観光バスの旅。記憶が薄れていますが
多分、その日は広島で宿泊。次の日は山口県の秋吉台・秋芳洞見学して湯田温泉で宿泊。
最後はどこから乗ったか忘れましたが、当時存在していた山陽本線の客車急行・西海号で岐阜
まで帰ってきました。ちなみに、列車は私は当然ながら強引にも全部窓際を占めました(笑)
尚、急行列車といってもこのころの客車はまだ14客車などない昔で例のこげ茶色の古い車両
でしたよ。
ちなみに、秋吉台・秋芳洞は子供たちがまだ幼い頃に家族で再訪しています。このときは萩で
泊りました。ホテルの部屋の窓からJRの駅が眺めらました。山陰本線経由で鳥取砂丘などを
訪れて帰りました。その後の家族旅行はバス会社のツアーばかりになりましたから、私が計画
して鉄道を使っての数少ない旅行でした。これ書いていて一つ苦い思い出がよみがえりました。
折角買った土産を鳥取で入った食堂で忘れて来てしまったことです(^_^;)
若い頃からこういう忘れ物ちょくちょくあった輩です。出張帰りに折角現地で同行した支社の
営業マンが土産に寿司を買ってくれたのに切符売り場に忘れて来てしまったり・・・
ところで『修学旅行』といえば、昔、舟木一夫さんがそのものずばりの歌を歌われていました。
結構好きな曲の一つです・・・
『修学旅行』
ま、「修学」旅行と名がついてはいますが実態はどうでしょうか・・・
ちなみに高校時代は三年ではなく二年生で行きました。三年生は大学受験が控えていたから
だろうと思います。進学校でしたからねぇ(^_^;)。団塊の世代ですから、高校は1学年10クラス
もあり、修学旅行はクラス単位で三つにグループ分けされ出発が一日ずつずれていましたね。
戻る