きれいごとA
私はパソコン通信時代からネット上の議論と言うのを眺めてきましたから、電脳世界における
議論というのはどんなものか知っているつもりです。
一般社会でも、価値観の異なる同士の議論って互いに歩み寄るなどということはまずありませ
ん。結局は、目的を持った会議では、最後は多数決かトップダウンでの裁定となります。
しかし顔の見えない電脳世界の場合、特に何かの目的がないような自由議論の場は皆自分
の価値観からの発言のぶつけあい、たたき合いになり、議論などという場にはならないのは
必然的です。挙句の果てに一歩間違えると、すぐに訴訟などという事態に持ち込まれてしまう
例も多々あります。それはパソコン通信のような閉じた電脳世界でもありました。
ところが、それでも価値があると主張される方がおられました。気が付くことがあると。
私はそんな人は少ないだろうと思うのです。だいたい、評論家とかそういう人でない限り、一般
大衆が特に議論が分かれるようなものをネットで調べるということは自分の価値観と一致する
ものを見たいというのが本当のところではないでしょうか?そしてそれを駄目だと言う人がどれ
だけ中立公正かです。そんな神みたいな人は見たことありません。大抵、いざ自分に火の粉が
飛んでくると日頃たいそうなことを宣っていても、そんなのはどこへやら。完全ダブスタ言動に
出ます。所詮えらぶっての綺麗ごとでしかないのです。
しかるに、例えばブログコメがそのブログの趣旨に反するものが大半だったら誰が見たいと思
いますか?多分にそのつもりで見てきたら、何か、趣旨と反対の不愉快なコメントばかり目立
つなら、書き込むどころか、もう見ないと敬遠する方も多いのではないかと思います。
所詮、目的ブログでの公平運営など、ブログ主の自己満足のきれいごとでしかありません。
議論がにつまるなど、同じ価値観の人間でしかありえなく、煮詰まるはずはないのです。
その典型的な例を見ています。本来同じ目的のはずの他の場所でその運営に批判が出てい
ます。言葉のきつい本来協力者をその理由で排除していまい、排除されていない方までも何
かフェードアウトのようにどんどん消えて行ってしまって、少ない支援者がぞろぞろ湧き出て
くる価値観を全く共有しないアンチから総攻撃を受けてしまっている・・・で、運営側は支援も
せず放置。排除されてしまった強力論者が名を変えて助けにきてもまた排除・・・
6か月間ウオッチングしてきた(2〜3回だけコメント書き込みしました。ごきぶりが湧いてきまし
たが馬鹿馬鹿しいので放置しました−それで終了でした−)のですが、もう見ないことに決め
ました。支援側が多勢に無勢などという支援ブログって何の意味があるのでしょうか?
そして、有力論者が書き込みしなくなったという事は有力情報も齎されないということです。
そして支援者同士のそれに対する補足的審議もないということです。その結果、最近外の世
界でのミスに繋がってしました。苦虫を噛んでいた連中は大喜びで叩きました。
私はもう使命が終わったブログではないかと思います。気楽なかきこみもできない・・・
('16/10)
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