古代史学について思う事


どこに書こうかと思いましたが、「言いたい放題」一般としてここに書いておくことにしますm(__)m。

私は子供の頃から社会は地理以外苦手で特に、受験のための教科書歴史学というのは
嫌いでしたけど、古代史に全く興味がないわけではありませんでした。
但し、私自身、古代史についてはついロマンを求めてしまうのか、所謂、市販の異端本と
いうのをよく読んだ来た輩です(^^;。

古代史含めて歴史学というのは、基本、『昔』の話ですから、残っている記録文献や発掘
物などから類推されている学問ゆえ、それぞれの研究家の『想い』がそこにはどうしても
入る学問だろうと思います。ですから、多くの異端説が市販本の形で出されているのだろ
うと思うわけです。

私は基本、理系的人間ゆえ、中学の社会そして高校での世界史・日本史というのはテス
トのために人名とか年次とかの暗記にあくせくしただけで、面白くとも何ともなくだから嫌
いだったというわけでしたが、昨今、ネットサーフィンしている中でとても気になることを目
にして、もうテストには無関係になっているゆえもあって、「嫌い」というよりむしろ興味が
湧いてきている次第です。
そして、私は別に「反権威」ではないのですが、「アカデミズム歴史学・古代史学」に対す
る不信感がものすごく抱いてしまいました。一つは、中学高校時代、ごろ合わせで覚え
させられた年号、近年ではアカデミズム学者の中にも異説のあるものがあるということを
知ったこと、もう一つは、我々の時代、教科書に絵まで描かれていた「聖徳太子」が今や、
実在しなかった人物のような主張が大勢になったのか、あの絵どころかその名も出てこ
ないという実態を知って、「それじゃぁ、我々が習いテストにでたあれはなんだったのか?(ー_ー)!!」
と怒りと不信感がふつふつと私の中に芽生えたというわけでした。

私は前述のように、所謂、今では「とんでも」本とされるものを、ただ「面白いから」という
理由で多く読んできましたけど、だからと言って、根本的な「アカデミズム学問」に対する怒
りまで昇華したような不信感などというのはほとんど感じたりはしませんでした。
しかしながら、こういう私の中で芽生え始めた怒りにも似た不信感はもう一つのコーナーで書
き散らしている"science"だけでなく、それほど強い興味も感じなった『史学』においても、
「アカデミズム史学」に対して強く感じるようになった決定的なのは、古田史学と称せされて
いる「邪馬台国」に対する異端説を目にしたときでした。

元々、私自身、定説に反して、「〜はなかった・いなかった」というアカデミズム史学学者の
一部の方が唱えるような説にはあまり興味がなく、本屋にあった文庫本の「『邪馬台国』は
なかった」というのもそういうものの一つかと思ったのですが、どういうわけか購入して読ん
でみました(ちょっとそのときの自分の心情の記憶はないのですが、著者の古田武彦さんの
主張が「そういう国がなかった」というのではなく、それは邪馬『台』国ではなかったという主
張に興味を持って読んだのかもしれません)。

で、誤解を招かいないように言っておきますが、私はそれを読んで古田さんの『邪馬壹国』
説が絶対に正しいからと信じたことから言っているのではないということです(ま、私自身
は「とんでも本」好きですし、とんでもさんだと思われても別に構わないのですけどね)。
私が重視したのは、その本の中で古田さんが述べられた学問に対する心構え・信念なんで
す。彼が、そういう説を唱えだされた根本的なことが前の方で多く述べられており、私はそう
いう発想というか信念に強く賛同を覚えたというわけです。

その根源的な主張からの定説史学への批判を読みますと、その論理に置いて、逆に今の
定説の「おかしさ」に疑念がふつふつと湧いて来たんです。ところが、それに対して史学会
側はどうなのかというと、サイト記事によれば、直接、説を批判された方の反論、あとお二
人くらいの反論があったくらいで「完全無視」状態のようです。で、ネット上では科学の場合
と全く同じで、嘲笑・中傷罵倒攻撃ばかり・・・支持者に対しては「信者」呼ばわり・・・

私はその「現在の知見・常識に基づいた判断や自己のイデオロギーに基づく「一切の勝手
な改定」をしないで、論理的な解釈を進めたとおっしゃっている研究態度とそれを示した説
明を見て「なるほど」と思ったのですが、私自身は、元々「嫌い」な分野であり、詳しく調べた
り、考えたこともなかった超・浅学菲才の輩ゆえ、「うまく嵌められているだけ」かもと調べた
りしたのですが、私にとって説得力のあるような反論を目にできませんでした。

挙句の果てに、この方が偽書とされている東北の古代史書を取り上げたことで鬼の首をと
ったみたいに「とんでもさん」扱いで目の上のたんこぶであるこの方を葬り去ろうという極め
て汚い史学会の状況にすごく怒りを覚えました。

上で「科学の場合と全く同じで」と書いたのですが、ネット見るとすぐ目につくように、定説
に対する反対論が出てくると、大変失礼ながら「お弟子さん」(学徒、院生等)的なにおいを
感じてしまう方達が、まともな説得力のあるような強力な「逆反論」を出さないまま、頭から
そういうことを主張される方々を「低脳・馬鹿・変人」扱いして嘲笑罵倒しているのが多々あ
ります。私など、自分自身が浅学菲才の身であることを自覚しており、自分が納得できても、
それはどこかに大間違いの思いがあるかもしれないと思って調べたりするのですが、残念
ながら自分自身の納得を覆すような言説には全くお目にかかれていないわけです。

ですから、私個人としては、自分自身が「論理的」と納得するこういう定説に反する異端説や
定説への反論への賛同は私の無知によりなされた「洗脳」「思い込み」などではないと判断し
ているところです。というか、むしろ、そういうのを嘲笑罵倒する側に、定説bilieverのにおいさ
え強く感じてしまうのです。
せがれは私のことを「反対論信者」だと揶揄しましたが、「そうだよ」と居直ってやりました。
私は、結局、あることに関する論争と言うのは、所謂、それを信じている"believer" vs それ
がおかしいと信じるbelieverの戦いだと思っているんです。なぜなら、両者ともご自分の「信念」
に基づくものであり、それは広義の意味での"believe"によるものだからです。
ですから、相手を一方的に"believer"と罵倒して、「自分は違う」と思っている方は自分自身が
よくわかっていない方なんです。基本的には、「正しいのだ」と判断している方vs「正しくない」
と判断した方という構図でしかないのです。

私にとって、ある学説・理論に賛同できるか否かは、「誰がそれを言ったのか」ではなく、純粋
にそれが私にとって論理的で説得力があるか否かだけなんですね。ですから、「えらい先生
が言うから」などというのは全然判断材料にならないわけで、そういうのを「正しさ」の論拠に
置くような言説には不快感と反発しか覚えないんですが、ネット上にはそういう言説が沢山
あってうんざりしてしまいます。「権威」を持ち出さないと反論できないのかというわけです。
そんな「情けない」論理で相手がぎゃふんとなると思っているのかと疑ってしまいます。

反対論・異端説を唱える方や賛同される方って、言われなくても、「定説・正統理論は多くの
専門家の賛同を得てそうなった」くらい十分知ってます。ですから、それをわざわざ持ち出し
ても何にも反論になどなっていないのです。逆に、「学問は多数決かい?」と反発を感じるば
かりです。地球の人間ってそんなに優れているのか、英知を集めればなんでも解決するのか
と言いたいんですね。

私は多分に、中身を十分読まないまま、「定説への反対論」「異端論」というだけで最初から
色眼鏡で嘲笑罵倒しているだけだろうと思っています。反論以前なんですね。上で紹介した
古田学説についてもそんな気がしてなりません。「相手が何を言おうとしているのか」を十分
に読み取って考えようともせず、「感情論」が先立ち、あってもせいぜい斜め読み程度なん
ですね。だからこそ、私が一番欲しい点での反論などと言うのを全然お目にかかれないわ
けです。

私もそうですけど、人間って、ともすると自分の都合のよいように考え発言してしまいます。
多くの言説でも、「不都合」なことは得てして無視しています。それまでのご自分の言説行動
とは矛盾することを平気でその場その場ですることも多々あります。
だからこそ、そういう点を見落としていないかと自分を戒めながら調べたりしているわけです。
安易に「洗脳」されることを防ごうとしているわけです。権威と言えど、一介の人間でしかな
いわけです。

話が発散しかけてますが、要するに、言説には、論理的で説得性が欲しい、そこには「権威」
などというのは参考程度にしかならないということを言いたかっただけです。別に「反対論」
「異端論」が皆正しいなどと言っているわけではありません。説得力がなければ私の琴線に
は触れません。「権威」のものでも私にとって論理的で説得力があると感じるものは決して
否定したりしていません。
但し、私の好きなscienceとは違い、historyはあまりにも「権威」に疑わしさを感じるものが多
い感がしています。というのは、「隠されて来た」factが多々ある感がしてならないからです。
また、アカデミズムの非アカデミズムへの侮蔑心が特に感じられてならないのです。
ですから、東北の旧石器ねつ造事件について目にしたとき、彼らが一方的に彼を使っていた
学者批判するのを見て、「あなたたちにそんなえらそうに彼らを批判攻撃する権利ってあるの
か?」という不快感さえ覚えました。大変失礼ながら、功名心とエリート意識の点で五十歩百
歩、目くそ鼻くその類って気がしてなりません。そして、「前から批判してきたのだ」とここぞと
ばかり声を大にしてっしゃしゃり出てきた学者さんがいらっしゃるようですけど、「なぜそれま
でその批判に耳を傾けてもらえなかったのか−すなわち多くの人の心を動かして賛同を得
るだけの極めて論理的な説得力のあるものだったのか、孤立しても敢然と大声で主張を続
けてきたのか」と言いたいんですね。

批判されたもう故人になられた先生の人生に関する話を少し目にしましたが、私はNewton
のことを思い浮かべました。歴史的偉人でも、やはり皆「人間」なんですね。詳細は割愛し
ますけど・・・。

                                ('15/7)

目次に戻る