科学技術と一括で論じないで欲しい

前の仕訳論議の際もそうでしたけど、よく『科学技術』と一括で論じられます。
そして、科学批判に対して、必ず擁護側からは今の文化的生活は科学の発展によ
るものだという反論が見られます。

しかし、よく考えてみてください。科学と言うのは広い分野であり、元々『自然科学』
というように、所謂理系の学問(理学、工学、農学、医学、薬学など)全体の総称で
す。一方、技術というのはそれらから得られた知識を元に人類にとって有用な
を安全・安価に提供するためのもの
すなわち工業応用なのです。

そして、日本が敗戦国でかつ資源の無い小国土の小国にも係わらず先進国でや
ってこれたのは一重にこの『技術力』に尽きるのです。

最初は西欧先進国で開発されたものの『物まね』からスタートしてのは「事実」で
すが、単に「物まねで安価に作る」だけで先進国になれた訳では決してありませ
ん。個々には差はあるものの、日本人が豊かな製品を手に入れられるのはそう
いう土台の上に立っているということを忘れてはならないと思います。
要するに、培った技術(科学で割り切れない優れた技能も含む)でよりよい製品
を国内で製品化できたことで、雇用が生まれ収入向上という恩恵を国民は受け
てきたのです。色々なところでこういう基本的なことを理解していない、忘れた
「お花畑脳」主張を目にして一人悲憤慷慨しているところです(-_-メ)

で、ここはもう一つのコーナーではないので、科学ということに絞ります。

確かに工業製品のベースは基礎科学ですが、現在の工業応用の基礎科学って、
特に『物理学』に絞るなら皆はるか昔に確立したものだけ
ではないでしょうか?
ぶっちゃけ、ニュートン力学電磁気学そして、量子力学くら
いじゃないでしょうか?こういうのを駆使した工学側の研究努力が技術力・製品
力として人類に直接貢献してきたわけです。
但し、愚かな地球人類はそれを武器・兵器というものにまで応用してしまってい
ますが(-_-メ)

何がいいたいかといいますと、はっきり言って、科学をこういう人類全体に有益
または逆に有害ということで直接関係してくるもの(技術)
と科学者の知的好奇
心の追求だけのもの
とに区分して論じて欲しいということです。
但し、誤解を招くといけないので強調しておきますが、私は科学者の知的好奇
心の追求だけのものを無用などとは決して思ってはいませんし、そういう理由
だけで攻撃する人達には決して組みできません。むしろ大いにやるべきです。

しかし私が問題にしているのはその『やり方』なのです。そして、やっている人
達の『意識』です。

『科学信仰』などという揶揄・攻撃がなぜ出てくるのかについて真剣に考えてい
ただきたいのです。ネット見ていると明白ですが、テレビに出て来て「科学的」
ということばかり強調して異端説をけちょんけちょんに攻撃している学者が反発
発されています。米国で大型加速器の予算がおりなかった理由は科学者の横
柄な態度が議会を怒らせたこともあるという話を目にしています。

限られた資産を使うのです。そして、それは端的に言ってしまえば、科学者の
知的好奇心の追求のためのものです。人類の生活自体には直接関係してこ
ないものです。ですから、研究資金を貰うというのは「科学者の権利」ではない
のです。

どうも見ていると、『俺は優秀だから学者になれたのだ』というおかしな自負心
に凝り固まっている輩が多々見受けられます。そして、皆、スポットライト浴び
ていることばかりやりたがる・・・身近を見れば、決して科学が解明できていな
いことが極めて多くあるのに、地味でかつ簡単でないためにそういうのは無視
していているのです。

スポットライト浴びているものはマズゴミの注目度も高いため、そこに属してい
る学者は高名にもなりやすいのです。そして「学者は偉い」と思い込んでいる多
くの一般市民はそういうメディアに頻繁に登場する学者を一流学者と思い込ん
でいて、マズゴミや周囲からちやほやされることで当人も思い上がっている気
がしてなりません。そして、そういう方面に予算も厚く出されるのです。

結局、「科学者の知的好奇心の追求」が「本当のあり方」ではない別の事情で
差別化されてしまっているわけです。

これは昔からそうでしょうが、綿々と続いているわけです。こういう世界的な科
学界の一貫して変わらない状況から見ると「パラダイムシフト」がいかに困難
かは誰が考えてもわかりますよね。要するに、過去にあったトーマス・クーン
が唱えた「パラダイムシフト」は私から見るとその時の歴史的幸運だけによる
極めて特例だと思えるのです。

このコーナーは「現代科学へのいちゃもん」という名前を付けていますけど、
率直にいますと、『現代物理学者』へのいちゃもんの意図で書いています。
彼らが語る科学のあり方は私から見れば極めてご都合主義ダブスタ主張
です。本音と建前に乖離が大きすぎるのです。

税金で自分の「科学的好奇心の追求」をさせてもらって生活させてもらって
いるということを真に噛みしめていただきたいのです。それを国の名誉みた
いに都合よく置き換えたり、科学技術と一括りにしての主張にすり替えない
でいただきたいということです。

特に日本では、主流パラダイムからはずれるものは排除・敵視または無視
されています。けっして公平に「科学的好奇心の追求」がなされているわけ
ではありません。
そうしてアカデミーではない民間や非専門家・一般市民更には同じアカデミー
でも別の専門家の疑問・主張は全てペテン・エセと決めつけ「科学的好奇心
の追求」を御自分達だけで独占しようとしてきたわけです。
恐らく、『科学信仰』批判の多くは『科学者批判』だろうと思います。
アカデミーの『専門家』はその方面の過去の研究成果は熟知しているのは
当然でしょう。しかし、それだけで優れているのでしょうか?

定説地震学に異を唱えていらっしゃる元・名工大の石田先生のサイト
(⇒セミナー)に 初代東大地震研所長の石本博士の「科学への道」という本
からの抜粋があります。更に部分的抜粋ですが(それでも長いですが(^_^;))・・・

 「事実と系統とが教えられてしまうと、今度新しい事実が出て来ても両立
 しない場合に於ては新事実の出現を知らぬことにするか、認めない態度
 に出る学者がいる。これは全く先入主が心の中にあまり幅をきかして
 おる
結果にほかならない。・・・・・・・・
 元来科学書というものは、すべて正しいことが書いてあると思うと大間違
 である。たいがいの本は早ければ十年、遅くとも二十年を経れば、そ
 の大半の頁は書き直さなければならぬ運命に逢着する。
 ・・・・なお注意すべきことは未だ充分検討の足りない学問に於てはとくに
 然りであって、大学で習ったことを後生大事に覚えて
 いる者の方が後れ、全部忘れてしまったものの
 方がかえって成功をするのである

 ・・・・・・一体科学というものは、現象のすべて自然に備っているものを、
 各時代ある限定された知識を以て説明せんとするものであるから、その
 時代に於いてある現象が説明し得たと思っても、新事実が出れば破壊
 されてしまうのである。即ち、今日の自然現象は今日の知識を以て説明
 されるものであって、明日は当然明日の知識を以て、再び説明さるべき
 ものである。この結果として学説の生るべきは当然ながら、これを固守
 すれば飛んでもないことに陥ってしまうのである。
 今日の学説は明日の学説ならざるものが多い
 のである。」
 (注:大文字・太字・アンダーラインは私がつけたものです)

 どうですか?まさに我が意を得たりです。学者さんの重い言葉です。

「科学的好奇心の追求」というのは貧しい国では為政者・国民のの理解が
無い限り許されない言葉が悪いのですが言わば『道楽』なのです。
ですから、それを許される国にいるならもっと科学者は謙虚であるべき
です。「上から目線のエセ科学批判活動」などというのは謙虚さのかけらも
ない傲慢不遜なもっての外の行為
なのです。こんなものを擁護し正当性を
主張する連中は同じ穴の狢に過ぎません。
「科学」はアカデミーだけに認められ許されているものではありませんし、自
分達だけが正当であり予算を貰う権利があるなどという特権階級でもない
のです。国民の理解の上にたって「科学的好奇心の追求」をさせてもらって
いるのであるという謙虚さ
を持っていただきたいものです。

目次に戻る