直接観測、直接実証試験
私はこのコーナーでひたすら直接実証というキーワードを多用しています。
私は直接観測・直接実験で出て来た生データは観測者・実験者の気が付いていないかも
しれない条件がたとえ含まれていようが、測定装置が出した『実際の数値』だと考えます。
そしてこの得られた生データだけが真に客観的なものと考えます。
確かに何を観測するか、そしてその観測にどういう装置を使うかは観測者・実験者の意図に
よるものですけど、出て来た生データそのものには観測者・実験者の意識は入らないからで
す。これはある程度結果を予測してやる場合も想定せずにやる場合でも同じです。
問題はその生データをどのように処理するかということにあります。そして、ここからはいくら
学者が否定しようが間違いなくデータを扱う人間の『主観』が入ってくるのです。
そして、ここからが理学(数学を除く)と工学(実現される物を作り出す工学応用としての話)
の大きな相違があります。後者は元は理学の実用的応用という意味合いがあり、頭の中だ
けの学問ではありませんから、基本線は確立した理論に基づいているわけです。
別の項でシュミーレションということに触れましたけど、工学応用の場合は直接実験実証と
いうのは比較的容易であり、ある程度確立した理論でのシュミレーションですから、確実な
直接実証試験とのつき合わせをやることを条件として有用です。
しかしながら、理学の世界は現代の標準理論・主流理論・定説が本当に真理かどうか確定
しているわけではありません。そういう世界であることは間違いのないことだと思います(ど
うも自分が正しいと信じている理論は真理・原理とまで思いこまれている方も多々いるよう
ですけど、これも私の思い込みかもしれませんが、それは「本当かどうか」完全に確定して
いるわけではないという考えです。見解の相違というわけですからその溝はうまりませんし、
ま、こちらは確かに無責任な素人ですけどね(^_^;))。
そうなると、どういう意図で、どういう思考でその生データを処理するかが結果に大きな影
響を与えるのは間違いないでしょう。これは誰がどう言おうと確かなことでしょう。
前の方で別項で書きましたが、量子力学の草創期に行われた実験結果というのはどういう
結果が出てくるのかあらかじめ予測していたわけではありません。ですからデータ処理に所
謂恣意性は入っていませんでした。生データをグラフ化した結果でなぜそうなるかを考えた
わけです。
聞くところによれば、まだまだ「とんでも扱い」している学者・弟子達が多く日本でそれを研究
している学者・研究者は非常に少ない『常温核反応』ですけど、その研究者が数少ない日本
で御活躍されていらっしゃる方は元々そんなものを意図したわけでなくある実験で信じられ
ない結果を繰り返しえたことからその世界に入られたそうです。話によれば御自身の立身
を犠牲にされたようです。これこそ私は真の科学者だと思うのですけどねぇ・・・
一方であらかじめそのときの主流の思考や定説理論を想定しての「実証試験」「直接観測」
というものがあります。その場合、そのとき出て来た「生データ」をどのように扱うかはそれを
処理する方達の寄って立つ立場も含まれる『主観』が確実に入り込む可能性があります。
「生データ」ですからそのまま不都合だからとゴミ箱行きになるかもしれません。
データ捏造事件だって出ているくらいですから。捨ててしまう方は罪にもなりませんからね。
そして多くの生データからあれこれこじつけて都合のよいデータだけ抽出処理という恣意的
なことをしても権威の名の元にそのまま功績として歴史に残されているものだってあります。
別項で触れましたのでここではあえて書きませんが。
ここでも『誰が』ということと『主流』理論ということが優先されている例が露呈しています。
一方、主流でないもの、権威者の発表でないものは徹底的にいわば「けちがつけられます」。
日立の外村さんのベクトルポテンシャル検証実験も最初のものはそうだったようです。
ただ、これはその結果が数字でなく、よりビジュアルな写真提示でしたから強いですね。試験
条件にけちつけようがなかってわずか1枚の写真で長年の議論が決着したそうですから。
少なくとも、けちがつけられようもないこういう実証データが出てしまうと、否が応でもいくら
エレガントに見え、標準理論的になっていても少なくとも信奉学者に修正を強いることには
なります。人間が脳内でいくらうまくつじつまわせできていてもこういう直接実証データの前
前にはむなしいものです。
だからこそ、私は直接観測・直接実証試験というのを強く主張しているのです。ただし、デー
タの恣意的処理というのは絶対に許されません。それは実証にはならないどころか、逆の
意味で極めて悪質な真理追求への裏切り行為だからです。データ捏造と言う行為と五十歩
百歩なのです。
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